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その他短編

丹沢の紫蘇屋敷

作者: 蘭鍾馗

丹沢山からの下山中に山崩れに遭遇した青年が、一緒に巻き込まれた初老の男を助ける。足を挫いた男を男の持つ山小屋まで送るが、日が暮れてきたためその小屋に泊まることになる。そこで、青年は男の出自やこの山に住むことになった経緯を聞かされる。男は自分は「山賊」だと云うのだが・・・

 その日、僕は少しばかり油断していたと思う。


 天気は良かったし、ほぼ予定通りの時刻に丹沢山の山頂に着いた。山頂で握り飯を食べて愛用のニコンで写真を撮り、予定より少し早めの時刻に山頂を発って、下山している途中だった。

 

 僕の前には、腰に鉈を下げた初老の男が歩いていた。登山者のようには見えない。炭焼きか山菜採りだろうか。そんなことを考えながら、谷沿いに今を盛りに咲く山桜に見とれて歩いていると、突然目の前で登山道が崩れ落ちた。


 今にして思えば、予兆はあったのだ。


 登山道が崩れ落ちる直前、小さな石が幾つか落ちる音を確かに聞いていた。

 大正十二年の関東大震災とその翌年の地震で、丹沢山は姿が変わる程崩れ、地山にひびが入って、以来丹沢は崩れやすい山になったと誰かから聞いた。そんな話を忘れていたわけでもなく、そのあたりの用心はしていたつもりだった。


 ただ、桜がきれいだったのだ。


 登山道の少し上の斜面で杉の木が動いた、と思った次の瞬間、それは目の前の登山道ごと崩れて谷へと流れた。僕と、その前を歩いていた初老の男は、咄嗟に引き返そうとしたのだが、その刹那、足元が崩れ、山崩れに巻き込まれてしまった。

 幸いなことに、我々が巻き込まれたのは山崩れのほんの端の方であり、土砂ごと谷底へもっていかれる、という最悪の事態は避けられた。しかし足元を掬われたため、体勢を崩して十米ほど斜面を滑り落ちる格好となった。


 痛い。崩壊した岩の角で右手と左足に少し大きめの擦り傷と打撲を負った。しかし骨などは折れていないようである。立ち上がり、歩くことができた。

 運が良かった。しかし、僕の前を歩いていた初老の男は、僕よりも少し下で、下半身が半分ほど土砂に埋もれているように見えた。


 とりあえず僕は動ける。初老の男を助けなければ、と思った。


 大丈夫ですか。


 声をかけると、おお、と返事が返ってきた。男の下半身は土砂に埋もれているかに見えたが、足を覆う土砂の量は大したことはなく、自分で立ち上がって歩こうとした。が、次の瞬間、がっくりと膝をついてしまった。


