7 お嬢様と銀のテーブル
「美味しい……! 体に染み渡る……!」
ほんの少しの塩とバターを加えて、すりつぶしたネトルで作ったスープは、アストン家のお嬢様であるキャロライナの口に合ったようだった。
ベッドに体を起こしたキャロライナの前には、組み立て式の小さなシルバーのテーブルが広げてあり、深めのスープ皿が置いてある。
下ろしたままの金髪を肩に流して、キャロライナはいつしか夢中でスプーンでスープをすくって口に運んでいた。
「信じられないくらい美味しかった。こんなの、久しぶりに食べたわ。チェリーさんはお料理がお上手なのね」
空になったスープ皿を名残惜しそうに見ながら、キャロライナがしみじみと言う。
やわらかそうな金髪に、ヘンリエットと似た青灰色の瞳。幼い顔立ちで、寝巻きを身に着けた肩はひどく華奢だ。
チェリーが部屋に顔を出したときは「寝たままでごめんなさいね」と青白い顔で謝ってきていたが、食事を終えたいまは、ほんのりと頬に赤みがさしている。
「田舎料理です。お庭に自生していたハーブを使いました。マリアさんは、今まで使ったことが無いって言ってました。貴族のお嬢様のお口に合って良かったです」
変なものではない、という意味でチェリーが説明をすると、キャロライナは目をきらきらと輝かせて「毎日でも食べたいわ」と言った。
「私は、それでも良いんですけど。このお庭で、もっと食べ物を見つけられそうですし、料理も人に伝えられるほど覚えているわけじゃなくて、作りながら思い出している感じで……。でも、それでマリアさんのお仕事を取ってしまうことにはならない?」
チェリーが首を傾げて尋ねると、キャロライナは微笑んで答えた。
「マリアはね、もともと、キッチンメイドではないの。通いのお洗濯係さんで、旦那さまが戦争でお亡くなりになって。この家の使用人もみんないなくなってしまったので、一緒に暮らしてお洗濯をしてくれているのよ。お料理と掃除は苦手なんですって」
「そういうことだったの」
思わず素の受け答えをしてから、チェリーは相手がお嬢様だと思い出し、「そういうことでしたか」と丁寧に言い直す。
口調が変わった理由を察したようで、キャロライナは「構わないのに」と楽しげに笑った。
「チェリーさんは、お兄様のお嫁様なんですってね。私のお義姉様よね? 挨拶もまだの私に、親切にしてくださってありがとう。来てくださって嬉しいわ」
警戒もせず素直に事態を受け入れている様子に、チェリーは逆に不安になる。「どこの馬の骨とも知れぬ女と子どもですよ?」と言いたくなるのを飲み込んで、自分もなるべくフラットに話そうと試みた。
「お嫁様……。御本人がいないので、よくわからないんですが、そうみたいなんですよね。でも本当に、以前からの知り合いでもなんでもないんですよ。一緒に連れてきたこのノエルは姉の子なんですが、父親がアストン家の御親戚だからと。でも、ここでは私とあなたのお兄様の子と言い張るようにって、奥様に言われています。私、なんでもすぐに顔に出ちゃうから自信ないんだけど、なんとかやるだけやってみますね。若奥様を」
チェリーの後ろから、ノエルはちらちらとベッドのキャロライナを見ている。目が合ったキャロライナは、にこりと穏やかに微笑んで「よろしくね」と言った。
わ、と照れたように、ノエルはチェリーのスカートに隠れる。
キャロライナの子ども好きな雰囲気にほっとしつつ、チェリーは部屋の中を見回した。
(マリアさんはやむにやまれぬ事情からお屋敷のお仕事をなさっているとして、お洗濯以外のことはあまり得意ではないのかも。このお部屋も、ずいぶん埃っぽい)
得意ではない、もしくは手を出さない。
もしかすると、満足な給金も確保できておらず、母子ともにマリアに対して仕事を頼むことに、遠慮があるとも考えられた。洗濯をして、料理を作ってもらえるだけで十分だと。
何しろ、ヘンリエットにしても、キャロライナにしても、およそ生活感というものが感じられない。危機に直面しているだろうに、「自分で何かしてみよう」という気迫がない。
キャロライナの髪はくったりとして艶もなく、いつ湯浴みや洗髪をしたのかもわからない有り様である。栄養に乏しく、身の回りを構うこともなく、日がな一日ベッドで過ごしているようでは、具合が良くなりようもない。
「キャロライナさん、私、まずはこのお屋敷の掃除をします。このお部屋も掃除していい?」
「何を片付けるの?」
見た限り、ものが散らかっているわけではない。床に白く埃が堆積しているのだが、それを「片付けるべき」と認識してはいないのかもしれなかった。
(いつからこの状態なのかしら? なんのご病気かわからないし、お医者さまにかかるのも難しそうだけど、案外、部屋を片付けて、美味しいごはんを食べたら、キャロライナさんは元気になるんじゃない?)
そうなったら良いなの気持ちをこめて、チェリーは丁寧に説明をした。
「まずは窓を開けて、空気を入れ替えます。春の風はすごく気持ちいいから、キャロライナさんの体にもいいはず。洗濯は衣類だけじゃなくて、シーツも洗うと気持ちよく寝られると思います。湯浴みもして、髪を梳かしたらすごくさっぱりするわ」
まぁ、とキャロライナはにこにこと笑いながら相槌を打った。
「すごくたくさん、することがあるのね。楽しみだわ」
なんとも無邪気な様子に、チェリーは「お嬢様って、すごい」と深く感心してしまった。
(温厚というか、気立てが良いというか……。良いことなんだけど、心配になっちゃう。ヘンリエット様がしっかりなさっているのかしら? 泥棒に入られたり、変な人にだまされたりしない? やめていく従業員にものを持ち出されたりなんて、よくあることなのよ)
街育ちのチェリーは、ある程度の警戒心は備わっている。このお嬢様には自分が気をつけてあげねば、と早くも決意を固めながら「片付けますね」と、ベッドの上の小さな折りたたみテーブルに手をかけた。
使う前に少しだけ拭いて磨いたそれは、鈍い輝きを放っている。
戦争が長引き、生活に困窮してから、チェリーの一家は身の回りの品をずいぶん手放した。
タダ同然の値段でも、背に腹はかえられぬとひとに譲ったり、物々交換に使ってきたのだ。
そのチェリーの目からして、小さなテーブルはいかにも値打ち品に見えて、昨今のご時世でもそれなりの値段がつきそうに思えた。
「いけない。そんなこと考えちゃだめよ」
口に出して、自分を戒める。
この屋敷のものは、チェリーのものではない。いくら生活に困っているとしても、売りさばいて良いはずがないのだ。泥棒や詐欺師と、どう違うのか。
「チェリーさん? 何か言ったかしら?」
背後からキャロライナに声をかけられて、チェリーは「なんでもないわ」と答える。キャロライナはにこりと笑って「チェリーさんって、すごく声が綺麗ね。何かお話ししてくださらない?」とのんびりと言っていた。
(もしお嬢様がもう少し生活に危機感を抱いていたなら、金策についてお話しできるかもしれないけど……。なぜご自分の持ち物を売らなければいけないのか、おわかり頂けるかしら)
このときは、そう自分に言い聞かせて、ひとまず別の方法を考えようとしていたのだ。
屋敷の物に、手を付けてはいけない、と。