『春が咲く』
彼女は喋れない。
生まれた時からそうだったわけではない。幼い頃、ある出来事がきっかけで、彼女は喋れなくなった。暗黒の恐怖の中に蹲るその背中は、いつも何かを抱え込んでいるようで、簡単に他人を寄せ付けない。手を差し伸べようとすると、瞬く間に殻を閉ざしてしまう。世界に満ち溢れている全ての負荷を自分だけで貰い受けながら、彼女は僕の前で笑う。
まるで、幸せを遠ざけるかのように。
竹林へと続く田んぼの畦道を歩いていたら、雪の中に一つぶの桜の種が落ちていた。
地面に落としていた視線を前に向ける。
制服姿のショートカットの女の子が、少し前を歩いていた。
ーもしもこの種を土の中に埋めたなら、果たしていつかの春、花は咲くのだろうか。ー
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
僕はスクールバッグを雪の上に置くと、雪を掘り始めた。
やがて、茶色い土が白い雪の下から顔を出したので、僕はさらにその土を少し掘り、拾った桜の種をその中に入れ、その上に土をかぶせなおした。
もし彼女がこの桜の種を落としたのであれば、僕の役割はそれに春の日差しを与えることだ。
そして、小さな花を一つ、咲かせたい。
それが、僕ー青葉大樹に出来ることだ。
0
彼女ー佐倉小春はいつも静かだ。
誰とも喋らず、いつも一人でいる。
今日も朝学校へ向かう時から、夕方家へ帰る時まで、ずっと一人でいる。
一人で電車に乗り、ドアの側に立ち、車窓の外の流れ行く景色を眺めている。
僕はずっと、それを見ている。
電車が駅に止まり、ドアが開いて、おばあさんが乗り込んで来た。
と、「よっこらしょ。」と少し足を上げて電車に乗り込んだところで、おばあさんのポケットから水色のレースのハンカチが落ちた。
彼女はすぐにそれを拾い、おばあさんにハンカチを渡そうとした。
しかし喋りかけた口を両手で押さえ、目を大きく見開いて固まってしまう。
見ていた僕は、おばあさんに声を掛けた。
「ハンカチ、落としましたよ。」
僕が彼女に歩み寄ると、彼女が頷いて僕の手にハンカチを載せる。
僕は彼女からハンカチを受け取ると、それをおばあさんに差し出した。
「おやまあ、2人共、ありがとう。」
おばあさんは僕らにお礼を言うと、ハンカチを受け取り、空いていたシートに腰を掛けて静かに目を閉じた。
後ろから肩を叩かれて振り返ると、彼女が手を動かし始めた。
その手が形づくる言葉は、彼女の笑顔が表していた。
春の蕾を熟れた林檎で汚したい
1
小学生になり、中学生になり、高校生になっても、彼女は喋れないままだった。
〝喋れない子〟は、クラスの標的になる。 小学5年の時、彼女のランドセルが池に沈められた。中学3年の時、彼女の傘が盗まれた。高校2年の時、彼女の好きな人がクラス中に知れ渡った。
ドアを開けて教室に入ると、一人を除いてクラスメイトみんなが、僕をニヤニヤとした表情で見ていた。
「青葉、それ見てみろよ。」
クラスの代表格の男子が、教卓の上に置かれている小さく折り畳まれた紙を指さした。
「これ?」
僕は何の疑いもなく、その紙を手に取り、開いて中を見た。
「大くんのことが好きです。」
よく見慣れた、少し丸みを帯びた彼女の文字だった。
「というか青葉、佐倉と下の名前で呼び合うような関係だったんだな。」
目を見開き、顔を上げる。
と、俯かせた顔を少し浮かせた彼女と目が合った。
途端、彼女は走るように教室を飛び出した。
「えっ?」
一瞬戸惑い、すぐに我に返る。
「おい佐倉!」
彼女を追いかけて教室を飛び出す。後ろから冷やかすようなクラスメイトの声が聴こえた。
走る彼女を追いかける。既にだいぶ距離が開いていた。階段を駆け下り、廊下を走り、再び階段を下る。
「待てって佐倉!」
「ひゃあ!」
階段の途中で、彼女が足を滑らせた。
「危ない!」
思いっきり彼女を引っ張る。反動で階段の上に尻餅をつく。
「大丈夫か。」
膝の間に収まる彼女に声を掛ける。彼女が僕から逃げ出そうと、身体を前にした。
「おい、」
逃すもんかと、抱きしめるように腕を彼女の身体の前にまわす。
ジタバタと反抗する彼女を腕で押さえつけ、質問を口にする。
「さっきのあれ、本気?」
彼女の動きが止まった。彼女はまだ僕から顔を背けたまま、答えない。
「なあ、」
彼女の顔を覗き込むと、彼女が僕に顔を見られまいと、さらに顔を伏せた。
「こっち向けよ」
彼女の顔を手で挟む。彼女の反抗を破り、僅かに見えた顔の色に、僕は理由が分からなかった。
「でも僕、確かにずっと側に居はしたけど、何も出来てないよ?何も役に立ってこなかったよ?」
彼女はついに、泣き出した。潤んでいる彼女の目に、問う。
「本当に、僕でいいの?」
彼女が必死に口を動かす。
その聲に、耳を傾ける。
「だ…く…ぎ……」
彼女の言葉。
「もう少し!」
「だ…く…ぎぃ……」
「あとちょっと!」
「大くんが良い!」
目を瞑り、彼女が叫んだ。
一瞬のち、彼女が驚いて口を押さえる。
「喋れたじゃん!」
彼女がぽろぽろと涙を零した。
「あ……う……」
彼女は必死に口を動かすが、言葉が出て来ない。ほんのひと時の感覚を取り戻そうと、彼女は口許に手を当てがい、必死に口を動かす。
「こ……佐倉、落ち着いて。」
その小さな肩に手を添える。
「深呼吸。」
彼女が小さく息を吸う。
「……だ…い……くん……」
「うん」
「…が……s……」
「うん」
ゆっくりではあるが、確実に言葉を取り戻しつつある彼女の声を待つ。彼女は頬を桜色に染めながら、口を動かしている。
「…す……」
「…うん」
「…k……き……!」
「…………」
「…だ……い……k……?」
「ちょっと待って。」
返事をしない僕に不思議そうに眼差しを送る彼女から顔を背ける。
自分の中で、鼓動が、笑えるほどおかしなリズムで鳴っていた。淡く、しつこく、されど明白に。
彼女から顔を背けたまま、徐々にかさぶたのように重たくなっていく頬に、僕は対処の仕
方を知らないことに後悔していた。不必要に焦っていた。
「…ご…ごmめ……」
背後から聴こえた彼女の声に、ハッと我に返る。
「違う、逆!」
見るからに萎れ顔を俯かせている彼女に、思わず声が飛び出していた。顔を上げきょとんとした表情で首を傾ける彼女に、空気をごまかすように自分の髪をむしゃくしゃと触る。
「あー……」
「その…だから……」
かさぶたの重みは取れない。
「?」
「だから……」
彼女の手が僕の制服の裾を撮む。何かが、一瞬、弾けた。溢れ出しそうになった感情を、押し留めようと、唇を噛む。行き場のない悲しみと悔しさが、身体の中で渦を巻いた。
「…………小春。」
感情を心のパンドラの箱の中に必死にしまい込み、何とか口を開く。自分を見上げる小春の目を見てしまったら我慢が出来なくなりそうで、僕の返事を待つ小春の目から微妙に目線を逸らし、一瞬だけ小春の身体をそっと抱き寄せ、耳元で音にせず囁く。
「小春、大好きだよ。」
「―ありがとう。」
少し間を空けて耳元で囁かれた僕の言葉に、かすかにーほんのかすかに、小春の身体が固まった。罪悪感が自分を責め苛む。その罪悪感から逃げるように、その身体を引き寄せるように小春の手をぎゅっと握って立ち上がらせる。―その拳で、罪が消えてなくなるわけでもないのに。僕の気持ちがごまかされて、彼女に届くわけでもないのに。
立ち上がり、服についた埃を払う。
「戻ろうか。」
段々と萎んでいく自分とは真逆の、昔より少しだけ大きくなった小春の手を取る。小春が後ろで「…………うん」と聞き取れないほどに小さな声で頷いた。その聲に、最後に目を伏せる。声に出さず、口を動かす。
「―ごめん。」
2
あの日、小春の手を引いて教室に戻ると、僕はクラスメイトの男子たちから散々揶揄われた。
いつから面識があったのか、これまでどういう関係だったのか…等々、そんなんじゃないのに、そんなのにはなれないのに、僕は放課後、時間が解放してくれるまで彼らから質問攻めにあった。
それでも、「ファミレスにでも行こう」という容易くその後の展開を予想出来る男子たちの誘いを、僕が「佐倉と帰るから無理」と言って、無理やり断ったからようやく解放されたのだが。最も、僕の言葉にその分ひやかしの声は飛んだが。―だから、そんなんじゃないのに。
こんな風に、周囲の変化に食い付き話題の種にしてくるようなことが昔から苦手だった僕は、周囲にあまり関心を示さずに生きてきた。
そのせいで、さらに彼女の心に深い傷を作ってしまうとも知らずに。
乾きが赤い棘を呼ぶ
1
ジメジメと雨が降り続く6月。彼女の好きな人がクラス中にばれ、僕と彼女の関係がーあまりにも残酷に変化してしまった日から2週間ほど経ったその日。
あの日から毎日のように、罪滅ぼしのために彼女と登下校をするようになった僕は、彼女から送られてきたLINEに首を傾げた。
「今日は先に帰るね。」
彼女があまり喋れない分、元よりLINEでの会話は多かった。しかし、一緒に登下校することに彼女が断りを入れて来たのは、これが初めてだったのだ。
少し驚きつつも、「わかった。」と返信する。既読はすぐについたが返事はない。そのことに僅かにー勝手だなと自分を糾弾しながらもー寂しさを覚えながら、軽くため息を吐いて携帯の電源を切ると、僕は一人教室を出た。
2
放課後、大くんが先生に呼び出されている間、外で花壇の花を眺めていると、クラスメイトの女の子が声をかけて来た。
「ちょっといい?」
喋れないため、普段からあまり女の子達の輪の中に入って行かない私は少し驚いたが、特段断る理由もないので彼女が発した問いに素直に頷く。
「ついて来て」
彼女が投げ捨てるようにぶっきらぼうに話す。雨が降り始めた。背の高い彼女の後についていくと、彼女は学校のはずれにある倉庫の前で立ち止まった。
「…ねえ、あんたさ、どういうつもりなの。」
質問の真意が汲み取れず首を傾げる。
「…あんな紙切れなんかで、気持ちが伝わるとでも思ったわけ?」
問い返す前に、彼女は矢継ぎ早に私に畳み掛ける。
「勝手に青葉くんを盗らないで。」
「青葉くんはあんたのものなんかじゃないんだから。」
「いつも何聞いても喋らないし、もごもごしてるし。」
「正直言って、目障り。うざいんだけど。」
「これ以上、青葉くんに近寄らないで。」
彼女が地面に唾を吐いて立ち去ろうと私に背を向ける。咄嗟に、彼女の制服の裾を掴んでいた。
「なに?」
不機嫌さを滲ませたその表情に声が出ない。言わなきゃいけないのに、違うんだって言わなきゃいけないのに、言葉が出ない。ただ、形だけの無音で、口をもごもごと動かす。
「だからそういうのがうざいって言ってんだよ!」
バチン、という鋭い音と同時に、頬にヒリヒリとした痛みが走った。殴られた、と頭で理解するよりも早く、肩をドン!とど突かれる。背中が倉庫に激突する。息が出来ない。
「あのね?何でこういう目に遭っているかわかる?」
私を倉庫に押し付けると、彼女の切れ長の目が私を睨み付けた。
「もう2度と、青葉くんに手を出さないで?」
顔が近付き、彼女が私の顎を指で強く押さえつけながら囁く。
「…い……y……や……」
全身の力を振り絞って反抗の意を示す。ここで彼女の言葉を呑んでしまっては、大くんと本当に離れてしまう気がして、あの時大くんから拒絶されたということが現実に真実になってしまう気がして、それだけは自分で認めてしまいたくはなくて、必死に首を横に振る。と、再び頬に痛みが走った。
その勢いに身体が倒れる。地べたに頽れた私の腹を、彼女が苛立ちを撒き散らすかのように何度も蹴った。あまりの痛みに涙が零れる。雨が棘のように傷に刺さった。と、制服のポケットの内側が光を放つ。彼女が私の制服のポケットの中に手を伸ばし、止めようとする私の手を払い、引ったくるように私の携帯を奪った。
「青葉くんとLINEまでしちゃって。」
その言葉に思わず携帯に手を伸ばすと、また腹に痛みが走った。
「あんたに彼は不釣り合いよ。私が返信しておくから安心しなさい。ほら。」
彼女が携帯の画面を見せる。
彼女が送った〝今日は先に帰るね。〟という文字とそれに対する〝わかった。〟という彼の返答。
涙が溢れた。文字で気持ちは届かない。やっぱり、私は届かない、許されないのだ。
「許さないから。」
彼女が私の携帯を倉庫横の草むらに放る。ガラガラッと鈍い音が響いたのと同時にまた身体を蹴飛ばされ、私は無防備に後ろに転げた。
硬い無機質な感触を感じ、顔を上げると、目の前で扉が閉められる。
「!!!」
扉に駆け寄り取っ手に手を掛けるが、無情にも扉は開かない。倉庫に閉じ込められた、そう理解し必死にどんどんと扉を叩くが、学校のはずれに位置しているからか、誰も気付いてはくれない。
「…だ……r……イッ……!」
腕を振って必死に扉を叩いていると、腹部に激痛が走った。腹部と頬が激しく疼き出す。
そっと扉の横に腰を下ろすと、ようやくここが真っ暗であるということに気がついた。
十年以上前の恐怖が蘇る。暗闇。狭い場所。足音。ドスのきいた男の声。女性の悲鳴。鼻に刺す、鉄の匂い。口を手で覆う。
