3 子爵未亡人の打算
深緑色のドレスに、揃いのボンネット。
時代がかって、埃っぽく見える出で立ちをした年配女性だ。
「この家に住んでいるのは、チェリー・ワイルダーというレディと、ノエルという子どもだけと聞いています。下郎に用はありません」
銀色の眉をきつくひそめ、青灰色の目を眇めた女性は、男を厳しい目で見ながら言った。
「下郎だと……?」
男は、足をぐらつかせながら立ち上がる。
そこに立っていた女性を見て、言葉を失った。
およそ貧乏長屋では見かけることもない、毅然として背筋を伸ばした、姿勢の良い女性である。
つまらぬものを睥睨する目つきは、明らかに平民を見下す貴族のそれだ。
男は、よろめきながら、悪態をつきつつ足を引きずるようにしてドアへと向かった。
貴族女性がなぜこんな場末の長屋に現れたかわからないが、一人で出歩くことなどあるはずがない。同行者が駆けつければ勝ち目はない、と踏んだのだろう。
女性は、厳しい顔つきのまま、男が横を通り過ぎ、出ていくのを見ていた。
やがて、足音が遠のくと、チェリーに視線を戻した。
もう何年も笑ったことなどないような、固い表情をしていた。
チェリーから「助かりました」と、お礼を口にできる雰囲気でもない。
(まるで石像だわ。まばたきしなければ、生きた人間とも思えない)
どちらが口火を切るのか。
女性の目がノエルに向けられた瞬間、チェリーはノエルに腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。
「なんの用ですか?」
「チェリー・ワイルダ―」
質問に対する答えとも思えぬ、高飛車な態度で名を呼ばれた。
女性は、いかめしい顔つきのまま再び「んんっ」と咳払いをして、チェリーの影に隠れたノエルに目を向けた。
「子どもがいますね」
「姉の子です。姉が不在なので、私が面倒を見ています」
着地のわからない会話に警戒をして、チェリーは用心深く答える。
貴族女性は、ほんの少しだけ片眉を跳ね上げて、重々しい口ぶりで言った。
「あなたの姉であるラモーナという女性は、落命したと聞いています。それから、あなたの父も母も。この長屋で暮らしているあなたの家族は、あなたとその子だけですね」
「だからなに? あなたは誰ですか。いきなり、人の家に入ってきて」
そのおかげで、男を追い払えたので助かった。だが、目的がわからない以上、気を許してはならないと、チェリーは相手以上に厳しい表情になる。
「さきほどの男は、あなたの情夫ではありませんね?」
ぶしつけ過ぎる質問に、チェリーはさらに眉を寄せて「あなたに関係あります?」と喧嘩腰に言い返した。それに対し、相手はまさに眉ひとつ動かさぬ石像のような表情に戻り、おごそかに宣言した。
「よござんす」
聞き慣れぬ言葉に、チェリーは「はい?」の形に口を開いたまま、静止した。
(「よござんす」? どこの言葉なの? 貴族用語?)
理解しかねているチェリーをよそに、相手は淡々と自分のペースで話を始めた。
「私はアストン子爵家を預かる者です。アストン子爵未亡人、とお呼びなさい。当家の跡継ぎで現当主は息子のバーナードです。戦場暮らしが少々長くなっておりますが、このたび最前線に赴くことになったようです。おそらく、もはや帰宅は望めないでしょう。そこであなたに提案があるのです。書類上で構わないので、バーナードと結婚なさい」
ねぇチェリー、あのひとだぁれ? スカートの裾を引っ張りながら、ノエルが尋ねてきた。
「アストン子爵未亡人だそうよ。初対面だけど、私も」
口にしてみると、その大げさな言葉に現実感が遠のく。
(子爵未亡人が、息子と結婚しろって言ったの? 私に? 人違いではなくて?)
