キノコを喰らうキョンシーの伝説
挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」と「Ainova AI」を使用させて頂きました。
これは中国大陸が満州族の清王朝によって統治されていた頃に、ワシの村に住んでいた行商人の男から聞いた話じゃ。
今でこそ「元町の御隠居様」と皆から呼ばれておるワシじゃが、当時は「向家の陽秀坊」と呼ばれていた年端も行かぬ小僧っ子に過ぎなくてのう。
自力で見て回れる行動範囲など、故郷の村の中だけという限られた物じゃった。
じゃからこそ、その行商人の男が旅先で見聞きした珍しい話には目を輝かせた物じゃったよ。
幼き日のワシのような子供達が話をせがむ物じゃから、行商人の男もより面白い話を仕入れようと心掛けるようになってな。
ところがある年の梅雨時に帰郷した時だけは、旅先で仕入れた話をなかなか切り出さなかったのじゃ。
「良いかい、陽秀坊?この話を聞いてから何か苦手な食べ物が出来たとしても、おじさんの事を責めないでくれよな。それを約束出来るなら話してあげても構わないよ。」
何とも意味深長な物言いじゃったが、幼き日のワシは好奇心の赴くままに頷いたのじゃよ。
今日で言う広東省や広西省にあたる嶺南地方を旅していた行商人は、地図にもないような山間の小道を辿っていた最中に突然の豪雨に遭ってしまったのじゃよ。
只でさえ日が暮れかかり、夜の闇が迫ろうとしていた山中じゃ。
これに加えて雨にまで見舞われては、一夜を過ごすのは危険極まりない。
獰猛な獣や山賊に襲われては、ひとたまりもないからのう。
そうして必死に道を探していた行商人の前に、笠を被った人影が現れたのじゃ。
「助かった…」
山賊ならば単独で行動している訳が無いからのう。
その人影は妙に硬直したようなぎこちない足取りじゃったが、そんな些細な事はもう気にならなかったのじゃ。
「もし、そこの方!道に迷ってしまいまして…」
懸命に呼び掛ける行商人の声も、果たして聞こえているのかいないのか。
その人影は行商人のいる方角へと、少しずつ近づいていったのじゃ。
硬直したようなぎこちない足取りと、至って規則正しい歩幅でのう。
そうして人影の顔立ちが目視で確認出来るまで間合いを詰められた時、行商人は気付いてしまったのじゃ。
あの人影が自分の呼び掛けに応じなかった理由は何なのか、そして何故あのようにぎこちない足取りなのかをな。
「ひっ!」
そこに立っていたのは、紛う事なきキョンシーであった。
しかし単なるキョンシーならば、ここまで行商人も驚かなかったであろう。
ボロボロに風化した満州族の官服を纏っていたが、行商人の出会ったキョンシーの顔は既に人の形を為していなかったのじゃ。
官服から露出しておる顔や手の皮膚は青黒く変色しており、随分前に生命が失われた事は一目瞭然じゃった。
しかも無残に崩れた肉の間からは、見るも悍ましい白や緑のカビがびっしりと生えておったのじゃ。
それはあたかも、異民族が作る奇妙な刺繍のようであった。
そして何よりも悍ましいのは、その眼窩と頭頂部から突き出すように生えた傘の大きなキノコじゃった。
身体中から無数にキノコは黒々とした胞子をまき散らしており、腐臭と共に湿気を帯びた胞子の匂いが行商人の鼻腔を否応なしに刺激したのじゃよ。
「もはや、これまでか…」
行商人に出来る事と言えば、己の死を覚悟して潔く目を閉じる事ぐらいじゃった。
じゃが、いつまで経ってもその瞬間はやって来なかった。
息の匂いを嗅げる至近距離まで間合いを詰めたというのに、そのキョンシーは行商人に全く関心を示さなかったのじゃ。
そして一本の古びた木に目掛けて、猛然と突っ込んでいったのじゃよ。
そうして幹を抱き締めるようにしがみつくと、何かを勢いよく貪り食い始めたのじゃ。
「な、何と醜怪な…」
行商人が思わず眉を顰めたのも、無理はあるまいて。
殺した蜀の民達を糧食に変えてしまった張献忠の軍勢ですら、ここまで浅ましくはなかったじゃろうからな。
それでも、キョンシーが何を食らっているのか興味が湧いたのじゃろう。
気付かれないよう息を潜めて後退りしながらも、行商人の視線はキョンシーの口元に釘付けになっていたのじゃ。
しかし程無くして、その好奇心は後悔に変わってしまうのじゃがな。
「コイツ、木の幹に生えたキノコを…」
何とキョンシーが貪り食っていたのは、木の幹にビッシリと生えたサルノコシカケだったのじゃ。
確かにサルノコシカケは煎じて飲む事もあるが、生のままで貪り食う事はあまりないからのう。
じゃが、その後に起きる事に比べれば幾分かはマシだったろうな。
「旨い…何という美味だ…」
地獄の底から響いてくるような陰々滅々たる声は、紛れもなくキョンシーが発した物じゃった。
そしてカビ臭い胞子混じりの溜め息を漏らした次の瞬間、キョンシーの身体のアチコチから無数のキノコがムクムクと生えてきたのじゃよ。
そうして山中に消えていくキョンシーの後ろ姿を、行商人はただ見つめる事しか出来なかったのじゃ…
何処をどうやって通ったのか、まるで定かではなかった。