ー音を出したら、見つかる。
血染めのナイフ。真っ赤な血の海に横たわる女性。男性の泣き叫ぶ声。
ー隠れないと、早く。
鈍く痛む身体を動かし、静かに手探りで闇を進む。
ー早く、奥の方へ。
手探りで物をかき分けながら進み、重ねられた物の奥に自分の身体を隠す。
ー見つかったら、殺される。
3
帰宅し、自室で勉強をしていると、玄関のチャイムが鳴った。母を幼少期に亡くしてから、父は男手一つで僕を育てるため夜遅くまで働くようになり、一人っ子の僕は必然的に一人でいる時間が多くなった。夜9時。父が帰ってくるのはいつも日付が変わる頃だ。この時間、うちには僕以外誰もいない。
勉強を中断して階下に降り、玄関ドアを開けると、雨の中傘を差した小春のお母さんが立っていた。
「こんな時間にごめんね。小春、まだ帰って来ないんだけど、知らない?」
「え…あいつ、まだ帰ってないんですか。」
驚きが僕を支配する。今日は〝先に帰る〟と僕に連絡して来たはずなのに。
「うん…ずっと電話したりLINEしたりしているんだけど、連絡が取れなくて。」
その言葉に、嫌な胸騒ぎがした。喋れない小春にとって、携帯電話は大切なコミュニケーション手段の一つだ。連絡をこまめにする彼女が、まわりを心配させるほどに連絡を怠ったことはない。学校からの帰り際、LINEで僕が送った返答に既読しか付かなかったということが、今になって、物足りのなさよりも不自然さを僕に感じさせた。思えば、彼女は大抵、スタンプで会話を終わらせていたのに。何か怒らせた?そういう気分じゃなかった?いいや違う。小春は自分の感情を表に出すタイプじゃないって、僕が一番よく知っているはずなのに。ぎりりと奥歯を噛む。
「ちょっと僕探してきます。何か分かったら僕の携帯に。」
「え、ちょっと大樹くん!」
僕を呼び止める小春のお母さんの声にも耳を傾けず、携帯と傘を引っ掴むと僕は家を飛び出した。雨の中、持っている傘も開かずに走る。走りながら、何度も小春に電話を掛ける。繋がらないことに、不審に蠢く胸の音が、雨に混じった土砂のように徐々に嵩を増していった。
「おーい小春!いるなら返事しろ!」
学校まで走り帰り、校内を駆け回る。夜の学校に、人影はない。校庭を駆け回り、テニスコートを駆け回り、体育館を駆け回り、校舎を駆け回る。
「おーい小春!」
「何だよ青葉、騒がしい。」
と、職員室の前に差し掛かったところで、職員室から体育教師の堂本先生が鬱陶しそうに顔を出した。男子の体育を担当している堂本先生は長身で肩幅も広く、強面でその上声も低いので女子生徒からは人気が低い。
「こは…佐倉が家にまだ帰っていないんです。連絡も取れなくて。」
堂本先生が驚いたように僕を見る。
「それは確かか?親御さんは?」
「小春のお母さんから聞いて。とりあえず学校に探しに来たんですけど、見つからなくて。」
焦る僕の肩に、堂本先生が手を置く。
「落ち着け、青葉。とりあえずまだ探してい
ないところを探そう。もう夜だから、固まって探すぞ。まだ探してないところは?」
「校舎の裏手はまだです。」
よし、と頷き、堂本先生について走る。校舎を飛び出し、電話を掛けながら走る。自転車置き場,駐車場,野菜農園,飼育小屋……。
雨の中を走りながら、電話をしながら、必死に叫ぶ。
「小春ー!!」
「佐倉いるかー?」
と、その時、目の端で、何かが光った。
「先生!」
前を走る先生を呼び止め、光に近付く。草むらの中で光を放っていたのは、小春の携帯電話だった。拾い上げ、電源を入れる。
「それは?」
「小春の携帯です。」
先生の質問に答えながらあたりを見渡す。側に倉庫があった。目に映った倉庫に、連絡がつかないという彼女の不自然な行動に解釈が付けられた気がした。
ーまさか、閉じ込められてる?
倉庫に駆け寄り、取っ手に手を掛ける。
「おいおい、青葉。」
「先生、ここの鍵、持っていますか。」
どうしたんだと僕に問いかける先生に訊ねる。
「え、鍵?持ってるけど。」
「開けてください。」
「あ、ああ。」
不思議そうに僕に言葉を返す先生にそう言うと、先生が面食らったようにしながらも鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
鍵を右に捻り、先生が扉を開く。
「おい佐倉、いるか?」
暗闇からは、何も聞こえない。
「いないな。行こう。」
「待ってください!」
先生が倉庫に背を向けようとする直前、隙間から中を覗き込んだ僕は先生を呼び止めた。一瞬、彼女が見えた気がしたのだ。暗闇に目を凝らし、一瞬見えたはずのそれを探す。種々の物が乱雑にしまわれた部屋の中、ボール籠に隠れるようにし、蹲っている彼女の姿が見えた。
「小春!」
彼女の名前を呼び、倉庫に飛び込む。口を手で覆い顔を俯かせていた彼女は、怯えたようにさらに身体を丸めた。距離が近づくにつれどんどんと身体を丸めていく彼女に、僕の脳裏に心悲しく寂れた予感が根を張った。
遠い遠い記憶。リビングに広がる血の海。その中に倒れている母。鼻を刺す鉄の匂い。押し入れの中で、身体を丸め、恐怖に震えていた少女。
彼女はいま、あの恐怖の時間に囚われている。だから、僕の声にも、先生の声にも、反応を示さなかったし、呼んでも返事をしなかった。そして今も、自らを隠そうとしている。
そっと近寄り、震える肩に手を置く。手が触れた途端、彼女の呼吸音が喘鳴するように酷く激しくなった。
「大丈夫、僕だよ。」
僕が声を掛けるのと同時に、彼女の荒い息の音が止まった。ゆっくりと彼女が顔を上げる。目の端に溜まる涙に胸が締められたのも束の間、赤く腫れた頬が目に留まり、僕は声を上げていた。
「その頬……!」
頬に触れると、彼女が痛そうに顔を歪めた。
「誰にやられた!身体もすんげえ冷えてるし…!!」
思わず肩を揺すると、彼女が腹部を押さえ、酷く呻いた。
「小春!?」
「どうした。」
倉庫の入り口で様子を伺っていた先生が、僕たちの様子に倉庫に入って来た。
「小春が…腹を押さえてて…頬も腫れてるし身体も冷え切っているし……!」
「佐倉、俺の腕に身体を預けて楽にして。」
僕の言葉に、先生が小春の身体に手を伸ばした。そしてゆっくりと、身体を横にさせる。
「佐倉、ちょっと腹見るぞ。」
先生がそう言いながら小春の制服のボタンを数個外し、下着を捲る。
下着の下から現れた腹部に青い痣が出来ているのが目に溜まり、僕は思わず息を呑んだ。
「青葉、俺は救急に連絡して残っている他の教職員に説明してくる。身体はなるべく動かさないように。」
先生がそう僕に指示を出し倉庫を飛び出して行く。冷え切ってしまった身体をどうにかしようと、僕は自分の手で彼女の手を握り締めた。しかし何か上着でも持っているわけでもなく、先生を待つだけでどうすることも出来ない自分に落胆する。
「ごめん。」
気付くのに時間がかかってしまったこと、なかなか見つけられなかったことに謝罪の言葉を口にした僕の声に彼女の声が重なった。
「ごめ……n……さ……wわた……しn……せい……d……だい……k……おか……さ……」
その言葉に、鋭く苦い痛みが胸を刺した。
十年以上前のことを、彼女はいまも悔やんでいる。自分が声を出したせいで、僕の母が殺されてしまったと。
「…母さんのことは……気にするなよ。小春のせいじゃない。」
あの日、僕たちが5歳だったあの日、小春がうちに遊びに来ていた。しばらくうちで遊んでいると、遊び疲れたのか小春はうとうととし始めた。昼寝をし始めた小春をうちに母と残し、まだ遊び足りない僕は父と外に草野球しに飛び出した。
一時間ほどしてうちに帰ると、玄関のドアを開けた途端、妙に気分の悪い胸騒ぎがした。鉄の匂いがした。同じく胸騒ぎのしたような父の後について、僕はゆっくりとうちの中に入った。居間のドアを開けると、一層鉄の匂いが濃くなり、そして真っ赤な血の海とその中に倒れる母さんの姿が目に飛び込んできた。
「美晴!!」
父さんが母さんに駆け寄り、その身体を抱き上げた。震える手で首筋に手を当てた父さんが、一瞬のち、慟哭した時のあの声を今でも覚えている。
まだ幼かった僕は、あまりにも衝撃的な光景にその事の重大さをよく理解出来ず、母と一緒にいたはずの小春を探していた。
「小春?」
居間中見渡しても視界に入らない彼女に、何となくそう思ったのだろう、僕は押し入れの扉を開けた。彼女は暗闇の中で身体を震わせ、両目いっぱいに涙を溜めていた。
「何してるの?」
事態が飲み込めなかった僕は、ただ純粋に、彼女がそこにいることの不自然さに疑問符を投げかけた。
「あ…………」
彼女の目が僕を捉える。そして僕の後ろに視線を移した彼女の両の瞳が一瞬のち大きく見開かれ、その小さな身体がカタカタと顫動した。
ーその後、警察の人とのやり取りで、彼女が押し入れにいたことの理由が判明した。
彼女が昼寝から目を覚ますと、母と2人で押し入れに閉じこもっていたらしい。彼女は状況が飲み込めず、母に「何してるの?」と質問した。
直後、重たい足音が聴こえると、母は小春に「音を立てないように。」とだけ言って、押し入れを出て行ったという。押し入れの外から聞こえる怒声と悲鳴に、彼女はただ身体を震わせ、僕が押し入れを開けるまでずっと身体を震わせていた。
事件後すぐ、犯人は強盗殺人の容疑で逮捕され、まもなく僕と父,小春の家族は引っ越した。
彼女が喋れなくなったのは、小学校に上がってすぐのことだった。
4
病院の待合室で苦い記憶を反芻していると、小春の両親に電話を掛けていた先生が戻って来た。
「お母様がすぐにこちらに来られるそうだ。青葉、2,3聞きたいことがあるんだが、良いか?」
「…はい。」
空気に溶かすように言葉を出すと、先生が質問をするために口を開いた。
「佐倉が暴力を受けてしまったことに、心当たりはあるか?」
「…いえ。」
「佐倉と仲が良くない生徒については?」
「…いえ。あいつ、喋れないんで、友達なんかそう居ないはずです。」
「青葉と佐倉の間で最近何か変わったことで、まわりから何か良くない印象を受けるようなことは?」
「…いえ。」
「ライバル関係や恋愛の面では?」
「…………」
そうだとしても、思春期の男子高校生が教師にそのことを言えるはずがない。
「―そうか。ありがとう。」
黙りこくってしまった僕に、先生が長く息を吐いた。そして「でも何で、佐倉は声を出して助けを求めなかったんだ?頬の腫れはそんなに酷いものじゃないし、痛みで喋れなかったとしても壁を叩くなりして音は出せたはずだ。それにあんなに奥に、しかも隠れるようにしていたし……。」と呟く。
「…それは、誰かに見つかるのが怖かったからだと思います。」
僕の声に、先生が「えっ?」とこちらを見た。
「…先生は、僕の母が死んだ理由を知っていますか。」
「いや…知らないけど……」
先生が戸惑ったように僕を窺っている。
「…殺されたんです、僕が5歳の頃。」
声が震えてしまわないように。先生が驚いたように目を見開くのが視界の隅に見えた。
「…あ…青葉……どういう……?」
「…強盗です。強盗が家に入ったんです。」
僕はあの日のこと、そしてその後の小春のことを先生に話した。
「…強盗に母は見つかって、それでナイフで……!」
息苦しさから自分の首に手を回す。ヒュッという音が喉元を通った。
「青葉、落ち着け。」
先生が僕の背中に手を添えた。身体中にじわじわと棲みついていた粘性の棘が、少しずつ抜かれていく。
「…はぁ……はぁ……」
身体の通気口を塞いでいた汗が床に落ちた。恐怖が拭われる。先生が近くの自動販売機でお茶を買ってきてくれた。冷えた麦茶を一気に呷る。
「はぁ……」
「大丈夫か。」
先生が隣りに腰を下ろした。
「…すみません……」
ああ、いつもはこんなに取り乱さないのに。あんな小春の姿を見てしまったら、感情が止められなかった。羞恥心から先生の顔を見られない。
「…いや、こっちこそすまなかった。これまで辛かっただろう。」
「…いえ、小春が背負っているものに比べたら…僕のなんて……」
重く、苦い空気が待合室を浮遊する。
待合室を支配する重い沈黙を破るように、病室の扉が開いた。
頬にガーゼを当てた彼女が、車椅子に乗って出てくる。
「先生、ちょっと。」
白衣を着た医師が先生を手招きする。僕も耳を傾けた。
「ー腹部の打撲とそれに伴う内出血は軽度のものだったので、手術の必要はありません。しかし受傷部位が腹部なので、経過観察をしてしばらく様子を見ましょう。2週間ほどは安静にしてください。学校には行っても構わないですが、決して無理をしないように。通学時や移動時には必ずサポートをしてあげてください。体育の授業は完全に痛みが引くまで絶対に参加しないように。」
医師の説明に、ホッと胸を撫で下ろす。と同時に、彼女に大怪我を負わせ、そして彼女と僕にあの辛い記憶を呼び起こさせた人に途方もない怒りが湧いてきた。
せっかく彼女が言葉を取り戻しつつあるというこの時期に、彼女に再びあの恐怖を味わせた人に。「ありがとうございます。」と先生がお医者さんに頭を下げた。
「教えてくれない?…誰にやられたか。」