ほんの一瞬脳裏をかすめたのは、姉ラモーナのことである。想い人は貴族の若様だと言っていたが、姉が興奮して語る内容はすべて耳を素通りしていた。夢見がちなストーリーで、世界の掃き溜めで聞くにはいかにも不釣り合いであった。
「突然、そのようなことを言われましても。会ったこともない方です」
「断らない方が良いでしょう。あなた、さきほどの男に情婦になれと迫られていたのではないの?」
あの状況を見たのだ。その推測が容易であることは、チェリーにもわかる。
しかし、望まぬ関係を迫られていたのを見た上で、自分は自分で「息子の嫁になれ」と迫ってくるとは。
勝手なことばかり言って、と猛烈な嫌悪感がむくむくと湧き上がってきた。
「お生憎様ですけど! 貴族の奥様から見れば、場末の女はすべてふしだらな娼婦と変わらないのかもしれませんが、私は娼婦ではありません。戦場の『歌姫』だった私の姉もです。姉は、貴族の若様と恋に落ちたと言ってました。眉唾ですけど、私、姉の恋心は本物だったって信じているんです。姉はくだんの若様と、戦場で亡くなったみたいです。私は姉の残したこの子を精一杯育てるつもりです。この話はここまででよろしいですか?」
子爵未亡人は、ノエルをちらっと見て、気難しい顔で話を続けた。
「ラモーナ嬢がお付き合いしていたという男性は、私の甥のライアンでしょう」
後から知ったことだが、アストン子爵未亡人ヘンリエットのこの表情は、嫌悪や侮蔑とは関わりなく、彼女が日常で見せる表情そのものなのである。
しかし、初対面のチェリーの知ったことではなく、居丈高な貴族の奥様が姉のふしだらぶりに文句をつけにきたのかと、早合点してしまったのだ、このときは。
「私、姉の夫を探してその家族にノエルをたてにゆすりたかりをしようと思ったことなんて、一度もありません! 勝手にここまで来たのはあなたじゃないですか! ノエルは姉の産んだ子です! 私が育てます! 貴族の子だなんて吹聴したこともないですよ!?」
戦場の「歌姫」は娼婦のような仕事と誤解されている、と姉は言っていた。
それが本当に誤解なのか、チェリーに確かめるすべはなかったが、姉を信じようと思っていた。その一方で、姉の子の父親は実際のところは誰かわからないかもしれない、とも覚悟していた。だから、貴族の間を探し回るつもりもなかったのだ。
それなのに、まさか相手から押しかけてくるなんて。
勢いよくまくしたてるチェリーを前に、子爵未亡人は凍りついた表情のままだった。
やがて、固くよく通る声で、告げた。
「その子は、ライアンの幼い頃によく似ています。私の息子の小さい頃にも、似ているように見えます。目元が。当家と無関係とは思われません。当家の跡継ぎとして、問題ありません」
「跡継ぎ?」
藪から棒に何を言い出すのかと、チェリーは目を瞬いた。
理解していない様子のチェリーに、子爵未亡人は鷹揚に頷いて、説明を続行する。
「あなたがバーナードと結婚した後に、未亡人になれば寡婦年金が入ります。夫が戦死者であれば、遺族年金となり、さらに額が高くなります。その子を育てるのに、それは大きな助けになるでしょう」
チェリーはノエルを抱き上げて、相手にノエルの顔が見えるようにして、尋ねた。
「ノエルを引き取りたいというお申し出でしょうか?」
すると、子爵未亡人は青灰色の目で、じっとチェリーを見返してきた。
「子どもはあなたが当家にて育てるのです。当家には子どもの世話をする者がおりません。それに、バーナードの妻であるあなたが当家で暮らしていないのは変です。すぐに越して来なさい」
「バーナードさんは」
「言ったでしょう。戦地です。戻る見込みはありません」
話の内容が、ほんの少しだけ、わかってきた。
(つまり、バーナードさんは近いうちに死んでしまう方で、死ぬ前に結婚していれば妻である私に高い年金が入るということ? その高い年金を、奥様の血縁にあたるノエルの養育費に使いたいという意味かな?)
そして、「我が家には子育て担当はいないから、子どもと一緒に来て引き続きあなたが面倒をみなさい」と言っていることも理解した。
たしかに、長らく子どもがいなかった家であれば、使用人も年寄りばかりでこんなやんちゃざかりの子どもは持て余すことだろう。
住むところを保証し、養育費の算段もしてくれる、しかも引き離さずに引き続き育てさせてくれると言われれば、断る理由は特になかった。
なにしろ、この建付けの悪いドアは、この先チェリーもノエルも守ってはくれない。
「わかりました。私のことは、お屋敷で使用人として使っていただけますと嬉しいです」
「無論、そのつもりです」
即座に返事をしてから、子爵未亡人は難しい顔のまま「あなたを使用人としてあてにしているという意味ではなく、人手が無いのです」と続けた。
子爵未亡人の身なりは、大仰ではあるが古ぼけていて、戦時下ということを差し引いても、財政状況が苦しいのが伝わってくる。使用人もだいぶ解雇してしまったのかもしれない。
チェリーとしては、降って湧いたこんな話で「貴族の奥様だー!」と喜ぶ気もなかったので、現実を粛々と受け入れた。
「たいした荷物もありませんので、すぐにでも行けます」
むしろ今すぐにでもここを出ていきたい、という決意を伝えると、子爵未亡人は明らかにほっとした様子で二、三度頷いてから言った。
「誰かに聞かれたら、その子は、バーナードとあなたの子だと答えなさい。いいですね」
ん? とチェリーは首を傾げた。
いま謎の既成事実を作られた気がする、と。
「……もしかして、バーナードさんは戦場に行く前にすでに私と関係があり、本人の知らぬ間に私が産み育てていた子を奥様が私ごと引き取って、その際に内縁関係から正式な妻として迎える、ということでしょうか?」
かなり頑張って考えて尋ねると、子爵未亡人はようやくほんの少しだけ目元に笑みらしきものを浮かべて「ええ、上出来です」と答えた。
チェリーは姉の子が実子になり、しかもその父親が見知らぬ男性になるとはどういうことか考えてみたが、途中で面倒になって打ち切った。
付き合っている男性も好きな相手もなく、ノエルの養育費とワイルダー家の生活費は死活問題であり、夫となる相手は会わずに死ぬらしいので、実質いないも同然である。
何も問題はない。
よろしくお願いしますと子爵未亡人に告げて、その足で家を出た。
こうして、チェリーはアストン家の嫁となったのである。