「足をひねった。」


 右足首を捻挫しているようだ。捻挫だけならば良いが、骨が折れている可能性もある。右足首を触ってみる。


 痛いですか。

「ああ、痛い。痛いが、折れてはいないようだな。」

 ここは危ない。下に降りましょう。歩けますか。

「おお、すまん。肩貸してくれ。」


 この斜面を五十米ほど下りれば、崩れた先でカーブして戻ってくる登山道に降りられる。それが出来なければ、山頂の山小屋まで登り返すしかないだろう。

 足場の悪い斜面を慎重に少しずつ下りて、なんとか登山道に戻った頃には、日が傾きはじめていた。


「この足じゃ、今日はもう明るいうちに降りられんな。この先に俺の作り小屋があるんでな。すまんがそこまで連れて行ってくれ。」

 わかりました。


 初老の男に肩を貸しながら、登山道をゆっくりと一時間ほども歩いただろうか、右手に男の言う作り小屋が見えてきた。


 あれですか。

「あれだ。ああ、ありがとう。助かった。本当に助かった。」

 男が初めて笑った。

 作り小屋に着いた。男はズボンのポケットから鍵を取り出すと、入り口の南京錠をはずして扉を開けた。


「サンカがざまあねえやな。」


 サンカ、と言ったように聞こえたが、意味はわからなかった。

「入ってくれ。今日はもうここで泊まるしかねえや。」


 ◇


「荷物下ろして楽にしてくれ。」


 小屋の中は狭いが、人が二人、十分に寝られる程度の広さはある。床には小さな囲炉裏が切ってある。

「今日はたまたまだが、米があるんだ。」

 土間に置いた甕から、男は米を二合ほど取り出して鍋に入れた。

「研いでくるな。」

 近くの斜面に小さな湧水があり、水には困らないようだ。


 作り小屋、と男は言っていたが、近くに畑らしきものはない。かといって炭焼き小屋でもない。目的はわからないが、仕事のためにそこで一時的に生活できるように作られた小屋だろう。布団や鍋、食器や酒まである。


 もうじき日が暮れる。日が暮れると、山は鹿や猪が我が物顔に闊歩しはじめる。熊もいるかも知れない。獣は暗くなると人を怖がらなくなるのだ。そんな時間に山を下りる度胸は僕にはない。男のいう通りここに泊めてもらう他ないだろう。


 リュックを下ろして、手足の怪我を確認する。歩いている間に血はあらかた止まったようだ。土間に出て水筒の水で傷口を洗う。タオルで軽く拭いてから囲炉裏のそばへ戻る。歩くと床がきしむ。座るときに奥の棚が大きく揺れた。揺れた拍子に何かが棚の上から落ちてきた。何か重たい金属製のものだ。元の所に戻そうと近寄ってみて、驚いた。


 拳銃だ。


 丁度その時、米を研ぎ終わった男が戻ってきた。

 一瞬、男の表情が固くなったが、すぐににやりと笑ってこう言った。


「ああ、見ちまったか。」


 男は鍋を置き、床に落ちた拳銃を拾った。

「モーゼルだよ。旧陸軍のモ式大型拳銃、ってやつだ。終戦の時に中国からの引き揚げでこっそり持ち込んだやつがいるんだよ。それをやくざが手に入れてな、で、おれがそれを博打で巻き上げた。」