車椅子の前に腰を落とし、彼女を見上げる。彼女は顔を俯かせたまま、唇をキュッと結んだ。
「ねえ、小春……」
中々口を割らない彼女に声を掛けると、彼女が膝に置かれていた携帯を手に取り、操作をし始めた。すぐに、着信を告げる僕の携帯。彼女とのLINEのトークルームを開く。
「私は大丈夫だから。」
そこに送られてきたメッセージに、目を見開く。
「でも……!」
「私が勝手に転んだだけだから。」
続くメッセージに、何とも言えない感情が湧き上がる。転んであんな傷になるわけがないし、第一閉じ込められていたことの説明も携帯が草むらに落ちていたことの説明もつかないのに、見え透いた嘘を言う彼女が痛々しかった。
「それとね、大くん。」
メッセージが続く。
「あの紙のこと、忘れて。」
顔を上げると、彼女が寂しげに微笑んだ。その表情に、つぅーっと涙が一筋、頬を流れる。僕の涙に、小春が瞠目する。ギッと歯を食いしばる。
「何でだよ」
「何でそう自分のことは後回しにするんだよ
!」
僕の大声に彼女が肩を震わせる。先生が、お医者さんが、驚いて僕を見た。
「他人にばっか気を遣って、いつも自分のことは考えないで」
「母さんのことだって、僕は小春を責めてなんかいないのに、」
「自分のせいで、って」
彼女の瞳が揺らぐ。
「いいかげん、自分を大事にしろよ!」
声が建物を震わす。呆気に取られたように僕を見ているお医者さんと先生。そして僕を見つめる小春の大きな瞳。
周囲の視線に、自分が理不尽に彼女を怒鳴ってしまったことを理解する。本当に自分が怒っているのは、彼女にではなく、彼女を傷付けた誰かと、何も出来ない逃げてばかりの臆病な自分に対してなのに。
「ごめん。」
顔を背け、彼女の横をすり抜ける。カッとなってしまった頭を冷やそうと、病院の玄関に向かって歩く。
「…d…だ……い……!」
後ろから彼女が僕を呼び止めようとする声がするけど、振り向かない。
「…だ……い……く……!」
歩く。心に意地を纏って、歩く。
「…だ……い……く…ん……!」
病院の外に出る。夜の街を歩く。彼女の声が、夜風に消される。
夜風が、彼女と僕の間を、ひときわ濃くすり抜けていった。
花瓶いっぱいに水を入れて
1
翌日、小春は学校に来なかった。居心地の悪い空気の中に無理やり居座りながら、僕を呼び止める笑顔を、手のひらを、聲を振り払いながら、授業に集中する。その温もりを思い描いてしまっては、何だか間違っているように思え、僕は黙々とノートにシャープペンを走らせた。
その翌日も、またその翌日も、小春は学校に来ない。だからどうだって言うわけでもないし、腹部を打撲して安静にするために数日間欠席しただけのただのクラスメイトのお見舞いに僕が行かなければいけない義理もない。彼女は、クラスメイトなのだ。席が隣りで、顔と名前を知っていて、連絡先を交換していて、お互いの誕生日を知っている、たまに話す程度の。
その日も同じように授業に取り組み、放課後になった。身支度を終え、いつものように「一緒に帰ろう」と声を掛けようと、隣りの席を振り返る。目映い夕暮れ時の光が目の前のその空間で跳ねている。それを目にし、「
ああ、そうだった」と思い出し、僕は視線を元に戻した。
「いつものように佐倉さんに声を掛けようと思ったでしょ。」
女子高生らしい声に反対側を振り返ると、クラス委員長の牧原さんが立っていた。
「…別に。」
普段異性に滅多に声を掛けられないもんだから驚いてしまい、返事が素っ気なくなってしまった。自分の世界に戻ろうと視線をスクールバッグに落とす。
「嘘。青葉くん、佐倉さんの席を見て、一瞬寂しそうな目をしたよ。」
「そんな目、してない。」
ああ、なんで、一人になりたいのに。話しかけてくる牧原さんを傷つけずに振り払うために、スクールバッグを肩に背負い、牧原さんに背を向ける。と、左腕に柔らかい感触を感じた。牧原さんが僕の左腕を両腕で掴み、その弾みで豊満な胸が僕に当たっている。
「……っ!」
「どうしたの?」
牧原さんが僕の顔を覗き込む。一瞬動揺してしまったことが悟られないように、顔を背ける。
「…ねえ、一緒に帰らない?」
特段親しくもないクラスメイトと一緒に帰るだなんて、僕には荷が重かった。断ろうと、牧原さんを振り返る。
「悪いけど、誰かと一緒に帰る気分じゃ……」
「佐倉さん以外の女の子とは、一緒に帰れない?」
牧原さんが僕の言葉を遮る。
「そういうわけじゃ……」
「私、このクラスの委員長じゃない?最近佐倉さん休んでるし、心配で……お見舞いに行きたいんだけど、私一人で行くのは差し出がましい気がして、佐倉さんと仲が良い青葉くんが一緒なら、佐倉さんもほっとするかなと思って。」
「…だから、駄目かな……?」
胸の前で拳を握り締めながらそう言う牧原さんに、その善意を無碍にすることは到底出来なかった。牧原さんに押し切られるように頷く。
牧原さんが微笑んだ。
「ありがとう。」
2
その日から、小春をサポートする名目で、僕と牧原さんは先生から何かと一任されることが多くなった。僕と小春の間にはまだぎこちなさが残っていたし、小春と同じ女性という味方が入ってくれることは嬉しかった。小春が復帰してから数日後の昼休み、牧原さんが復帰祝いにと、小春と僕を遊園地に誘った。
「チケットがちょうど3枚余ってるの。私も2人ともっと仲良くなりたいし、夏休みにでも一緒に行かない?」
早くこの蟠りを解きたかった僕は、牧原さんが差し出すチケットに便乗しようとした。と、その時、小春が僕の制服の裾を掴んだ。
「…小春?」
小春は唇を噛み締め、何かを言おうと、僕を見上げていた。
「どうした?」
「…あ……う……」
小春はとうとう、お腹を抑えて蹲ってしまった。
「腹、まだ痛むのか?」
「大丈夫、佐倉さん!?」
「…う…………」
「私、保健室に連れて行ってくる!」
「あ、ああ。」
牧原さんは小春を優しく立たせると、教室を出て行った。
「小春、どうだった?」
帰って来た牧原さんに尋ねる。
「放課後まで保健室で休むって。やっぱり、蹴られたところが痛むのかな。」
5,6限は体育だ。身体を動かす科目だから、無理に出席して傷に響いてしまっては良くないとの判断だろう。
「佐倉さん、早く良くなるといいんだけど……」
牧原さんが呟く。あの日、追い縋る彼女の聲を意地を纏って遠ざけてしまった自分を思い出す。僕が、僕だけは、彼女の味方で居なければいけなかったのに。彼女が言いたくないのであれば、彼女が言えるようになるまで、待ってあげるべきだったのに。責めるべきは彼女ではなく、彼女にあんな酷い怪我を負わせた人物に対してだったのに。
「―僕のせいだ。」
「えっ?」
知らず知らずのうちに漏れていた呟きに、牧原さんが不意を突かれたように僕を窺った。
「小春に好きだって言われた時、―ちゃんと、小春に答えなかったんだ。」
「自分じゃー小春を傷付けてしまうって……わかってたから。自分は小春の隣りにいていい存在じゃないって……わかってたから。」
「ちゃんと、小春に……言えなかった。」
牧原さんは黙って僕の言葉を聞いている。
「小春が倉庫に閉じ込められた日、病院に行ったんだ。」
「誰にやられたか聞いても、小春、答えなくて。」
「何で言わないんだって、小春を責めてしまった。」
僕の罪の独白を、牧原さんはまだ黙って聞いてくれている。
「言わなきゃいけないことを本当に言っていないのは、僕の方なのに。」
「小春はたとえ自分が酷い目に遭っても、自分を酷い目に遭わせた人を責められるような性格じゃないって、わかってたのに。」
「はあー最低だ、僕。」
自分の顔を両手で覆う。―と、手首に、手が添えられた。
「ー青葉くんは、佐倉さんのことを、どう思っているの?」
「ー青葉くんと佐倉さんに、何があったのかは分からないし、聞くつもりもない。ただ、青葉くんの純粋な気持ちを、私に教えてほしい。―佐倉さんのことを、本当は、本心では、どう思っているのか。」
牧原さんの真っ直ぐな瞳が、僕の心を揺らす。
「佐倉さんの気持ちにちゃんと答えなかったのも、きっと佐倉さんのことを想ってのことだったんでしょう?」
「佐倉さんを問い詰めてしまったのも、佐倉さんを傷付けた誰かを怒ってのことだったんでしょう?」
「―私にだけ、青葉くんの本当の気持ちを、教えてくれない?」
手を外して開いた視界の先で、牧原さんがやさしく微笑む。心の中に必死に抑え隠し込んでいた気持ちが、僅かに開いた唇の隙間から、滑るように溢れ出す。
「……僕は……小春のことが…………好きだ…………」
牧原さんが僕の手を握り、しっかりと微笑んだ。
「―だったら、遊園地で、仲直りしましょう?」
水に溺れて乾く
1
そして一学期が明け、夏休み。小春と自宅前で待ち合わせる。今日は小春と牧原さんと3人で、遊園地に遊びに行くことになっていた。牧原さんとは、途中の駅で待ち合わせることになっている。
「おはよう、小春。」
玄関ドアを開けて、小春が家から出て来た。僕を見て、小春が挨拶を返そうと、口を動かす。
「おh……」
しかし言葉が上手く出て来ないのか、困ったように顔を歪めてしまう。
「いいよ、無理に喋らなくて。」
僕がそう言うと、小春がほっとしたように微笑み、携帯を取り出した。それを見て僕も携帯を取り出す。まもなく、小春とのLINEのトークルームに、「おはよう」とメッセージが表示される。
「おはよう」とメッセージを返し、小春と向き合う。
「お腹…もう大丈夫か?」
「今日いっぱい動いたりアトラクション乗ったりすると思うけど……大丈夫?」
先日の怪我の件について尋ねると、小春が首を縦に振って頷いた。
「そうか。でも途中でちょっとでも痛くなったりしたら、遠慮せず言えよ。アトラクションに乗っている最中でも、全然いいから。」
僕がそう言うと、小春がまたほっとしたように微笑んだ。少しではあるが、小春があの日言葉を取り戻してから、笑顔や安心したような表情を見られることが増えたような気がする。これも、牧原さんが小春を気に掛けてくれるようになったからなのだろう。やっぱり、異性の僕では出来ないこともある。その意味で、牧原さんの存在がありがたかった。だからこそ、牧原さんが励ましてくれたように、僕は小春に謝らなければいけない。
「小春」
僕のそばに立っている小春の名前を呼ぶ。僕の声がいつもと違って真面目だったからか、小春が不思議そうに僕を見た。
「あの時は、ごめん。」
腰を折り、深く小春に頭を下げる。
「…ちゃんと、小春の気持ちに、……答えてあげなくて。」
「…………」
「でも僕は、小春のことを自分よりもものすごく大切に想っているから。小春が何か困っていたら、絶対助けるから。小春が何か危険な目に遭ったら、絶対小春を守るから。」
だから、と続ける。
「いつか、必ず、返事をするから。何年かかるか分からないけど、絶対に僕の本当の気持ちを小春に伝えるから。」
「―だから、それまで待っていてほしい。」
小春は、静かに僕を見てくれている。続ける。
「小春が倉庫に閉じ込められた日も、誰にやられたかって、何で言わないんだって、小春のことを責めてごめん。」
「自分はちゃんと言わないくせに、小春のことを責めてごめん。」
「小春に、自分の中で我慢してほしくなかったんだ。だから、無理に小春を問い詰めて、そして小春が僕を呼んでいたことには気付いていたのに、無視してしまった。―本当にごめん。」
「小春は優しいから、たとえ自分が酷い目に遭っても、誰かを糾弾するようなことが出来る性格じゃないって、わかっていたのに。小春を倉庫に閉じ込めて怪我をさせた人を責めるべきだったのに、それなのに、僕は小春を責めてしまった。」
「本当に、ごめん。」
頭を下げたまま続ける。
「でも僕は、小春の意には反するかもしれないけど、小春をあんな目に遭わせた人を、責めたい。小春をあんな目に遭わせて、傷付けて、酷いことをした人に、何やってんだって、ふざけんなよって、怒りをぶつけたい。小春に何してんだって、僕の大事な人に何してくれてんだよって、ボコボコになるまでそいつをぶん殴りたい。小春に謝れって、何も知らないくせに、何してくれてんだよって、言いたい。」
「だから、」
顔を上げる。戸惑ったように僕を見ている小春の瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「―だから、小春が教えてくれるまで、僕はいくらでも待つから。小春が無理しないで、僕に教えたいと思うようになるまで、ずっと待つから。何年でも、何十年でも、何百年でも待つから。」
「僕も、いつか、必ず伝えるから、だから、小春も、いつか、僕に教えてほしい。」
「声に出すのがつらかったら、LINEでも、手紙でも、伝言でも、夢で教えてくれても、何でもいい。小春が一番楽だと思う手段で、小春がそうしたいと思うタイミングでいいよ。」
「自分を、責めすぎないでよ。小春は何も、悪いことはしていないんだから。」
小春と同じ目線の高さに屈み込み、頭を撫でる。
「このことだけじゃなくて、僕に言いたいことがあれば何でも言ってほしい。全部聞くから。」
