その五
「…………な、なな、な……」
サイネはしばらく、口をぽかんと開けて固まっていた。
微塵も動かずに、鉄分臭い溶液と化した鉄格子だったものを眺めて、ただ呆然。
俺はそれを見て『どんなもんだい』と得意気に鼻を鳴らし、携帯を閉じてズボンのポケットにしまう。
『腐敗』の魔法は、滞りなく成功した。
俺が詠唱した刹那、頭で描いた通りのヘキサグラムが空中に展開され、次の瞬間には黒いもやのような物体が鉄格子を覆っていた。そして黒いもやの中でじゅわっと激しい音が立ち、勢いよく水蒸気が噴き出したかと思うと、もやが晴れた頃には銀色の液体しか残っていなかった。
俺は複雑な心境に陥る。
生まれて初めて魔法が使えたことに感激はもちろんしていたが、同時に自分自身の軽率さに戦慄すら覚えていた。
キリカ直伝の上位魔法『完全なる腐敗』。
実際に使ってみて分かったことだがこの魔法、火力が半端ない。
すぐに気付いて全力で制御したから良かったものの、本当の威力を発揮すれば鉄格子を腐らせるなんてセコい被害では済まない。
万が一これがフルスロットルだったら、今頃サイネが腐臭漂うスライムになっているのはもちろんのこと、それ以前に建物全体が液化していた。
俺はスライムになったサイネを見なくて済んで良かったと、心の底から安堵する。
あの野郎、とんでもない魔法をサラッと教えやがって。
キリカが『この程度』呼ばわりしていた魔法は、この世界からしてみれば多分『最強』の部類だった。
この魔法一つあれば、世界征服も割りと簡単な気がする。
「ア、アンタ本当に何なの!? 勇者とか絶対嘘じゃない!! 勇者のくせに『完全なる腐敗』って…………。
だいたい! 昨日までクリトピエムに居なかった人間が何で平然と禁忌使ってるのよ!? 私を馬鹿にしてるの!? 死ぬの!?」
サイネのキャラが、早くも崩壊しかかっていた。
我に返ったサイネは、慌てふためいた様子で俺に向かって怒鳴り散し、顔を真っ赤にして目を見開く。
そこに、数分前までの淡々と毒を吐く『私は不機嫌です』と顔に文字を貼り付けた生意気少女の姿はなく、あるのはただの生意気な少女だった。
俺はその様子に何処か優越感を感じ、事実主導権を握った気がする。が、
「ちょっと待て」
今流すに流せない、かなり俺に不似合いなワードを耳にした気がする。
「禁忌? 今禁忌って言ったか? あの魔法、禁忌だったのか?」
「はあ? 当たり前じゃない。三年前にあの魔法で街一つ腐ったの知らないの? 禁忌に加えられない訳ないじゃない。そんな狂った魔法」
キリカが『この程度』呼ばわりしていた魔法は、最強どころか禁忌だった。
…………おいおい。
「知るか。俺は今日ここに来たんだ。俺の知り合いが『この程度』と言っていたから、肩慣らしに丁度良いと思って使ってみただけだしな。それがまさか禁忌だったとは、俺が一番驚いてる」
はあ? アンタの知り合い、頭沸いてるかもしかして魔王なんじゃないの?
という返答に、俺は心臓が止まるかと思った。
サイネは当然冗談のつもりだったのだろうが、冗談じゃない。
あいつは魔王だからな。
俺はわざとらしく咳払いをして、明後日の方向を向く。
話を逸さないと、展開が嫌な流れになる気がする。
俺は禁忌ですら『この程度』呼ばわりしたキリカの気宇壮大っぷりに呆れながら、とりあえずサイネに提案した。
「まあ、そんな取るに足りらない些事は置いといてだ。さっさと此所を出るぞ。できる限り、誰にも見つからずに脱出したいしな」
サイネは無理矢理話を逸らされた事が気に食わなかったのか、眉間にシワを寄せて俺を睨み、しかしそれももっともだと判断したのか、渋々といった感じに了承した。
束の間だった。
サイネは大仰な仕草で両腕を広げ『やれやれ』のポーズを取ると、面倒臭そうに言った。
「…………どうやら、ど派手で痛快な、血みどろの大脱出スペクタクルを試みるしか、手はないみたいだけど?」
俺は気付き、ごくりと生唾を飲み込んだ。
耳を澄ますまでもなく聞こえてくる、無数のせわしない足音。聞こえてくる怒声。
考えるまでもなく、彼等の目的地は此所だった。
俺は急に目眩がした気がして、頭を抱えてため息を吐く。
サイネはまるで他人事のように、事態を傍観していた。
「これも下らない無駄話をしていたアンタのせいね」
「万歩譲ったとしても二人の原因だ」
こんな他愛のない掛け合いをしている余裕は全くなかったが、それでもしっかりと受け答えする俺は割りと律義だった。
数秒と経たず、俺達の前に数十人の見た目むさ苦しい男達が血気盛んな様相で集合していた。
彼等がこの監獄の看守なのは最早言うまでもなく、あれだけサイネが大声を張り上げていたのだからそれも当然だった。 俺は露骨に顔をしかめる。
ふははっ、俺の実力を爆発させてやる!
なんて、意気揚々と彼等を向かい入れる気になど、到底なれなかった。
俺はおもむろに携帯を取り出して、耳に当てる。
初めての実戦は、流石にちょっと緊張気味だった。