 そう言うと男は大きな声で笑った。男は拳銃を天井に向け、引き金を引いて見せた。が、何やら鈍い音がして、引き金が途中までしか引けない。

「でもな、壊れてるんだ。修理はできねえし弾も手に入らんから、まあ飾りもんだよな。質にも入れらんねえし、博打のカタは他のもんにすりゃよかった。」

 男は再び大きな声で笑う。僕はぽかんとして拳銃を見つめる他なかった。

「いや、棚の上なんぞに置いておいた俺が悪いんだ。びっくりさせて悪かった。とにかく今日はありがとうな。晩飯にしよう。」


 ◇


 男は拳銃を棚の中にしまい、代わりにコシアブラとタラノメと何かの干し肉、味噌、醤油、煮干しを取り出した。


「コシアブラとタラノメは今朝とったもんだ。これで雑炊を作る。うまいぞ。」


 まな板代わりの木の切株で、材料を細かく切って鍋に入れる。

「味噌は最後に入れる。煮えるのにしばらくかかるから、まあ、飲もうや。」


 男は棚の奥から一升瓶を取り出し、さらに棚から、粗末な小屋にはおよそ不釣り合いな、木地引きのとても美しいぐい呑みを取り出して注ぐと、僕に差出した。


 ありがとうございます。いただきます。


 焼酎だった。


 ところで、足は大丈夫ですか。

「うん、まだ結構痛いが、うんとゆっくりなら歩けそうだな。あんたは大丈夫なのか。」

 僕は大丈夫でした。打ち身と擦り傷だけで。血も止まったし、傷口はさっき洗いましたから。

「そうか。ああ・・・・、お互い死ななくてよかった。あそこへ通りがかるのがもう少し早かったら、今頃俺たちゃ違うとこで酒飲んでるぞ。ははは。」


 雑炊が煮えるまで、干し肉で焼酎を飲む。


 うまい。何の肉ですか。

「アナグマだよ。うまいだろ。」


 ◇


「俺はな、山窩サンカなんだよ。」


 男は雑炊を作りながら、話しはじめた。

「山窩ってのはな、ずうっと昔から山で暮らしてきた人間だ。田畑はつくらねえ。山で獣をとったり、山菜をとったり、川で魚をとったりして暮らしてきたんだ。手先の器用なやつは、木を切ってろくろでひいて椀なんかを作ってな、棕櫚箒やたわしを作って売ってるやつもいる。それ、そのぐい飲み、知り合いの山窩がくれたもんだ。あと、川でメダケをとって籠を編むやつもいるな。里の連中は俺らのことを不逞の輩だと思ってるよ。」

 男は焼酎をぐいとあおり、こう言った。

「まあ、実際そうだけどなあ。あんたの見た通りだよ。」

 男が笑う。

 入口を開けるとき、男が言っていた言葉を思い出した。山暮らしの山窩のくせに、山で怪我するなぞ情けない、という意味だったのだ。


「まあでも、丹沢は怖い山だ。大して高くはないが、谷が深くて上の方は痩せ尾根だ。下の方も足元はガラガラだし、油断してっとああやって突然崩れるしな。あと怖いもんといえば、熊が西の方にいるらしいが、この辺では見たことねえな。」


 雑炊が煮えてきた。男が味噌を入れる。

「このへんの山にうまいもんは少ないのよ。熊がいないのはそのせいかもな。」


「で、俺は何をして食っているかというとな。」

 いい匂いがしてきた。雑炊が煮えたのだ。男が椀によそって僕に勧める。

「まあ、山賊かな。ははは。」

 山賊。全く予想外の言葉を聞く。

「そんなもんが今の世の中に居るのかよ、って顔だな。」


 当惑しながら、とりあえず雑炊を食べる。

 いただきます。

 うまい。


「どんどん喰ってくれよ。いっぱい炊いちまったからな。」

 雑炊は煮干しと干し肉から出汁が出て、白味噌のいい香りがする。山菜は丁寧に刻んであって、こう言っては何だが、粗野に見える男の風貌からは想像できない上品な雑炊だ。


 ◇


「俺のことを話すよ。」


 雑炊を食べながら、男は話しはじめた。

「なんかなあ、何だか知らんがあんたにはしゃべっておきたくなった。」

 そうですか。

 僕で良ければお聞きしますよ。

「まあ、禄な話ではないがな。酒の肴と思って聞いてくれ。」


 ◇


「俺の生まれは三重の山奥だ。大杉谷という所だよ。」

 男はぐい呑みの焼酎を飲み干すと、ゆっくりと話し始めた。


「俺の親父は山奥で炭焼きと猟師をやっていた。炭は軽いからな。山を下りて売りに行くのに都合がいい。猟のほうは商売というより、自分たちが喰うためだった。が、まあそれだけでは食えないから、他にも色々なことをやって暮らしておったのさ。」

「まあ、法に触れることもやる。」

「たとえば、炭焼きな。自分で山を持っておるわけではないから、この辺がいいだろうと思った山に、勝手に入って雑木を切る。里の近くでやると人に見つかるから、うんと山奥に入ってやる。ところがな。」


 男は自分のぐい呑みに、再び並々と焼酎を注ぐ。

「あんたも飲め。」

 返事も聞かずに、男は僕のぐい呑みにも、焼酎を並々と注ぐ。


「山の奥の方は、大抵国有林になっていてな。たまーに営林署の職員が来る。で、こっちは炭焼き窯を勝手に作って炭を焼くんだが、炭を焼いてる最中は逃げられん。で、営林署の連中は俺らを逮捕するんだ。」

 逮捕ですか?営林署が?