携帯電話を手に持つ小春の瞳を見て言う。僕の言葉が少しでも小春に届いてくれたのか、小春がふにゃっと目を細めた。そして小春が携帯電話を弄り始める。
そんな小春の様子に、僕と小春の間に燻っていた蟠りが溶けたような心地がして、自ずと吐息が漏れた。
「牧原さんに感謝しないとな。」
蟠りを解くきっかけを作ってくれた牧原さんへの感謝の気持ちを言葉にする。と、携帯電話を弄っていた小春の指が止まり、そしてつらそうに小春が顔を歪めた。
「?どうした?」
小春が携帯電話をまた弄り、何かを言いたそうに僕の顔を見た。その表情に、自分が小春以外の別の女の子の名前を口にしてしまっていたことに思い至る。
「何だよ、嫉妬か?」
「僕が〝牧原さん〟って言ったから、不安になっちゃった?」
「かわいいなあ、もう。」
「大丈夫だよ、僕が大切に想っているのは小春だけだから。」
そう言いながら小春の頭をわしゃわしゃと撫でる。小春が少し身を屈め、目を細めた。
2
牧原さんと合流し、遊園地へと向かう。牧原さんは移動中もずっと小春に話しかけてくれていた。
遊園地に着き、何のアトラクションに乗るかを話し合う。
「コーヒーカップとか、メリーゴーランドとか乗るか?小春絶叫系乗れないだろ?」
「あっ、でもさっき、〝乗れるようになりたいから練習してみたい〟って言ってたよ。」
「本当か?大丈夫なのか?」
牧原さんと小春の顔を覗き込む。小春は迷ったようにちらほらと視線を彷徨わせたあと、目をぎゅっと瞑って頷いた。
ジェットコースターは2人掛けの座席配置が多い。小春と牧原さんが並んで座り、僕は2人の後ろに座ることにした。
「小春。無理はすんなよ。」
「小春ちゃん、怖かったら私にしがみついていいからね。」
後ろから小春に声を掛ける。牧原さんも小春にそう言葉を掛けてくれた。
コースターが緩やかに動き出す。小春はぎゅっと目を瞑ったまま、お腹の前の安全バーをぎゅっと両手で握り締めている。カタカタとコースターが揺れ、上昇を始める。あまりにも微動だにしない小春に、思わず声を掛ける。
「大丈夫か?」
「来る来る来る!」
小春の隣りで牧原さんが慌てた様子で安全バーを掴んだ。
そして
「うわああああああああああ!!!!!」
コースターは一気に降下した。急降下の勢いのままに、右に大きく旋回し、続けざまに今度は左に大きく旋回。激しい揺れと激しい動きで、コースターは猪突猛進にレールの上を突き進む。コースターは幾重にも反り返ったコースを猛スピードで進み、ようやく速度を緩めた。
コースターが乗降場所に戻って来る。
「お疲れ様でしたあ!」
キャストさんの声を合図にコースターが停止する。安全バーが上がり、前の小春の席を覗き込む。
「小春、大丈夫か?」
「はあ、楽しかったあ!」
牧原さんがうーんと伸びをしながらコースターからぴょんっ、と跳ねるように降りる。牧原さんの後に続いてコースターを降りようとした小春が、力が抜けたように蹲った。倒れそうになったその身体を慌てて受け留める。
「大丈夫か。」
僕の腕の中で顔を上げた小春が小さく頷き、「あr……」と口を動かし、悔しそうに顔を歪めた。言葉に出せなくても、何を僕に伝えたかったのか分かり、首を縦に振って頷く。
「大丈夫。わかってるから。」
僕の言葉に、小春が唇を噛み締め、そして遂にぽろぽろと涙を零した。
「ど、どうした?怖かった?」
小春は黙ったまま、涙を地面に落としている。
「よしよし。もう大丈夫だから。よく頑張ったな。」
小春の頭をわしゃわしゃと撫でる。コースターの脇で蹲る僕らに、キャストさんが心配そうに近寄って来た。
「すみません、大丈夫です。」
「チャレンジして乗ってくれたのかな?頑張ってくれてありがとう!気持ち悪いとか、目眩がするとか、大丈夫そうかな?あそこにベンチがあるので、ゆっくり休んでくださいね
。」
キャストさんがすぐ近くにあったベンチを指差す。「何かあったら、すぐにキャストを呼んでくださいね。」
「ありがとうございます。」
キャストさんに頭を下げ、ひとまず小春を抱きかかえる。キャストさんが教えてくれたベンチに、牧原さん先導のもと、向かう。ベンチに辿り着き、小春をベンチに座らせる。
「気分はどう?大丈夫?」
ただ静かに頬に涙を落とす小春に訊ねる。小春は頬に涙を落としたまま黙って頷いた。頬に落ちた涙を手で拭っていく。
「ちょっと休もうか。―ごめん、いい?」
牧原さんに聞く。牧原さんは大きく頷いてくれた。
「もちろん。―そうだ、気分転換にチュロスでも食べない?」
牧原さんの視線がベンチとは反対方向に向く。ベンチから50mくらい離れた場所に、チュロスの販売車があった。
「そうだな。僕買って来るよ。キャラメルとチョコといちごの3種類あるけど、どれにする?」
販売車の方を見遣る。それぞれオレンジ,ブルー,ピンク色のパンフレットが、販売車に貼り付けられていた。
「ありがとう。私はキャラメルで。」
「わかった。小春は?キャラメル?チョコ?いちご?」
それぞれ一本ずつ指を立てながら小春に問う。指先で目元を拭っていた小春が、指を3本立てて見せた。
「わかった、いちごな。」
小春が頷く。「あr……」
「大丈夫大丈夫」
小春の頭をポンポンと叩く。振動で、睫毛に宿っていた滴が一粒、ぽつりと頬に落ちた。
「じゃあ、僕買って来るわ。」
「うん、ありがとう。」
牧原さんが僕にお礼を言う。2人に頷き、販売車の方に向かおうとすると、小春が僕の服の裾を掴んだ。
「小春?」
小春は俯いたまま何も言わない。
「ーどうした?」
それでも何も喋らない小春の頭をよしよしと撫でる。
「チュロス買ったらすぐ戻るから、な。」
〝小春を頼む〟と牧原さんに目配せし、チュロスの販売車の元へと急ぐ。
チュロスを3本買って戻ると、小春と牧原さんが話し合っていた。話していると言っても、小春は携帯のLINEを使ってなのだけれど。
「本当に?大丈夫?」
牧原さんが驚いたような表情を浮かべ、小春に問うた。
「どうした?―はい、これ。」
「あ、ありがとう。―あ、代金……」
「お金はいいよ。それより、どうしたの?」
チュロスを2人に渡しながら聞く。牧原さんが説明した。
「あ、うん。小春ちゃんが、またジェットコースターに乗りたいって。」
「えっ?」
「絶叫系に乗れるようになりたいから、今日はたくさん乗りたいって。」
「小春、そうなのか?」
小春に問う。小春がおどおどと視線を彷徨わせた。
「でも小春、いまのジェットコースター怖かったんだろう?本当に、大丈夫なのか?」
「小春ちゃん?」
牧原さんが小春の背中に手を添える。
小春がおろおろと視線を彷徨わせ、目をぎゅっと瞑って頷いた。
「わかった。でも無理はするなよ。」
小春が目を潤わせ、頷いた。
「とりあえず食べよう。冷めちゃう。」
「うん。」
ベンチに3人並んで座り、チュロスを頬張る。チュロスを頬張りながら、どのアトラクションに乗るか、話し合う。
その後、3つほど絶叫系のアトラクションに乗ったが、小春は段々慣れて来たようで、最後の方は少しではあるが、手を手すりから離せるようになっていた。ジェットコースターは2人掛けの座席配置が多いので、小春と並んで座れないのが少し残念ではあったが、こういう機会は純粋に嬉しかった。
帰り道。
疲れてしまったのか、小春は帰りの電車の中で船を漕ぎ始めた。乗り換えの駅で、牧原さんと別れる。
「牧原さん、今日はありがとな。楽しかった。」
「いえいえ、こちらこそ。私も楽しかった。また3人で遊ぼう。」
「そうだな。じゃあ。」
よいしょ、と小春を背負い直した僕を、牧原さんが呼び止める。牧原さんがかわいくラッピングされた小包みを僕に差し出した。
「あ、待って。これ小春ちゃんに渡してくれる?」
「小春に?」
背中で眠っている小春に肩越しに視線を向ける。
「うん。2人が上手く行くためのお守り。小春ちゃん、今日頑張ってたから。」
「―男の子が中を見ちゃうと、効果が切れちゃうの。だから絶対に中は見ちゃ駄目だよ。」
牧原さんが、僕の耳元に手を添えてそう囁く。その色っぽい仕草と言葉に一瞬だけドキッとしてしまった自分をごまかすように、慌てて牧原さんから小包みを受け取る。
「あ、ありがとう。渡しておくな。」
「うん。―見ないって、約束してくれる?」
牧原さんが僕に向かって小指を差し出す。
「あ、ああ。」
牧原さんの言葉に一時面喰ってしまったが、ついさっきの牧原さんの言葉が脳裏に蘇り、また牧原さんの思いを無下にするわけにもいかず、首を縦に振って頷く。小春を起こさないようにするために腕を伸ばすことが出来ず、自分の腰の脇に手を添えたままの体勢で、牧原さんに向かって小指を伸ばす。
「ごめん、これ以上腕を伸ばせないんだ。」
「ええ。わかってるわ。」
僕の言葉に、牧原さんがぐっと僕に近付く。身体と身体が密着しそうな距離の中、牧原さんの甘い息が顔にかかる。
「じゃあ、約束ね。」
「―あ、ああ。」
僅かに僕を見上げる牧原さんの瞳と甘い囁きに、心が絆されていき、喉が音を鳴らした。ゴクッと唾を飲み込み、雑念を断ち切るために牧原さんから一歩後退る。揺らいではいけないと、小春を支える腕に力を込め直す。
「じゃあな。」
自分から一歩後退った僕に一瞬だけ牧原さんの表情がかすかに翳った気がした。他の女の子に乱されそうになってしまった自分が悪いのにその雑念を振り飛ばすために思わず牧原さんを拒絶するような反応をしてしまい、そのせいで牧原さんを傷付けてしまったかと申し訳のなさが頭を過ぎったが、彼女はすぐにニコッと華やかな笑顔を浮かべると、僕に手を振った。
「うん。バイバイ。またね。」
蕾の聲に耳を傾けて
1
それから数週間。夏休みが明けても牧原さんは小春と仲良くしてくれていた。週末のある日の午後、夕飯の買い物をしてスーパーから自宅へと帰って来ると、小春の家からちょうど小春のお母さんが顔を出した。
「あ、大樹くん。おかえり。」
「どうも。」
「大樹くんは偉いわね。たまにはうちに食べに来てくれていいのよ?」
小春のお母さんが、僕が持つ長ネギや牛乳が入ったスーパーのレジ袋を見て言う。
「いえ。迷惑は掛けられないので。僕がお邪魔すると、父が一人になってしまうので……
。」
「お父さんも遠慮しちゃって。でもいつ食べに来てくれてもいいんだからね?小春も最近、よく部屋に閉じこもるようになっちゃったし、一人でどこかに遊びに行くようになっちゃったし。まったく、反抗期かしらね?」
「え?一人でですか?」
「そうなのよ、週末の度に朝から遊びに行って、夕方まで。まあ夕方には帰って来るからいいんだけど、今日も遊びに行っちゃって。」
「それ、どこに行っているか分かりますか?」
「ううん。でも、練習したいから、って言っていたわ。」
「練習したい?」
「ええ。」
小春のお母さんが言った言葉の意味を考える。不思議なことに、何となくではあるが、小春がお母さんに言った言葉の意味が、すぐにわかった気がした。
「―それ、遊園地かもしれないです。」
「え?一人で?」
小春のお母さんに頷く。携帯電話を取り出し、小春とのLINEのトークルームを開く。
「いま遊園地にいるのか?」
メッセージを送る。少し待ってみるが、既読が付く気配はない。わずか数分変化をもたらさない画面に、じれったい感情が僕の背中を押した。
「ちょっと僕迎えに行って来ます。」
「え、ちょっと」
「これお願いします」
小春のお母さんに買い物袋を押し付ける。
「え、ちょっと、これどうするの?大樹くん
!」
小春のお母さんの声を風に流し、走る。何で
?何であいつは苦手な絶叫系のアトラクションに乗る練習をしているんだ?しかも一人で。練習がしたいなら、僕にも声を掛けてくれればいいのに。ハアッ、ハアッ、と息が口を衝いて出たが、ずっと走っていても疲れは感じなかった。電車を乗り継ぎ、走り、また電車を乗り継ぎ、ひたすら走る。乗り換えの電車を待っていると、一番最初に送ったLINEのメッセージに「うん」と短い返信が来た。
「いま向かってる」
「着いた」
「どこにいる?」
しかしその後に送ったメッセージは既読は付くものの、返事はない。電話で小春の携帯を呼び出す。
何回か掛け直すが、応答はない。返信も来ない。携帯を耳に当てながら、人の多い園内で小春を探す。
30分近く園内を駆け巡っていると、見知ったショートボブの頭が目に入った。
「小春っ!」
しかし声が聞こえなかったのか、小春は僕の数十メートル前を横切り、その先にあったトイレに駆け込んで行った。
トイレから出て来たところで話しかけようと思い、トイレの前の壁にもたれる。と、中から嘔吐する音が聞こえた。目を見開く。
思わず女子トイレの中に入ろうとしてしまい一瞬躊躇してしまってから女子トイレの扉を勢いよく開ける。
「小春!」
一番手前の個室のドアが半開きになっていて、こちらに背を向けた小春が便器に向かって嘔吐していた。
「小春っ!!」
駆け寄り、背中をさする。
僕に驚いた小春が目を丸くし、恥じらうように顔を歪め、そして僕から吐瀉物を隠そうと便器の上に両手を翳し、ぼろぼろと涙を零した。
「ごめんな。見られたくないよな。でもそれより心配なんだ。」