どうにか麓の人里へ辿り着いた時には、行商人は足腰がすっかり立たなくなっていたのじゃ。
「まあ、旅の人!一体どうなさったのです?」
出迎えた村娘が絶句したのも、無理もないじゃろうな。
髪も着物も泥だらけの、それは酷い有り様だったらしい。
「亡者が…身体の崩れたキョンシーがキノコだらけに…」
行商人は山中で目撃した一部始終を懸命に伝えようとしたが、村人達の目には彼こそが当の亡者であるかのように感じたじゃろうな。
「ああ、旅の人…それは昔この村に住んでいた、腕利きの料理人の成れの果てですよ。」
村の古老が言うには、今から数十年前にキノコ料理に詳しい料理人が住んでおったらしい。
この料理人は大の美食家でもあり、特に珍しいキノコをこよなく愛していたのじゃ。
梅雨の時期になると彼は毎日のように山に入り、誰も知らぬ隠れた場所で珍しいキノコを採取してきたそうな。
或いは新しいキノコ料理を編み出して、紫禁城の厨房に売り込む野心もあったのかも知れんのう。
ところが或る梅雨の日を境に、その料理人は行方をくらましてしまった。
珍しいキノコを素材とする、漢方式の頭痛薬の覚え書きを残してな。
それから数年後、山菜採りに裏山へ入った村人によって件の料理人は発見されたのじゃ。
崩れた全身がキノコに覆われた、悍ましいキョンシーの姿でな。
地元の道士が調べた所によると、どうやら件の料理人は様々なキノコを貪り食ううちに中毒で頓死してしまい、やがて苗床としてキノコに操られるキョンシーとして蘇ってしまったそうな。
キノコを貪って徘徊するだけで害はないから、そうして捨て置かれておるがな。
時には道士がキノコを採集して頭痛薬に仕立てていたらしい。
じゃが、やがて英国から西洋薬が輸入されるようになってからは見向きもされんようになったそうな。
そうして料理人の成れの果てであるキノコキョンシーの去就は、誰一人として分らんようになってしもうたのじゃ。
もしかしたら今もなお、キノコを喰らいながら山中を彷徨うておるのかも知れんのう…
円卓に着席した二人の連れ合いは、ただ青白い顔をして無言で見つめ合うばかりじゃった。
こんな話を聞いては、それも無理はあるまいな。
「ううむ、実に御時節柄でんな…この御話を御隠居はんから御聞きしますと『今年もボチボチ梅雨入りやな…』と改めて感じてしまいますわ。」
先に口を開いたのは、大阪市に居を構える昔馴染みの方じゃった。
この関西弁特有の発音を聞けば、彼女が周囲から「曹木蘭」という本名よりも「島之内の姐さん」という愛称で呼ばれる機会の方が多いのも道理と頷けるじゃろう。
「どないしたんや、美竜ちゃん?さっきからポカンと口開けて鳩が豆鉄砲でも食らったみたいな顔してるようやけど、あんた大丈夫かいな?」
「あっ…はい、大丈夫です!お気遣いありがとう御座います、島之内の姐さん。御隠居様のお話があまりにも凄絶だった物で、つい…」
関西弁の気さくな呼び掛けに応じた三人目は、堺市の総合大学に在籍している台湾出身の留学生じゃ。
向学心旺盛で年長者にも素直という、実に感心な娘さんじゃ。
我々二人にとっては随分と下の世代の知人という事になるが、我々の集まりに若い世代が来てくれるというのは喜ばしい限りじゃよ。
何しろ日本の大学へ進学する前は、至って普通の娘さんだったのじゃからな。
「怖い話ですね、御隠居様。身体にカビやキノコが生えてしまうだなんて…」
「まあ、清代末期という昔の話じゃからな。今は二十一世紀で人間社会の文明も発展しておるから、そんな事は間違っても起きやせん。」
それが単なる社交辞令ではない事は、微かな声の震えからも一目瞭然じゃった。
怪談話でおどかし過ぎてしまったならば、可哀想な事をしてしまったのう…
「そう言う事やがな、美竜ちゃん。あんたの下宿の賃貸マンションにも、最新のエアコンが完備されているんやろ?それを除湿モードにして清潔にしといたら、カビなんて生えるかいな。」
「そうですよね、姐さん。ここの中華料理屋さんみたいにしっかり空調を効かせていれば、大丈夫ですよね。」
そうして屈託なく笑う姿は、同年代の女子学生と何ら変わる所がない。
エアコンの風にヒラヒラと揺れる額の黄色い霊符と、すっかり血の気が失せて青白く染まった顔色に目を瞑ればの話じゃったが。
そうしている間に料理も運ばれて来たようじゃし、そろそろ乾杯の音頭を取る頃合いじゃな。
「さあさあ、お二人さん。冷めないうちに召し上がろうではありませんか。デザートの桃饅頭は杏仁豆腐に差し替えて頂きましたので、我々のような者も安心して召し上がれますぞ。」
「それは助かりますよ、御隠居様。こないだ大学の飲み会で間違って桃サワーを飲んでしまったら、しばらく体調を崩しちゃったんですよ。」
「気ぃ付けや、美竜ちゃん。桃の木の剣は特にそうやけど、私等にとって桃は相性最悪やねんから。人間やった頃のノリでやってもうたら、色々と痛い目遭うんやで。」
こうした道教由来の知識も、キョンシーとして生きる上で学ばなければならんじゃろう。
まあ、そう焦らせる事も無いじゃろうな。
悠久を生きるキョンシーにとって、時間は幾らでもあるのじゃから。
清朝末期にキョンシーになった我々が、そうであるようにな。