「営林署の「署」という字は、警察署と同じ字を書く。この「署」がつく役所にはな、逮捕権というものがあるのだ。つまりな、国有林の中で勝手に木を伐ったりする連中を見つけたら、営林署はそいつを逮捕できるんだ。」

 そうなんですか。初めて知りました。

「おれは二回やられた。ははは。」


 外は既に暗くなっていた。月が出ていた。


「だがな、おれたちは、山が誰かの持ち物だなんて思わねえんだよ。」

「家や畑は、そりゃあ、まあ、誰かの持ちもんだろうよ。それはわかるさ。でもな、山とか川が誰かの持ちもんだなんて、そんな馬鹿な話があるか?」


 恐らくはとても古い起源をもつこの人達は、昔から持っていたこうした価値観を変えることなく現代まで受け継いでいるのだろう。そんなことを考えながら、干し肉を齧っては焼酎を飲んでいると、段々と酔いが回ってきた。


 山の春である。夜はまだ寒い。男は囲炉裏に薪をくべた。

 小さな蜻蛉が入ってきて、天井から吊るしたランプの周りを、尻を下げた不器用な飛び方でゆっくりと回っていた。


 ◇


「まあ、そんな調子で暮らしておったんだが、そうこうしてるうちに、戦争が始まった。」

「だが、おれたちには戸籍がないから赤紙は来ない。アメリカも山奥までは爆弾落としに来ないからな。今まで通り暮らしておった。ところが、終戦間際に大きな地震が起きてな。それこそ関東大震災みたいなやつだった。」


 えっ?

 大地震、ですか。関東大震災みたいな?

 それも終戦間際に?


「そうだ。昭和十九年だ。終戦の前の年だ。今まで見たこともないような大きな地震でな、地面の下からでっかい玄能でぶっ叩かれたみたいな揺れ方だった。その後も何度も揺れて、おれたちが住んでいた山はあちこち大分崩れてしまってな、水を汲んでた近くの沢も枯れた。それで山で暮らしていくのが難しくなった。」

「で、相談して、おれたちは山を下りることにした。町まで出て、日雇いなんかをやりながら電車賃を稼いでは移動した。」

「だがまあ、山降りてみたら町も地震でやられてるわけよ。町の方がひどかった。海沿いは津波で流されてるしな。なかなかうまい仕事はなかったが、地震の後片付けで、土方仕事はそれなりにあったんだ。おれは日雇いの土方やりながら、金物を集めては売って、まあそこそこ稼いだんだ。」

「その金で何度も汽車に乗ってな、おれはとりあえず東の方へ行くことにした。西の方は地震でやられてる所が多かったからな。でも西の方へ行ったやつも何人かいたよ。」


 驚いた。


 正直、終戦間際に、津波を伴うような大地震があったことを、僕は全く知らなかったのである。というより、何故そんな大災害が一般に知られていないのだろう。もしかすると、まだ戦時中であったから、情報統制で報道が禁じられていたのかも知れない。


「驚いたって顔だな。」

 ええ。驚きました。その地震のこと全然知りませんでしたよ。初めて聞きました。

「うん。実はおれも驚いたよ。なにしろ、こんだけ大きな地震が起きたのに、いつまでたっても新聞に載らねえんだからな。まだ戦争中だったからアメリカに知られたくなかったのかも知らんし、新聞ももうそんな記事書く余裕なんかなかったのかも知れん。」

「で、山窩の仲間はそこで散り散りになった。でも何とかして連絡は取りあうことにしたんだ。連絡がつかなくなったやつも多いが、連絡つくやつとは今でもやりとりしてて、年に一度集まるのさ。」

 そうなんですか。いや、凄い話だなあ。


 ◇


「で、今のおれの話だ。ここで何やって喰ってるのか。」


 山賊?