泣きながら嘔吐する小春の背中をさする。小春の背中をさすっていると、後ろでドアが開閉する音と女性の短い悲鳴が同時に聞こえた。
「きゃっ」
「ごめんなさい!つ、通報しないでくださいお願いします…!」
慌てて立ち上がり、小春を隠すように女性に向き合う。
「あ、あの、後ろの方、大丈夫ですか?」
「えっ、あっ、はい」
「彼女のことは私が見ておくので、トイレ清掃の方を呼んでもらえますか?あなたは早くここから出た方がいい。多分男子トイレの中にも書いてあると思うので。」
女性が洗面台付近の壁に貼ってあった清掃員の連絡先が書いてある貼り紙を示す。
「え、でも、そんな、ご迷惑じゃ……」
「大丈夫です。それより早くここから出てください。私は大丈夫ですが、他の女性が来る前に早く出た方がいいです。」
「あっ、はい、ごめんなさい、ありがとうございます。」
「それから清掃の方をお願いします。」
「はい!」
「あ、あと、彼女喋れないんで、携帯に文字打ってもらうとかしてコミュニケーション取ってください、耳は聞こえるので。」
「分かりました。」
女性に半ば押し切られるようにして女子トイレから出る。運が良いことに、女子トイレの外には人影は見えなかった。
男子トイレに入り直し、洗面台の壁に書いてあった連絡先に電話をする。まもなく清掃員がやって来たので、事情を説明する。清掃員が女子トイレに入ってからまもなく、入れ違うようにして小春が女性に連れられて出て来た。
「大丈夫か、小春。」
僕の問いに、小春が顔を伏せて小さく頷いた。
「ひとまず吐き気は治まったみたいです。お水を買って……」
「いえ、大丈夫です。後は僕がやるので。ありがとうございます。」
「そう、ですか……?」
女性の親切な申し出を断ると、女性が心配そうに小春を見た。
「はい。あ、そうだ。はなさくスーパーって利用されますか?」
「ええ……」
「これ、福引で割引券当たったんです。どの店舗でも利用出来るので、こんなもので良ければ。」
財布からチケットを取り出す。と、僕の横で小春も鞄の中をごそごそと探し、飴玉を2つ取り出した。そして僕の服の裾を引っ張る。
「わかった」
「小春も、これお礼に、だそうです。」
「え、でも、そんな……」
「お願いします。」女性に頭を下げると、女性はしばらく戸惑ったような表情で僕らを見比べていたが、ふっ、と頬を緩めて微笑んだ。
「ありがとうございます。いただきますね。」
「はい。」
女性が僕と小春の手からそれぞれチケットと飴玉を受け取る。
「じゃあ」
「本当にありがとうございました。」
女性に頭を下げると、女性が踵を返した。と、小春が「hんt……」と言い掛け、慌てて僕の服の裾を引っ張る。
その意を察し、慌てて女性を呼び止める。
「待ってください!」
僕の声に、女性が振り返った。携帯を一生懸命弄っていた小春が、女性に画面を見せる。女性が小春の携帯を覗き込む。
「hんt……あr…t……」
小春がそう声を出す。画面を見た女性が、小春に微笑んだ。
「文字にしなくても、心がこもっていれば声だけでも伝わるよ、大丈夫。」
「でもありがとう。素敵な彼氏さんにも、言ってあげてね。」
その言葉に、カッと顔が紅くなる。そんな関係ではないのだが、年頃の男女が2人きりで遊園地という定番のデートスポットにいれば、傍から見れば、そう見えてしまうのが普通のことなのだ。
「では。」
軽く会釈をした女性に、小春と2人揃って頭を下げる。
「ありがとうございました。」
女性を見送り、小春に声を掛けようと小春の顔を見る。と、その顔の紅さに、瞬く間に少し濃いめの桜色の感情が僕の頬で再燃した。
「と、とりあえずそこのベンチに座って待ってて。水買って来るから。」
小春が頷いたのを確認し、一番近い自動販売機を探して駆け出す。得意ではないのに、小春が嘔吐してまで身体と心に無理を強いているのが、悲しかった。小春が嘔吐してまで身体と心に無理を強いていることに気付けていない自分が、恨めしかった。
「クソッ……!」
何が素敵な彼氏だ。去り際の女性の言葉が脳裏を掠める。僕はむしろ小春を傷付ける駄目な奴なのに。幼馴染とすら言っていいのかわからないような奴なのに。これまでだって、全然役に立って来なかったのに。いまだって、苦しんでいる小春を助けのは僕じゃなく通りすがりの女性の方なのに。
ようやく見つけた自動販売機で水を購入し、慌てて小春が待つベンチに走り戻る。
「お待たせ、小春。」
声を掛けると、小春が「あr……」と声を発した。その声に「ん」と軽く頷き、小春の横に腰を下ろす。
「まずそれ飲んで、落ち着いたらでいいから、何があったか教えて。」
体内に水を取り入れていく小春の様子をそっと眺める。眺めながら、気付いたら言葉が漏れ出てしまっていたのか、小春が驚いたように僕を見た。
「えっ?」
僕の声に、小春がふるふると首を横に振った。その動作と様子に、小春に声を掛ける。
「気分は、大丈夫か?」
僕の言葉に小春が頷き、「gm…ん……s…さ……」と呟く。
「いいって、全然。」
「でも、絶叫系乗れるようにするために、何でわざわざ週末に一人で練習していたんだよ
?」
「え…う……」
「この間も、一つ目ですでにふらふらだったのに、あの後3つも乗ったし……」
「練習したいなら、僕も誘ってくれて良かったのに……」
「何で、吐くまで……」
つらかった。自分を追い詰めてまで、体調を崩してまで苦手なアトラクションを克服しようとする小春が、痛々しかった。
「d…だい……k……t…いs……j……k…こst……n…rう…y……n…あ…t……t……」
「僕と…何?」
「…いts…y…お……j…jえ……k…こst…tあ……n…お……え…rう…y…uお……」
聞き取れずに聞き返す。頑張って声を発していた小春は、そこまで話すと瞳を潤わせて泣き出してしまった。
きっと〝わからない〟という感情が、表情に出てしまっていたのだろう。自分が小春の声を聞き取れなかったということの意味が、罪悪感を伴って胸を切り刻む。
「ごめん、ごめんな。」
「聞き取れなくてごめんな。でも僕も小春の声を聞き取りたいんだ。」
小春の肩を抱き寄せ、頭を撫でる。小春が涙を膝の上に落としながら、携帯を弄った。
〝大くんと一緒にジェットコースター乗れるようになりたくて〟
まもなく画面に表示された言葉に、目を見開く。
「僕の……」
「僕のため……?」
耳に聞こえた自分の声が、冷たいほど乾いていた。小春が口をぎゅっと結ぶ。
「僕はっ」
自分の声が、どこか遠くで聞こえた。小春が僕を見る。
「僕は!」
突然大声を出した僕に、小春がビクッ、と肩を震わせた。
「僕はっ、小春とならなんでも楽しいよっ!」
その震えた肩を掴み、叫ぶように話す。
「コーヒーカップでも、メリーゴーランドでも、ゴーカートでもっ!」
「ジェットコースターじゃなくても!小春と一緒なら!!」
小春の目が、まん丸になって僕を見る。
「無理してジェットコースターに乗る小春より、楽しそうにコーヒーカップに乗る小春がいい。」
「小春には…小春にだけは、無理してほしくない。」
「お願いだから…僕のために無理しないで……」
両手で掴んだ小春の肩に、顔をうずめる。うずめたまま、呟く。
「ばかやろう。」
小春の肩が震える。
「僕も小春も、大馬鹿野郎だ。」
「……ごめん。」
鼻をすする。その僅かな滲みに、小春の身体が揺れた。
「d…だ…い…kく……?」
小春が僕の名前を呼んだ。
「無理してんじゃねーよ。」
ごまかすように、小春の服を引っ張るように掴む。
「つらいんだよ、」
服を引っ張ったまま、小春の背中を軽く叩く。
「ばかやろう。」
自分の肩で静かに泣く僕に、小春がおろおろと身体を動かそうとする。
「動くなばか」
「見んな」
当てつけのように言葉を吐く。と、背中に優しい感触が触れた。小春の手が、僕の背中を上から下に辿る。
次の瞬間、脳裏に抱き合う2人の偶像が浮遊し、僕は思わず飛び上がるように小春の身体を離した。
「……っ!」
口元を隠すように鼻を手で抑える。目の前で小春がきょとんと小首を傾げていた。その温度差に、何かがどうしようもなく恥ずかしくなって来る。
「帰るぞ!」
半ば無理矢理に、小春の手を掴み引っ張る。
「う、うん。」
僕の半歩後ろを、小春が歩く。
いつも人より半歩後ろに立つ小春が、せめて僕といる時だけは僕と並んで歩けるように、掴んだその手を少し強く引っ張る。引っ張られて少しよろけた小春が僕の肩にぶつかる。
「ちゃんと僕の横を歩けよ。」
「僕の…………大切な存在なんだから。」
言いながら自分の言葉に照れてしまい隠すように小春のいない方に顔を向ける。
「……うん。」
小さな声が、照れの反対側から聞こえる。
「…体調は、もう大丈夫か?」
「…うん。」
「もう無理すんなよ。」
「…うん。」
「小春」
小春の名前を呼ぶ。隣りで、小春が僕を見上げた。
「今日はもう遅いから駄目だけど、また、来ような。」
怪訝な表情で僕を見上げる小春に続ける。
「遊園地。」
「ジェットコースターとか、無理に乗らなくていいから、小春の乗りたいものに、一緒に乗りたい。」
「ちゃんと、2人で遊びに来よう。」
「遊園地も、他のところでも、2人だけで過ごそう。」
「な?」
僕を見上げていた小春が、そこで顔を伏せた。そして、小春の真下にある灰色の地面が、ぽつぽつと所々切り取られるように濃く染められていく。
「え、ど、どうした。」
「小春?」
しゃがみ込み、慌てて小春の顔を覗き込む。目元に手を当てて目を隠している小春の口から、切れ切れに嗚咽が漏れる。
「だ、大丈夫……?」
僕の言葉に、小春が泣きながら頷く。
「あ、あの、嫌だったら、全然、気にしなくていいから!」
「そんな、僕は小春と2人で…遊んだりしたいけど、小春が嫌なら全然無理強いはしないし、牧原さんとか、一緒に遊びたいなら全然それで大丈夫だし……っ!」
慌ててまくし立てるように言う僕の腕を、小春が掴んだ。小春は目元から零れた涙を手で拭うと、僕を見て横に首を振り、手に持っていた携帯電話に必死に文字を打ち込み始めた。小春の動作を見て、ポケットから携帯電話を取り出し、小春とのLINEのトークルームを開く。間もなく、画面に小春の〝聲〟が文字となって表示された。
「嬉しい」
「私も、大くんと一緒に、2人で遊びたい」
「2人だけで、遊んだりしてみたい」
「ジェットコースターは、乗れないかもしれないけど……」
表示された小春の〝聲〟に、顔を上げる。
「嫌じゃ、ない?」
小春がコクン、と頷く。
「僕と、2人で過ごすの、嫌じゃない?」
小春がまた頷く。
「泣いてたけど……」
僕の言葉に小春がぽっ、と顔を紅らめ、携帯電話を弄った。
「嬉しかったから」
「大くんが、私と2人で過ごしたい、って言ってくれて、嬉しかったから」
「……嬉しくて、泣いちゃったの?」
僕の言葉に頷いた小春が、拗ねたように頬を膨らませ、僕から顔を背けた。
「なんだよもうっ」
そっぽを向いている小春を抱きしめる。
「かわいすぎかっ」
戸惑ったように目をきょろきょろと彷徨わせていた小春が、僕がわしゃわしゃと髪を撫でると、へにゃっと笑みを零した。いつものように小春が笑ってくれた気がして、ほっと心が温かくなる。
「―じゃあ、帰ろうか。」
うん、と小春が頷く。
「2人で、来ような。また。」
自分のよりひと回り小さな手を握りしめる。触れるぬくもりに、小春に、伝えたい言葉が見える。
「小春」
小春が僕を見上げる。僕を見るその瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「小春」
「絶対聞き取るから。」
毒が刺さり棘に絡まる
1
週末の土曜日。今日は僕と小春の2人で水族館に行くことになっていた。2人っきりで遠出をするのは初めてだったので、心なしか僕の心は浮かれていた。
ガチャッ、とドアが開き、玄関から小春が姿を見せた。音に振り返った僕と、小春の視線が絡む。白いブラウスに薄桃色のロングスカートを着た小春が、自分を見つめる僕に、パッと視線を下に遠ざけた。門のところまで歩いて来た小春が、携帯電話を弄る。
「ごめんね、また待たせちゃった。」
「全然。小春を待たせなくて良かったよ。」
表示されたメッセージにそう言葉を返すと、小春が「ありがとう」とかわいいワンコのスタンプを送って来た。
「小春」
携帯電話を弄っている小春の名前を呼ぶ。顔を上げた小春に、告げる。
「その服、すごく似合っているよ。―かわいい。」
僕の言葉に、小春の顔が一瞬で紅らむ。目をくるくるとさせている小春の手を握ると、糸が切れたように小春が僕に倒れ込んで来た。
「…ご…m……」
謝罪の言葉を口にして、小春が僕から身体を離そうと僕の身体を手で押す。小春が僕から身体を起こす前に、小春の背中に手を回して引き寄せ、その身体をぎゅっと抱きしめる。小春の背中を撫でながら「大丈夫?」と聞くと、小春が「う……」と僕の身体に顔をうずめた。その反応に、自分が小春に嫌がられていないことが分かり、小春を抱きしめたまま囁く。
「―今日、ずっと手繋いだままだと思うけど、いい?」
「そのー僕に、倒れ込んで来ていいから。」
僕の言葉に、小春が真っ赤な頬をして僕の腕の中で僕を見上げる。自分で言っておきながら途中で恥ずかしくなって、言葉の後半は微妙に小春から目線を逸らして言う。と、小春が僕の背中に手を回した。驚いて小春の顔を見る。僕の腕の中で顔を真っ赤にした小春が、唇を真一文字に結んで「うん」と首を縦に振った。
「…うr……sい……」
素直な小春の言葉に、嬉しさが頬に募る。
「じゃあ、行こうか。」
小春を離し、今度はその小さな手を握る。水族館が、僕らを待っている。
館内に入ると、当然ながらそこは照明が落とされていて、どこを見ても薄暗い空間が広がっていた。薄暗い空間に、不安が後悔を呼び覚ます。隣りを歩く小春が、ぎゅっと僕の手を握り締める。その感触に、歩を止め、小春に向き直る。
「ごめん、小春。」
突然歩くのを止め自分に向き直った僕に、小春がきょとんとした顔で僕を見上げる。
「大丈夫か?―ちょっと暗いし。」
僕の言葉に、小春が首を横に振る。
「怖く、ない?」
「そのー思い出しちゃわないかな、って。」
「ごめん、こんなこと、聞いていいのかわからないけど。でも、無理はしてほしくないから。」
そう言うと、小春が繋いでいた手を一旦離し、取り出した携帯電話を弄った。携帯電話を取り出し、メッセージが表示されるのを待つ。
「私は大丈夫だよ。」
「そこまで暗くないし、ここは狭くないから。」
「それに、」
「いざとなったら、大くんが助けに来てくれるでしょう?」
表示されたメッセージに目を見開く。と、小春が僕の手を引いた。
「d…だ……jy…ょ……b」
「あr…g…t…う」
耳に聞こえた小春の聲に、小春の思いが伝わった。その目を見て頷く。
「分かった。でも何かあったら、すぐに言えよ。―絶対守るから。」
小春が頷いたのを確認し、「チケットもらってくるから、ここで待ってて。」と受付に向かう。2人分のチケットを引き換えてもらって小春のところに戻ると、小春はお財布からお金を取り出そうとしていた。
「いいって。これくらい僕に払わせてよ。」
僕がそう言うと、小春は携帯電話を弄り、僕に画面を表示して見せた。
「あrぃ…gあ…t…う」
小春が呟く。表示された言葉に、小春の頭を撫でる。
「絶対聞き取るって、言っただろう?ちゃんと、聞こえてるから。」
「―でも、ありがとな。」
2
一通り展示を見終えて、フードコートで休憩を取ることにした。どうしてもスムーズに注文をすることが難しい私の代わりに、大くんが注文を取って来てくれているのを、テーブルについて待つ。何もせずにただ待っているのも申し訳ないので、鞄から貴重品だけ抜き出してセルフの水道にお水を取りに行く。紙コップ2つに水を注ぎ終え、席に戻ろうとすると、急に外が騒がしくなった。激しい物音、怒声、悲鳴……そして、女性が一人、フードコートに飛び込んで来た。時折後ろを振り返りながら走って来た女性が、私にぶつかる。反動で床に尻餅をつく。手から紙コップが滑り落ち、床を濡らした。唸り声が聞こえ、顔を上げると、目をギラリと鬼のように光らせた男が、私に向かって何かを振りかぶった。咄嗟に顔を背ける。耳に閃光が走った。聞いたことのない悲鳴が漏れる。鮮血が目のすぐ横を床に垂れた。激しい痛みが、頭のすぐ横で、鳴る。
「小春!!!!!!」
遠くで大くんの声が聞こえたような気がした。でも激しい痛みが、音を、声を、遠ざける。また、唸り声が聞こえた。ぼやけた視界の先で、男が、大きく腕を振りかぶる。瞬間、音が、視界がスローモーションになってーーーーー―――――
遠い、遠い、記憶。
暗い、暗い、視界。
「うちには、お金なんて無いわ!」
「嘘つくな!早く金を出せっ!!」
髪をボサボサに振り乱した男が、銀色に光るナイフを振りかぶる。悲鳴、怒声、血しぶき、鼻に刺す鉄の匂い、何かを蹴飛ばすような音、引っ搔き回すような音―――
「どこだよ、どこにあるんだよ!」
かすかに話し声が聞こえて、一瞬、静寂が訪れてー慌てて逃げて行く音、ピンポーンという呼び鈴の音、玄関の施錠が解かれる音、玄関ドアの開く音、途中で飲み込まれる「ただいま」の声、再びの静寂、息を潜めたような足音―――そしてーーーーー
ガシッ!と、何かが掠める音がした。
男のナイフが、大くんの腕を掠める。ナイフを振りかぶった反動で、男がバランスを崩す。その隙を見逃さず、大くんが男のナイフを蹴り上げる。ナイフが男の手から放れ、それを見たまわりの人達が、男を押し倒す。
「小春!!小春!!!!」
振り返った大くんが、蹲る私の肩を揺さぶった。目をいっぱいに見開いて、焦りを顔一面に貼り付けて、大くんが叫ぶ。大くんがハンカチを私の耳たぶに添える。ハンカチを持つ大くんの手―その先の大くんの腕から、真っ赤な鮮血が、ドクドクと溢れ出している。
「あ……あ……」
―――――
鼻に刺す鉄の匂い。床一面に広がる真っ赤な血。その血の海に、目をカッと見開いて、横たわる女性。
―――――
私の、私のせいで…………
すべての指が、小刻みに震える。血のついた指が、小刻みに顫動する。
「おい小春!!!!小春!!!!!!」
大くんの声が、遠ざかり、消えた。
自分と小春の分の注文を終え、呼出の番号札を持って一旦席に戻ろうとすると、急に外が騒がしくなった。激しい物音、怒声、悲鳴……そして、女性が一人、フードコートに飛び込んで来た。時折後ろを振り返りながら走って来た女性が、近くに立っていたショートカットの女の子にぶつかった。白いブラウスに薄桃色のロングスカートを着た女の子―小春が反動で床に尻餅をつく。唸り声が聞こえて、顔を向けると、目をギラリと鬼のように光らせた男が、小春に向かって何かを振りかぶった。死角となって見えなかったが、小春がいるはずの場所から、小春の悲鳴が聞こえた。劈くような小春の悲鳴に、持っていた番号札を取り落とす。
「小春!!!!!!」
椅子を薙ぎ倒すようにしながら走る。また唸り声を上げて、男が大きく腕を振りかぶった。
咄嗟に、小春の前に身体を出していた。劈くような痛みが、腕を切り裂く。ナイフを振りかぶった反動で、男がバランスを崩した。男のナイフを蹴り上げる。ナイフが男の手から放たれた。武器を失った男に、まわりの人達が、男を押し倒す。
「小春!!小春!!!!」
後ろで蹲る小春を振り返り、その肩を揺さぶる。両目いっぱいに涙を溜めて、小春が僕を見た。焦りが、緊張が、僕の手を、声を、震わせた。小春の左の耳たぶの表面が薄く切れ、赤い血が床に滴っていた。ハンカチを小春の耳たぶに添える。恐怖から、心臓がドクドクと音を立てた。
「あ……あ……」
小春が何かに恐れ慄くように両目を強張らせた。顔の前に出した小春の指が、小刻みに震える。
「おい小春!!!!小春!!!!!!」
小春の目がマリオネットのようにくるりとまわり、そして、小春の手が、無防備に床に落ちた。
「おい小春!!!!小春!!!!!!」
目を閉じて、動かなくなった小春の両肩を揺さぶる。涙が、視界をぼやけさせた。
「小春!!!!小春!!!!!!」
喧騒が戻って来る。周囲の人が近寄って来る。「救急車を呼べ!早く!!」誰かの声が叫ぶ。
「小春!!!!小春!!!!!!」
自分の声が、手が、指が震える。小春は何も反応を示さない。靄のように大きくなった喧噪の中、奥遠くから、救急車のサイレンが聞こえて来た。
3
病院に搬送された小春は、それから4日間目を覚まさなかった。耳たぶの怪我自体は皮膚が薄く切れた程度で軽く、すぐに出血も止まったのだが、小春の意識はしばらくの間薄暗い押し入れの奥に葬られた。小春の怪我が重いものではなかったこと,僕の怪我も腕を数針縫う程度で済んだことから、心はひとまず落ち着きを見せたのだが、怪我が重くはないのにもかかわらず目を覚まさない小春に、一瞬落ち着きを見せた心臓はすぐにもやもやとした不安の渦に飲み込まれた。病院の白いベッドの上で目を閉じたまま動かない小春に、不安はむくむくと膨らみ続けた。意識を失う直前の小春の表情が思い起こされた。何かに恐れ慄くように両目を強張らせていた小春。その表情に、彼女が怪我をした痛みよりも必死に押し込めていた過去の記憶を思い出してしまったということを、その記憶を僕自身も一瞬フラッシュバックさせてしまったことから、痛切に悟っていた。思い出したくない記憶。つらい記憶。僕と小春にのしかかるあまりにも酷な記憶。あの時、僕は母が息絶える瞬間に居合わせていたわけではなかった。母が強盗に殺される瞬間を見ていたわけではなかった。母がこの世からいなくなってしまった後、何も音を立てず静かに血溜まりの中にその身を横たえる母の遺体を見ただけにすぎなかった。それなのに、その僕でさえ、小春の悲鳴を聞いた時、小春がナイフで傷付けられるのを目にした時、両目いっぱいに涙を溜めた小春の顔を見た時、一瞬という短い時間とはいえ、激しく動揺してしまった。その瞬間にいなかった僕でさえそうなのだから、僕の母が殺される瞬間に居合わせてしまった小春は…小春の心情はーあまりにも耐え難いものであると容易に想像出来た。小春がどの程度母の死の瞬間に居合わせてしまったのかは分からないが、母が強盗にナイフで刺し殺される瞬間を見たかもしれない。その瞬間の母の悲鳴を聞いたかもしれない。その瞬間の母の苦悶の表情を見たかもしれない。身体から溢れ出す真っ赤な血を見たかもしれない。そして、〝自分のせいで僕の母が殺されてしまった〟と、自分を責め苛んでしまっているのかもしれない。もしそうであるならばーそこまでではないとしてもーそれはあまりにもつらすぎる記憶に違いなかった。薄暗く狭い押し入れで〝自分も殺されるかもしれない〟〝自分のせいで僕の母が大変な目に遭っている〟―そんな恐怖と罪悪感に囚われて……それなのに、事件から十年以上経ったいまでさえ、僕はそんな小春の心を晴らすことが出来なくてー
―「ごめん。」
いまだ目を覚まさない小春の前髪に、そっと触れる。過去といまが密接にリンクする。守りたいのに、傷付いてほしくなんてないのに、ずっと笑顔でいてほしいのに。僕を許してくれなくてもいいから、僕のそばにいてくれなくてもいいから、小春のそばにいたいなんてそんなおこがましいことは望まないから、―ただ、小春に、心の底から幸せに笑ってほしかった。でももし、小春の意識が無いいま、小春を幸せにすることが出来ない、小春を守り抜くことが出来ない、何も出来ないこんな僕でも、もしもいま、許されるのなら。
「―大好きだよ。」
心の内に、押し込み隠していた想いを、囁く。
―と、その睫毛がか細く震え、小春がゆっくりと目を覚ました。
「小春。」
その反応に、彼女が目を覚ましてくれて途方もなくほっとする思いと、まだ彼女に知られてはいけない自分の素直な言葉を聞かれてしまったかもしれないという途轍もない焦りが、同時に押し寄せる。
「…聞いちゃった?」
小春はただ、ぼうっと天井を見ている。
「…耳、痛くない?」
小春はまだ、視線を真っ直ぐ上へと向けている。
「…大丈夫?」
僕に何も反応を示さない小春の耳たぶを、やさしく撫でる。と、小春が息を吞むように悲鳴を上げ、ビクッと肩を震わせた。ようやく、小春の視線が僕へと向けられる。
「ごめん、びっくりさせちゃったね。」
驚いた表情の小春に謝る。僕の言葉に、小春の表情が怪訝そうなものに変わった気がした。
もう一度、耳の怪我の状態を窺う言葉を口にする。途端、小春の両目にみるみると涙が溜まり、小春が自分の両耳を引っ張った。
「痛い……?」
小春が両手で顔を覆った。次の瞬間、激しい慟哭が耳を刺す。
「えっ、どうしたんだよ。」
精一杯身を縮めるように丸めて大声で泣きじゃくる小春の背中をおろおろとさする。
「ごめん…!耳痛いよな、怖かったよな、」
泣きじゃくる小春の背中をさする。泣き声が聞こえたのか、病室の扉が開き、下に飲み物を買いに行っていた小春のお母さんが戻って来て顔を覗かせた。
「小春。目が覚めたのね。」
病室の扉が開くガラガラッという音に、小春が顔を上げる。小春の顔を見た小春のお母さんが「あらあら、」とベッドの小春に駆け寄りその腕をさすった。
「そんなに泣いてどうしたの?」
「目を覚ました途端、泣き出しちゃって。それからずっと泣いています。」
僕の言葉に小春のお母さんが僕に視線を遣った。
「傷は治っているし、そこまでもう痛くないと思うんだけど……。ー大樹くんは腕、大丈夫?」
「ええ、もう全然。僕もそんなに大きな怪我じゃなかったので。」
小春のお母さんに頷く。小春のお母さんが大きく首を横に振った。
「大きな怪我よ!小春を庇って、腕を切られたんでしょう?小春のために怪我をさせてしまって……」
「いえ、僕は小春を守れなかったので……むしろ怪我をさせてしまって不甲斐ないです……」
と、僕たちのやりとりに、小春が掛け布団を頭まで被り、布団の中に潜り込んだ。と、ポロンと音がし、小春のお母さんが携帯電話を取り出す。
携帯電話を操っていた小春のお母さんが目を見開き、布団の上から小春の身体を揺さぶった。
「ねえどういうこと、小春!」
「どうしたんですか。」