「そう、山賊だ。ははは。」


「丹沢は山登りに来るやつが多いが、こんな低い山の割には遭難が多い。登山道を間違えずに辿ってればどうってことない山だが、道を間違えて痩せ尾根なんかに迷い込むと、結構大変なことになる。登山道から落ちると、斜面は急で足元はガラガラ。一度落ちると谷底まで止まらんよ。その辺はあんたも良く知ってるだろう。」

 ええ、幸い僕はまだ怖い目には遭ったことありませんが、危ない山だという話はよく聞きますよ。

「うそつけ。おれたちゃ今日危ない目にあったばっかりだろうがよ。」

 あ、そうでした。

「ははは。」


 男は再び、僕のぐい呑みに焼酎を注いだ。


「谷の奥で炭を焼いているとな、時々道に迷った登山者に遭うんだよ。まあ怪我してることもあるな。で、そいつを俺の炭焼き小屋まで案内して泊めてやる。もちろん只じゃねえよ。はっきり言って、法外な金をとって泊めてやる。ぼったくりだな。ははは。」


 え?


「あ、あんたは別だから安心してくれ。あんたからは一円だってもらう気はねえよ。」

 ああ、良かった。


「金がないやつからは物をいただく。腕時計とかカメラとかな。だがこんなところに登山しに来るやつは金持ちが多くてな。大抵金で、ってことになる。」

「もちろん「嫌だ」っていってごねるやつも多い。そんな時はな、あれを見せるんだよ。」

 あれって?

「モーゼル。」

 ええ?あれで脅すんですか?

「別に脅すわけじゃねえよ。見せて自慢するだけだ?」

 あー。博打のカタにモーゼル選んだのは、最初からそうやって使うつもりだったんでしょ。

「ん。まあな。ははは。」


 僕も大分酔いが回ってきたようだ。山賊相手にからかいの言葉を投げるとは、自分でも意外だった。ちょっと大胆になっていた。だが、人のよさそうな男の笑顔を見ていると、何だか、そんなに悪い人間にも見えないのである。


「でもな、残念ながら死んだやつを見つけることもある。そんときは、財布を抜いて中身をもらって行くんだ。全部は盗らねえよ。盗んだのがばれない程度に中身を残すんだ。そんときはカメラとか時計は盗らねえ。持ち物は家族が覚えてて、捜索の手掛かりに警察に教えたりするからな。盗みがばれる可能性がある。」

「山賊と言ったが、追い剥ぎはやらねえよ。そんなことしたら、山を下りた後警察に駆け込まれて、警察がおれを探しに来るからな。」

「まあ何にしろ、こんなものは割のいい稼ぎにはならんさ。おれはいまだに炭を焼いて、わな猟をやって、他にも色々やりながら何とか喰ってるんだ。山賊はまああれだ。サイドビジネスだよ。」