取り乱す小春のお母さんにそう声を掛けると、数瞬躊躇うようにしてから、小春のお母さんがゆっくりと僕に自分の携帯電話の画面を見せた。
画面を覗き込み、思わず目が揺らぐ。そこに表示された言葉は
「大くんにはもう会いたくない」
急に音が途切れたような、そんな気がした。言葉が詰まり、硬直したように携帯電話の画面を見つめる僕に、小春のお母さんがまた小春の身体を揺さぶる。
「ねえ、何で?大樹くんにはいつも良くしてもらっているし、何かあるといつも助けてくれるじゃない。大樹くんのこと好きなんでしょう?」
「大くんなんて大嫌い!!」
布団の中から届いた音のない大きな慟哭が部屋を揺るがす。
「いつも大事な時にいなくて、そばにいても何もしてくれなくて、」
「私の聲を返してよ!!!」
画面に表示される無言の慟哭に、小春のお母さんの手が小春を覆い隠す布団に伸びる。
「小春!!」
「お母さん!!」
叫ぶような僕の声に、伸ばした手がピタリと止まる。
「お母さん、やめてください。」
「でも……!」
「……確かに、僕は彼女の何の役にも立ってこなかった。倉庫に閉じ込められた時も、今回も、結局彼女を傷付けてしまった。何より、あの時僕が押し入れの戸を開けたせいで、彼女の心に深い傷を負わせてしまった。」
「大樹くん、」
「僕はただ彼女の近くにいただけの、役立たずなんだ。僕は彼女のそばにいて良い存在じゃない。」
「大樹くん!」
「ークラス委員長の、牧原さんって女の子が、良くしてくれると思います。失礼します。」
「大樹くん!!」
そう言って頭を下げる。小春のお母さんが僕を呼び止める。立ち止まってしまったら、振り返ってしまったら、小春のお母さんと視線を合わせてしまったら、もう耐えられそうになかった。その声に背を向け、足早に病室を出て振り返ることをせずに後ろ手で病室の扉を閉める。携帯電話を取り出し、未だに一通のやり取りもしていないLINEのトークルームを開き、メッセージを送る。
〝小春を頼む〟
メッセージが無事に送信された瞬間、抑えていた感情が、ひと息に溢れ出した。
「ー失礼します。」
「大樹くん!!」
一瞬見えた大樹くんの瞳が、いまにも泣き出しそうに見えた。大樹くんの瞳の奥で、泡のように水滴が揺らいでいた。
引き留められまいと足早に大樹くんが病室を出、病室の扉を閉める。病室の扉が閉められた一瞬の後、扉の向こうから大きな慟哭が聞こえて来た。
蕾を愛して
1
それから小春は学校に来なくなった。牧原さんが毎日授業のノートのコピーを小春の家に持って行っても、小春は顔を出さなかった。牧原さんが急用で学校を早退した日、授業のノートのコピーを代わりに僕が小春の家に持って行く。いつも家を出る時に毎日見ているはずなのに、久しぶりに訪れる小春の家は、何だかとても懐かしい気がした。呼び鈴を押して、家の中に上げてもらう。久しぶりに見た小春のお母さんの顔は、やつれているように見えた。そのことに、罪悪感が己を苛んだ。
「ーあの日から、ずっと鍵を掛けて、自分の部屋に閉じこもっているの。」
そう僕に話す小春のお母さんの目は、充血していた。
「ごめんなさい。ずっと、来なくて。」
僕の言葉に、小春のお母さんが首を横に振った。
「ううん。大樹くんは何も悪くないわ。あの子が、自分から私達を遠ざけたんだもの。」
「…………」
「ートイレと、お風呂以外、部屋から出て来なくて。最初のうちは、ごはんを部屋の前に置いておくと、食べてくれていたんだけど、最近は全く、ごはんも食べなくなって。」
「ずっと、部屋の中で、一人泣いているみたいなの。」
「一体どうしたら……」
小春のお母さんが一瞬おでこに手を遣り、ハッとしたように謝った。
「ごめんなさい、大樹くんが一番つらいわよね。小春も大樹くんのことが好きなはずなのに……」
小春のお母さんの言葉に、飲んでいた紅茶のカップをテーブルに置き、立ち上がる。小春の部屋の扉の前で立ち止まり、扉にそっと手を添える。
「小春」
何も音のしない扉の向こう側に、呼び掛ける。
「ーあの時、僕のことを〝好きだ〟って言ってくれて、嬉しかったよ。」
「だから、ちゃんと小春に応えられなくて、申し訳なかったと思っている。」
「勝手に、帰って、ごめん。」
「あれが小春の本心じゃないって、本当は分かっていたのに。」
「いま、何に、困ってる?何が、つらい?」
「何でも、聞くからさ。口じゃなくても、書き置きでも、夢でもいいって、言ったじゃん。」
「どんなに大変なことでも、どんなにつらいことでも、生きてさえいれば、どうにかなるはずなんだ。」
「僕は、小春のことをとても大切に思っているし、僕にとって、小春はすごい大事な存在なんだよ。」
「僕、小春の聲、好きだからさ。聞きたいよ。ー小春の聲を。」
「僕も、ちゃんと伝えるからさ。」
返事は、聞こえない。自分の聲が、小春に届いているのかも分からない。でも、扉の向こう側で、小春が泣いているような気がした。
「ー待ってるから。」
扉の向こう側に最後にそう声を掛け、扉に添えていた手を離す。
「また来てもいいですか。」
小春のお母さんにそう問いかけると、小春のお母さんがほっとしたように微笑んだ。
「もちろん、いつでも。大樹くんが来てくれると、私も嬉しいわ。」
2
扉の向こうから、誰かと話しているようなお母さんの声が聞こえた。
そっと、扉に手を添える。何も音の聞こえない扉の向こう側に、大くんがいるような気がした。
押し込めていた感情が溢れ出す。かすかな自分の涙の音が、静かに響く。
あの日、病院のベッドの上で目が覚めたあの時、私は大くんがそばにいることに気付かなかった。突然耳に手が触れる感触がして、思わず声を上げていた。自分の声も、布団の衣擦れの音も、空気が振動するかすかな音も、全部聞こえたのに、大くんの聲だけが、聞こえなかった。大くんの口は、動いていた。大くんは何かを、話していた。それなのに、大くんの聲は、聞こえなかった。その後病室に入って来たお母さんの声は、ちゃんと聞こえたのに。大くんの声は、私には聞こえなかった。
怖くなって、もう大くんとはいられないと思って、一緒にいたら大くんにさらに迷惑を掛けてしまうと思って、気付いたらあんな言葉を送ってしまっていた。自分を糾弾するお母さんの声に、大くんがメッセージを見たことが分かり、もう戻れないことを理解した。布団の中で、口を手で覆い隠して、必死に聲を押し殺した。シーツにぼろぼろと涙が落ちた。心臓に突き刺さる痛みは消えずにずっしりと激しく私を糾弾するのに、両目から零れるとどまることを知らない涙は、透明なしみになって、すぐに消えて、見えなくなった。
退院して自宅に戻ると、牧原さんからよくLINEが届くようになった。
「元気?」
「学校来れそう?」
「大丈夫?」
最初のうちはそんな感じで、私の様子を気に掛けるものだった。でもそれは最初のうちだけで、最近では自分(牧原さん)の恋バナを聞かされる内容のものに変わっていた。
「小春ちゃんにだけ、教えてあげる。」
「私ね、青葉くんと、付き合うことになったの。」
「小春ちゃんのおかげだよ。」
何も信じられなくなって、自分の部屋からも出られなくなった。ごはんも喉を通らなくなって、何もかもが、灰色に見えるようになった。
毎日、毎夜、太陽が地平線から昇って地平線に沈むまで、部屋の中で一人泣き続けた。他に何も音の聞こえない狭い部屋の中で、泣き声は何にも阻まれることなくそのままの音量で鮮明に自分の耳に響いた。そのことが、より一層涙を溢れさせた。
聲は聞こえないのに、お母さんが話している誰かが、大くんである予感がした。扉の向こう側に、大くんがいる、そんな気がした。扉の板一枚越しに、手が触れている、そんな愛おしさがあった。
たとえ大くんの聲が聞こえなくても、私の聲が届かなくても、大くんに会いたい。たとえもうこの先気持ちが届かなくても、大くんが他の誰かのものになってしまったとしても、もう一度、大くんに会いたい。何でもないことで笑い合って、ただ一緒にいたい、そんなこと許されることではないなんて、分かっているけれど。抑えきれない気持ちが、涙になり、溢れ出す。
久しぶりに携帯電話を開くと、大くんからのメッセージが、読まれないまま、たくさん入っていた。それらに既読をつけてしまう前に、牧原さんとのLINEを開く。震える指で、メッセージを打ち込んでいく。
「あの日、私にしたことについては、何も言わない。」
「私が喋れないことで、たくさん嫌な思いをさせたと思うから。」
「でも、ごめんなさい。」
「私も、大くんのことが好き。」
「大くんの一番近くにいたい。」
「その笑顔を、私だけに見せてほしい。」
「だから、負けたくない。」
「いまから、もう一度、大くんに自分の気持ちを伝えに行って来る。」
すぐに既読は付いた。返事が来る前に、携帯電話を閉じ、部屋を飛び出す。
部屋から飛び出した私に驚いたような表情で立ち尽くすお母さんの横をすり抜け、玄関ドアを開けて、家の外に飛び出す。海岸沿いに伸びる道路を、遠くで煙を吐き出しながら鳴っている船の汽笛も、青空を優雅に舞っているカモメの声も、世界中で奏でられているすべての音をも背景にして、走る。ただ、大くんの元へ、走る。彼がいまどこにいるのかは分からない。聞けばすぐに分かるのだろうけれど、自分の力で、彼を探し当てたかった。それに、何となくーされど確実に、彼はあの場所にいるような気がしていた。
3
牧原さんに呼び出されたのは、小春の家を辞去したすぐ後のことだった。〝話があるからいますぐ会えないか〟電話越しの牧原さんの声は、か細く震えていた。
指定された場所は、偶然にも僕と小春がよく行っていた、海のそばの小さな公園だった。砂浜に直結して四阿がひとつあるだけの、小さな公園。公園に近付くと、四阿の木椅子に腰を下ろす長髪の女性の後ろ姿が見えた。
「牧原さん」
声を掛けると、女性がゆっくりと振り返って僕を見た。
「ー青葉くん」
見えた牧原さんの表情に瞠目する。牧原さんはどこか、思い詰めているように見えた。
「…どうしたの。」
声を掛ける。牧原さんは、躊躇うようにしながら、ゆっくりと口を開いた。
「―青葉くんは、私のいいところってーどこだと思う?」
「……えっ?」
思いがけない質問に不意を突かれる。牧原さんが、懇願するように僕を見た。
「それは……」
どういう順番で話を組み立てればいいか、冷静に考える。話し方を間違えれば、選ぶ言葉を間違えれば、牧原さんを傷付けてしまう気がした。
地面に軽く息を落とし、牧原さんの目を見つめ直す。
「―牧原さんは、クラス委員長をしているから、しっかりしていて、リーダーシップがあると思うよ。」
牧原さんは何も言わない。ただ、顔を下に向けている。
「でもああいう役割ってさ、自分がしっかりしなきゃ!完璧でいなきゃ!って思っちゃいそうだから、弱音を吐けなくなったりとか、失敗を見せられなくなったりとか、そうなっちゃいそうで、僕は少し怖いかな。自分らしさの他に、〝リーダーらしさ〟も持たなきゃいけないから、自分が失われてしまいそうで。失敗を見せられないとか、弱音を吐けないとか、全然そんなことなくてさ。人間なんだから、失敗だってするし、弱音だって吐くべきだと、僕は思うんだけどな。」
「牧原さんは真面目で成績も優秀だから、ちょっと思い詰めちゃわないか心配かな。」
牧原さんの両目には、今にも溢れそうなほどの涙が溜まっていた。
「えっ……」
「ーどうしたの、」
僕が声を掛けると、牧原さんはぽろぽろと涙を落とした。
「ーあのね、」
涙に混じり、牧原さんが口を開く。
「うん」
「私、」
「うん」
「…もし、私が、」
「もし、私が、ー青葉くんのことが好き…って言ったら、どうする……?」
「えっ……」
聞こえた言葉に驚く。頬を赤く染めた牧原さんと目が合う。と、牧原さんはくるりと僕に背を向けた。
「な、何言って……」
信じ難い告白に、牧原さんの顔を見ようと肩に手を掛ける。と、バランスを崩したのか、牧原さんの身体がグラッと揺れた。
「……っ!」
倒れて行く牧原さんに手を伸ばす。牧原さんの身体が硬い木の椅子に打ち付けられる前に、頭の後ろに手を回す。痛みが手に伝わったのも束の間、気が付くと、牧原さんの真っ赤な顔が、自分のすぐ下に見えた。
「…あ……、ごめん!」
牧原さんから身体を離そうと慌てて立ち上がる。と、牧原さんが僕の制服の裾を掴み、僕を引き留めた。
「牧原さ……」
「…佐倉さんのとこ、行かないで……」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離の中、牧原さんの呼吸音が耳を刺す。牧原さんが上体を起こし、僕の頬に手を伸ばした。腕にかかる長い髪、少し震えている唇。牧原さんが目を閉じる。
「牧原さん、僕……」
砂を蹴る音が耳に響いた。慌てて音のした方に視線を向ける。見慣れたショートボブの後ろ姿が、大通りの方へと逃げるように走っていった。
瞬時に、悟っていた。勘違いされてしまったことを。それも、一番見られたくない人に。
「小春!!」
四阿を飛び出すようにして慌ててその背中を追いかける。違う、誤解、誤解なんだと。僕と牧原さんはそんな関係なんかじゃないと。