 どこからか梟の声がした。


 ◇


 翌朝目を覚ますと、初老の男は居なかった。

 ぐい呑みの下に書き置きがあり、南京錠が置いてあった。



   夕べは楽しかった

   帰るときに入口に南京錠をかけてくれ

   ありがとうな



 少しばかり二日酔いだ。飲みすぎたな。

 帰ろう。

 身支度のために自分のリュックを引き寄せると、リュックの口が空いている。


 しまった。やられたか。


 中身を確認した。財布、カメラ、手帳、ヤッケ、懐中電灯、非常食……。

 全部あった。何も無くなってはいない。財布の中身も全くそのままだ。

 リュックの口が開いていたのは、閉じたと思った僕の勘違いだったかも知れない。

「あんたからは一円だってもらう気はねえよ。」といった男の言葉は、嘘ではなかった。


 小屋の入り口に南京錠をかけ、僕は山を下りた。

 相変わらず、桜がきれいだった。


 ◇


 僕の勤める小さな新聞社があるのは、都内の古いビルの三階だ。


 僕はそこで、校正・校閲部に配属されて三年目になる。内勤の下働きだ。まだとても記事など書かせてはもらえない。毎日机にかじりついて校正作業を繰り返す日々だ。

 そんな仕事をしているから、休日くらいは好きなことをして羽をのばしたくなる。僕の場合はそれが登山なのだ。大して高い山に登るわけではないが、花の咲く山が好きだ。

 例えば、丹沢とか。


「お手紙が来てますよ。」


 赤鉛筆を握り、机で校正をしていると、総務から手紙を渡された。

 誰だろう?封筒に差出人の名前がない。

 開けてみた。便箋が二枚入っている。便箋を封筒から取り出す時、間から小さな紙片が出てきて床に落ちた。名刺のようだ。

 拾ってみると、何故か自分の名刺である。何だこれは?


 あっ。


 思い出した。春に丹沢で山崩れに巻き込まれて、自称「山賊」の初老の男の小屋に泊めてもらったのだ。翌朝起きると、リュックの口が開いていたので、何か盗られていないか中身をチェックした。その時は、無くなったものはなかったと思ったのだが、後でよく見ると、ひとつだけ無くなっていたものがあった。

 手帳に挟んでいた名刺だ。

 ということは、差出人は、あの初老の男だ。早速読んでみる。




 拝啓


 貴兄におかれましては、益々御健勝のことと存じます。

 春には大変お世話になりました。


 さて、この度、元大杉谷の仲間が集まり、宴を開くこととなりました。

 つきましては、貴兄にも是非ともご出席を頂きたく、ご連絡を差し上げた次第です。

 日時と場所は、同封の案内にて。


 なお、くれぐれも他言無用にてお願いいたします。

 では、丹沢の紫蘇屋敷にてお待ち申し上げております。


  敬具




 名刺をわざわざ同封した理由は、やっぱりあれだろうな。


 口止め。


 勤務先はわかってるぞ、おれのこと記事になんかするなよ、と(できないが)。

 手帳を見たなら、多分自宅の住所もばれている筈。


 でも、あの初老の男に、また会ってみたいとも思う。

 とりあえず、折角の御招待を断る理由は、ない。


 よし。行こう。

 それにしても、「紫蘇屋敷」って何だ?