「待てって小春!!」
段々と距離が縮まっていく。それを感じ取ったのか、小春が一瞬僕を振り向いた。小春の両目いっぱいに涙が溜まっているのを視認したのも束の間、突然小春は道路に飛び出した。ビーーーーー!!!とクラクションが劈く。大型トラックが横断歩道にいる小春に迫る。小春が目を見開き硬直したように立ち止まる。
「小春っっっ!!!!!」
数m先の小春に思いっきり手を伸ばす。その身体に手が届いたと思った瞬間、衝撃が身体を貫いた。
私と大くんがよく行っていた、海のそばの小さな公園へと走る。予感はもう確信に変わっていた。まもなく公園のシンボルの四阿が目に入った。その四阿の柱の影に、大くんの姿が見えた。声を掛けようと思ったその時、大くんの手前側に女性が立っているのが目に映った。誰だろう、と思った次の瞬間、大くんが女性を押し倒した。一瞬、女性の顔が見えた。その顔は、牧原さんだった。思わず足が止まる。女性の震えるような息の音が耳に響いた。下から伸びた手が、大くんの頬に触れ、そして女性の長い髪に紛れ、2人の顔が重なった。
頭が真っ白になり、気が付いたら走り出ていた。走りながら、言葉にならない嗚咽が漏れ出る。
「ううっ……うう……」
大くんは私を見ていなかった。大くんが好きなのはやっぱり牧原さんだった。あの時の言葉は、私に言葉を取り戻させるためのおまけにすぎなかったのに。足音に走りながら後ろを振り返ると、大くんが私を追いかけて来ていた。咄嗟に、方向を変えていた。と、ビーーーーー!!!とクラクションが劈き、目の前に大型トラックが見えた。目いっぱいにトラックが映し出される。身体が硬直した。光景が、スローモーションに映る。
「○○っっっ!!!!!」
大くんの怒鳴るような叫び声が聞こえたのと、身体が抱きしめられたのはほぼ同時だった。次の瞬間、激しい衝撃が自分を襲い、目の前が真っ暗になった。
目の前に、赤い血の海が広がっていた。そしてその血の海の中に、大くんが倒れていた。
―大くんの後ろに、大くんのお母さんが倒れているのが見えた。大くんのお母さんの身体のまわりには、赤い血の海が広がっていた。
―〝何してるの?〟
―大くんの声が、聞こえた。
―〝美晴!!〟
―大くんのお父さんの声も、聞こえた。
―身体がカタカタと顫え出した。
―大くんが私の瞳を見、押し入れの戸を閉めた。
―〝ねえ、泣かないでよ。〟
―大くんが私の身体をぎゅっと抱きしめた。
―〝僕が、そばにいるよ。〟
―〝だから小春ちゃんも、僕のそばにいて。〟
「小春っっっ!!!!!」
「……大…くん…………」
「…大…くん……っ」
「なんで……………………」
―私は、自分の聲と大くんの聲を、取り戻した。
この胸いっぱいの聲を
1
ベッドの横の椅子に腰を下ろす。狭い無機質な部屋に、一定の速度で機械音が鳴っている。
あの日、私と大くんは交通事故に遭った。私を抱きしめる大くんに、時速60㎞でトラックが突っ込んだ。私を庇って、大くんは大量の血を流した。
あの時、大くんが私の名前を呼ぶ聲が、聞こえた。久しぶりに聞いた彼の聲は、必死に私の名前を叫んでいた。でも、それも一瞬だった。一瞬で、終わってしまった。
何とか一命はとりとめたものの、意識不明のまま、もう4日間もベッドに横たわっている。
大くんがなぜ私を助けたのか、分からなかった。
自分の母親を殺した女。口の利けない女。自分の聲が聞こえない女。足枷でしかない、自分から自由を奪う存在でしかない、憎むべき女。何より、大くんは牧原さんのことが、好きなはずなのに。
なぜ自分がここに居るのかも、わからなかった。
ぐるぐると頭を巡らせ大したことは考えないでいたら、病室のドアが開いた。大くんのお父さんが顔を覗かせる。
「……!…―小春ちゃん、来ていたのか。」
目の下に隈をつくり、いつもはきちんと剃り揃えている髭は無精に伸び、皺の多くなった背広を着て、大くんのお父さんは見るからにやつれていた。
どう答えればよいのか分からず、肯定の意思とは関係無しに、何となく首を縦に振る。
「…君が無事で、良かった。」
大くんのお父さんが、私の隣りに椅子を引っ張って来て腰掛けながら、そう言った。
その言葉に、開いていた5つの憎い花が、揺れる。
「…どうして、そんなことを言うんですか。」
「えっ……」
大くんのお父さんが私を見た。視線は合わせないままで、何もない壁を必死に見つめながら言葉を続ける。
「私のせいで、大くんはこんなことになったんですよ。」
「美晴さんも、私のせいで見つかって。」
あの時彼が自分の妻を抱き上げて目を真っ赤に腫らして泣き叫んでいたのを、ようく覚えている。
「私はあなたから、家族を奪うことをしたようなものなのに、」
「なのに、どうして、」
「…うん、そうだね。」
大くんのお父さんが、呟いた。分かっていたはずの言葉に、息が首の途中で詰まる。
「確かに君のせいで、美晴は死んで、大樹は死にかけたかもしれない。」
「僕は2回も、君に家族を奪われるところだったかもしれない。」
「……」
「…美晴が死んだ時は、正直君を憎んだこともあったよ。」
「あの時君が起きなければ、君が声を出さなければって。」
「ごめんなさ……」
言葉が飲み込まれる。
「美晴が死んで、知らないうちに少しずつ言動や空気が悪くなっていたんだろうな。ある時、大樹が言ったんだよ。〝お父さん、どうしてそんなに乱暴に物を扱うの?〟って。」
「……」
「あまりにも無邪気にそう言うから、大樹はお母さんが死んで悲しくないのか、って聞いたら」
大くんのお父さんが、息を吸った。
「〝悲しいし寂しいよ。でも小春ちゃんがいてくれるから大丈夫〟って。」
「……!」
「その時やっと気付かされたんだ。大樹は1人でも助かったことを見ているのに、俺は美晴だけに捉われて、そのことに気付いていなかった。大樹はちゃんと命を見ていたのに、俺はいい歳して、まだ5歳の子を責めて恨んでいたなんて。俺がすべきことは、その子を憎むことじゃなくて、その子がその先自分を責めて自分を嫌わないよう、守ることなのに
。」
言葉と心が噛み合わずに、私が受けるべきなのはそんな柔らかい言葉じゃなくて硬く苦い針のような言葉なのに、
「でも私のせいで美晴さんは……!」
私は、嫌われるべき、憎まれるべき悪人なのに。
「…押し入れの、寝起きの子供の声なんて、聞こえると思うか?」
「……えっ……?」
「美晴も押し入れを出なければ、助かったかもしれないのになあ。」
大くんのお父さんが仰け反るように、天を仰いだ。その声に、涙が滲む。
「裁判に同席したり調書を見せてもらったりしたが、そこに〝子供の声が聞こえた〟って証言はどこにもなかった。」
「薮田が美晴に気付いたのは、美晴が自分のところまで来たからだって言ってたよ。」
「…………」
「…だからもう、自分を責めるのはやめなさい。」
大くんのお父さんが、私の頭にやさしく手を置いた。
「……嘘だ。」
「そんなの嘘だ!」
「嘘じゃない。」
「違うよだって、」
「…だって?」
「だって私のせいで……!」
「そんなに自分を責めるなよ!」
大くんのお父さんが叫んだ。慟哭のような叫びに、息を吞む。振り向いた大くんのお父さんの両の目は、真っ赤に充血していた。
「小春ちゃんの声は聞こえなかったんだ」
「突然美晴が来て、それで家人がいたことに気付いたって」
「そのくらい、何も音は聞こえなかったって」
「そんなはずない!」
「私が声を出したから、私が喋ったから……」
「小春ちゃん!」
大くんのお父さんが、私の顔を両手で挟んだ。視線が、大くんのお父さんに拘束される。
「お願いだから、僕を信じてくれよ……!」
「だから、お願いだから……」
「お父さん……」
「小春ちゃんは、僕のもう一人の子供のようなものなんだ。」
「小春ちゃんが苦しそうに、辛そうに生きていると、僕も辛いし、何より大樹が……寂しそうなんだ。」
「だから、自分を責めるのはもうやめるんだ
。」
大くんのお父さんが、私の肩を掴む。
「―だから、噓じゃないんだ。」
大くんのお父さんが私の肩を掴む手に力を籠めた。指が、痛いほどに皮膚に食い込む。
「お父さん……」
「大樹は小春ちゃんと出会ってからずっと、小春ちゃんのことを大切に思っていたよ。」
「携帯をねだった時も、〝小春ともっと話せるようになりたいんだ〟って。」
「君が倉庫に閉じ込められた時も、君が耳を怪我した時も、すごく自分を責めていた。」
「あの日は、君が喋れるようになったって、すごく嬉しそうだった。」
「…………」
「〝一番大切な人から、一番幸せな言葉をもらった〟って。」
「…………っ!」
離したくない愛おしい花たちが、胸にこみ上げてくる。
「ーでも聲を奪ってしまった僕にはそんな資格はない、って。」
「ううっ…………」
いまになって、大くんが私のことをどれだけ大切に想ってくれていたか、理解する。
「ー不器用だからさ、大樹があんなに嬉しそうに感情を表に出すことなんて、そう無いんだぜ?」
「でもここ最近は、ずっと寂しそうにしている。」
「…………」
水色の冷たい波のシャワーが、桃色の花々を濡らす。
「大樹と何があったか分からないけどさ、少しでもいいから、話してやってくれないか。」
大くんのお父さんの顔を見上げる。
「…でも、私は、私のせいで……」
「小春ちゃんじゃなきゃ駄目なんだよ。小春ちゃんがいると、ただそれだけで、大樹は毎日、幸せそうだったんだから。」
「大樹には君が必要なんだ。」
「う、うう……」
目の縁からポタポタと零れ落ちる涙を拭う。止まらない水色の粒が、手を濡らし、膝に垂れ、色を濃くした。
その時、下げた頭の向こう側から「う~ん……」と、音が聴こえた。視線を遣る。
シーツの皺が揺れる。ベッドの上で、大くんが身を捩らせている。
「…小…春…………」
微かに漏れたその音に、目を見開く。隣りで大くんのお父さんが小さく息を零した。
「じゃあ、頼んだよ。」
お父さんが私の肩を叩いて立ち上がり部屋を出て行った。手の甲で涙を拭い、自ら腐らせていた5つの花をひとつずつ開いていく。
「…大……くん…………」
素直な感情に身を委ね、この世で最も恋しい、愛おしい、一番大切な人の名前を呼ぶ。
「う~ん……」と、大くんがまた呻いた。
目を閉じて、大くんはいま、ここに戻って来るために必死に戦っている。
もう一度、名前を呼ぶ。
「…大くん……!」
まだ、たくさん話したいことがある。たくさん、聴きたい君の聲がある。たくさん笑ってたくさん泣いて、たくさん君と一緒にいたいから。君の名を、呼ぶ。
「大くん……!!」
そして
大きな花びらが、開いた。
虚ろに視線を彷徨わせていた大くんの瞳が、私を捉える。
「…小春…………」
花に水を分け与えるように、まるでそのものの美しさを魅せるように、水透明な雫が、一粒、ほろりとシーツに吸い込まれた。零れた涙を隠すように、両の瞳を手で覆う。隠すことの出来ないほどの涙が溢れた。
「う、ううっ……」
静かな部屋に、私の嗚咽だけが無防備に響く。
「…小春……小春っ!!」
大くんの声が聴こえ、身体が強く抱き締められた。ベッドの上から上半身を乗り出し、大くんが私をきつく抱き締める。
「良かった……良かった……!」
「…本当に、良かった……!」
私を抱き締めたまま憚ることなくそう言葉を吐き出し泣きじゃくる大くんに、新たに許しの雫が零れる。
「ごめんなさい……!」
私たちは子供に戻ったように、ただひたすらに泣いた。
繋ぐ花よ咲き誇れ
春。
桜の木の下に立ち、雪のように点々と風に揺れる桜の花びらを眺める。
大くんが目を覚ましてから、8年の月日が経っていた。
大くんと仲直りしてから、同じだけの月日が経っていた。
空に舞う桜の花びらを見上げる。
「小春。」
声に振り返る。桜の花びらのベールの向こうに、大くんが立っていた。
「行こうか。」
大くんの隣りに駆け寄り、腕を絡める。
「ちゃんと、挨拶しておかないとな。」
「そうだね。」
2人並んで歩き出す。
「今日は何に乗る?」
「私コーヒーカップに乗りたい!」
「コーヒーカップって……小春、三半規管激弱だろう?目、回すぞ。」
僕の言葉に、小春がふふっと得意気に笑う。
「大くん知らないでしょ。私最近、三半規管鍛えてるんだ。」
「鍛えてるって…どうやって?」
「おうちでぐるぐる回ってる。」
「何だよ、それ。」
あまりにも真面目な顔で言う小春に噴き出す。「それに、」と小春が続けた。
「それに、目を回しちゃっても、大くんが受け止めてくれるでしょう?」
幸せそうな表情で僕を見上げてそう言う小春を抱きしめる。
「いつでも、いつまでも、受け止めるよ。」
さあっ、と爽風が竹林の間を通り抜け、墓石の横に立つ桜の木を揺らした。桜吹雪が僕らを包むように舞い、その内のひとひらが小春の唇に舞い降りる。桜の花びら越しに、小春に触れる。小春がくすぐったそうに笑みを漏らす。満開の花びらが、未来に向かって、春のそよ風に揺られていた。
第12回ネット小説大賞 応募作品(2024年)
*2025/4/15(火)訂正
○誤字:晴美→美晴
○文字化け:‼️→!!