 案内に書かれた場所は、以前泊まった「作り小屋」とは違っていた。

 当たり前か。あそこはどう見ても「屋敷」ではない。

 しかし、戸籍を持たない山窩が、どうやって「屋敷」を手に入れたのかと思うが、まあ、そこはそれ、そもそもあの初老の男の所有かどうかも怪しいではないか。


 いずれにせよ、考えた所で正解はわかるまい。


 見たところバスで行けそうな場所ではない。

「宴」だから酒が出るのだろうが、案内に「一泊されたし」とあったので、社の先輩に適当なことを言って車を借りた。


 ◇


 麓の集落を抜け、細い山道に入る。


 丹沢周辺は、集落を抜けると、割合すぐに人の気配がなくなる。集落の裏はもう「奥山」なのだ。少し心細くなるが、先へ進む。

 ひと気のない山道を進むこと一時間ほど。

 突然、という感じで樹林が途切れ、開けた場所に人家が現れる。


 ここだろうか。


 確かに屋敷だ。思っていたよりもだいぶ大きい。案内図を確認するが、ここで間違いなさそうだ。

 すでに人が集まっているようで、乗用車やトラックが何台か駐められている。何人か庭先で談笑する姿も見える。

 庭の一番隅に車を駐め、降りて玄関へと歩いてゆく。

 うん、ちょっと怖いな。


「おっ、あれじゃねえか。」


 僕の姿を見て、談笑していた一人が声を上げる。


「おーい。来なさったよ。」

 呼ぶ声に応じて、玄関から人が出てきた。

 間違いない。あの初老の男である。


「おお、よく来たな。遠かったろう。まあ入ってくれ。」

 初老の男が満面の笑顔で出迎えてくれた。少しほっとする。


 奥の座敷に通されると、男の隣、上座に座らされた。

 庭で談笑していた人達や、別の部屋にいた人達も、次々と座敷に入ってきた。

 全部で二~三十人くらいだろうか。なかなかの大宴会ではないか。


「飯も出来てきたみたいだな。よし、そろそろ始めるぞ。」


 ◇


 テーブルに次々と料理が並べられてゆく。


 いや、大変な品数だ。握り飯や稲荷寿司もある。

 料理を並べ終わると、台所にいた女性達もテーブルに着く。聞けば、既婚者は皆家族で来ていて、奥さん達は昼過ぎから総出で料理を作っていたのだそうだ。


 皆が揃ったところで、ビールの栓が抜かれ、各自のグラスになみなみと注がれる。


「おーい。ビール回ったか?始めるぞ。」

 初老の男が、座ったままで乾杯の音頭をとる。


「あー、今年もなんとか皆で集まれたな。本当に良かった。皆、今どこでどうやってるか、あとで飲みながらでも聞かせてくれ。今はどこも大変だと思うが、がんばろうな。」

「それとな、前に言っておいたとおり、今日はひとりお客人がいらっしゃる。おれの隣に座ってるのは、今年の春におれが山崩れに巻き込まれたとき、助けてくれた人だ。」


 紹介されたので、立ち上がって挨拶しようとしたが、にっこり笑って制止された。


「あ、いいんだよそのままで。ここはそういう堅苦しい席じゃないんだ。座っててくれ。まあ、あとで酒を注ぎに来るやつがいるかも知れんが、そん時に相手してやってくれ。」


「じゃ、乾杯しよう。」


 乾杯。

 山窩サンカの宴が始まった。


 ◇


 唐揚げ、何かの焼肉、天ぷら、刺身、かまぼこ、胡麻豆腐。


 よくある田舎の宴会料理に、卵茸や岩茸、川海苔といったなかなか珍しいものも混じっている。どれもうまい。焼肉も。この香りは覚えがある。アナグマではないか。口当たりの滑らかなこの肉は、鹿だろうか?


 うまい。


 だが、食べて飲んでいるうちにひとつ気付いたことがある。

 どの料理にも、必ずと言っていい位、紫蘇が使われているのである。それも赤紫蘇だ。天ぷらも赤紫蘇、唐揚げにも赤紫蘇が巻かれている。刺身の付け合わせも青紫蘇ではなく赤紫蘇だ。紫蘇巻も赤紫蘇。果ては稲荷寿司にも入れられている。

 この赤紫蘇がうまい。非常に香りが良いのだ。こんな赤紫蘇は、ちょっと食べたことがない。


 この紫蘇は何ですか?すごくおいしいんですが。


「ははは。気付いたか。その紫蘇はな、おれの田舎で昔からつくられてたもんだ。おれたち山窩は田畑はつくらないが、何でかこの紫蘇だけは作っていた。山の斜面みたいな日当たりのいい所に種をまいてな。たいした量じゃないが作っておった。おれは子供のころからこの紫蘇が大好きでな。」

「この紫蘇はな、平地の畑で育てると、普通の紫蘇と混じってしまって味が落ちる。そうやって、何年かすると、普通の紫蘇と変わらんようになってしまう。だから、山奥で他の紫蘇と混じらんように種をとって育てる。」

「なんで紫蘇だけは作っていたのかはおれにもわからねえ。まあ、肉に合うからかなあ。」


 確かに、この紫蘇は肉料理にとてもよく合うのである。


「今日の料理に入ってる紫蘇はな、この屋敷の庭に播いて育てたもんだ。ここなら近くに畑も家もねえから、普通の紫蘇と混じったりしないんだよ。」

 それで紫蘇屋敷?

「そうだ。ははは。」


 ◇


「飲んでますか?」


 痩せてちょっとおとなしそうな感じの若い男が、日本酒の瓶を持って、なんだか遠慮がちに僕の席へやってきた。


 あっ、頂きます。ありがとうございます。


 男は僕のグラスに日本酒を注ぐ。


「この人を助けてくれてありがとうね。」

「この人はね、悪いことも色々とやるんだけど、どこに行っても仕事とか住むところとか、うまい具合に探してきてくれるんですよ。僕もね、今いる所に落ち着くまで、だいぶんお世話になったんですよ。」


 そうなんですか。


「三郎じゃねえか。こいつはねえ。木地師なんだ。ほら、作り小屋に泊まった時、焼酎を飲んだぐい呑みがあっただろ。あれ、こいつが作ったんだよ。」


 あの綺麗なぐい呑み!

 覚えてますよ。あれ貴方が作られたんですか。


 あのぐい呑みはただのぐい呑みではなかった。美しい形をしているだけでなく、木の年輪が、まるでデザインの一部であるかのように大胆に楕円を描き、器の形を引き立てていた。

 それが偶然ではなく、そうなるように計算されたものであることは、工芸には素人の僕にもわかった。


「まあ、僕はこれしか出来ないんで。でもお金にするにはどっかで売らなきゃならんでしょ。僕はそういうのが下手だけど、この人は何とか売ってきちゃうんですよ。どうやってるのか知らないけど。」

「お前のは特別だ。あれなら高い金出してでも買うやつがいるんだよ。」

「だから、裏にちゃんと銘を入れろって言ったんだ。そうしたら、もともといいもんを作るもんだから評判になってな。名前が売れた。」


「今は・・・何処だっけ?」

「山北」

「そう。山北って所で工房構えてやってるそうだ。大杉谷の仲間で一番の出世頭じゃねえか?おれも鼻が高いよ。」


 まあ、いろいろと悪いことをしている、というのはどうやら事実のようだが、この人が居ることで、元大杉谷の山窩は、これ以上散り散りにならずに済んでいるのかも知れない。ある種の商才のようなものを持っていると思う。

 戸籍さえあれば、今頃ひとかどの人物になっていたかも知れない、そう思った。


 その後も何人かやってきては、僕のグラスに焼酎を注いで話し込むものだから、いつまで経っても僕のグラスの焼酎は、一杯のままで少しも減らないのだった。


 ああ、また二日酔いだな。


 ◇


 翌朝、山窩の奥さんたちが味噌汁を作ってくれたので、夕べの残りの稲荷寿司と一緒に、ありがたくいただいた。


 すでに帰った人もいるが、まだ寝ている人もいる。

 徹夜で花札やチンチロリンに興じている人もいる。

 昨日話した三郎さんは、早起きして近所の川で釣りをしているそうだ。


 皆、自由気ままだ。ちょっと羨ましかった。


 僕は昼前に帰路についた。


 ◇


 それから数年経って、僕は再びあの屋敷を訪ねてみた。


 ようやく記者として記事が書けるようになったので、改めて元大杉谷の山窩について取材させてもらおうと思ったのだ。

 だが、住所もわからず(調べると、やはりというか、屋敷の場所には番地がなかった)、連絡がとれないので、思い切って直接訪ねてみることにした。また社の先輩に適当なことを言って車を借りた。


 着いてみると、あの屋敷は既に無く、更地になっていた。

 そして、屋敷があった平場には、まるであの日の宴の名残のように、一面に赤紫蘇が生えていたのだった。


以前、丹沢で仕事をしていた時、林道脇に住居跡のような平場を見つけました。そこには何故か野生化した紫蘇が群生していて、何故こんなところに紫蘇が?と思い、そこから想像を膨らませて書いたのがこの話です。

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― 新着の感想 ―
まるで一夜の夢のようですね。とても幻想的でした。好きです!!!!
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