20 夕暮れ時のベンチ
ずいぶんとゆっくり休んで、目を覚ましたら日が暮れ始めていた。
夕陽がまぶしい。
ふと、隣に人の気配を感じて顔を向ける。
そこには母、ヘンリエットが毅然と背筋を伸ばして座っていた。
「寝ていました」
「疲れていたのでしょう」
バーナードを振り返ることなく、前を見据えたままで、ヘンリエットはさらりとそう言う。
(「あなた、そんなところでいけませんよ。寝るのは夜にベッドに入ってからです」とは、言われないか)
自分はもう子どもではなく、ヘンリエットもまたずいぶん歳を重ねたように感じた。会わなかったのはほんの数年なのに、十年の歳月がその顔の皺に刻まれているかのようだった。
戦場での経験と同列で語ることはできないだろうが、家を守る立場の女性も苦労をしたのだなと思う。健康を害した様子がないことには、安心した。
「手紙では書ききれなかった事情がいくつかあります。あなたに伝えておきます」
淡々とした、感情を込めない話し方は昔からあまり変わらない。
不在の間、わずかに残っていた子爵家の領地は、ヘンリエットの実家である伯爵家に管理をお願いしていたが、年老いた実父、つまりバーナードの祖父は現在、いつ倒れるともしれない状態にあること。
直系の男子がなく、親類縁者はどこも覚束ない状況なので、遠からずバーナードが伯爵位とともに全部引き取ることになるであろうこと。
ヘンリエットには姉がいたが、すでに病死している。その夫と、息子であるライアンは戦死。もし娘がいればバーナードと縁組みという話になった可能性が高いが、ライアンはひとり息子で他に兄弟はいなかった。
「あなたもすでに会っていますが、ノエルはライアンの子です」
知ったばかりの名前が出てきたので、バーナードは「少しだけ聞きました」と口を挟んだ。
「母親はチェリーさんのお姉さんで、チェリーさんが育てていたと。なぜか俺の子になっているようですが」
「私がそう申し立てを行い、手続きをしました。男子がいなければ、絶家です。私の実家のリスター伯爵家ともども、すべて。しかし、私の父は、この状況下でもノエルをライアンの子と認めるのは難しいようでした。母親の血筋を気にしていましたので」
本来なら、ノエルはライアンの子として伯爵家に入れるのが筋なのだろうが、ヘンリエットの口ぶりからすると拒否されたらしい。財産にたかる、出自の怪しい私生児として扱われたのだろうと見当がついた。
(ライアンと戦場で知り合ったというのも……。チェリーさんのお姉さんは、娼婦か何かなのか。本人はそういう雰囲気でもなかったが)
チェリーの佇まいは、素朴な町娘だったように思う。実際のところは、本人に聞くまではわからない。バーナードは自分の女性を見る目にそこまで自信がないので「彼女は違う」と思うなら、それはただの願望かもしれない、と思っておくことにした。
迂闊に口に出して良い話題でもないだろう、と心に留めておく。
「それで、ノエルはこの家ともまったく無関係ではないからと、こちらで引き取ったわけですか。お祖父様が倒れたときに『ライアンの子などいない』と、リスター伯爵家からつっぱねられてしまう恐れがあった、と。その場合、俺が戻らなければ、アストン子爵家も共倒れですからね。『当主バーナードの実子で、子爵家の跡継ぎ』と偽装しておけば、子爵家は存続できるし、後継者のいない伯爵家の相続権までついてくるわけだ。それから……えぇと、俺の遺族年金も?」
ヘンリエットはつんと顔を逸らして、返事をしなかった。
そのおとなげない態度に面くらい、バーナードは重ねて言う。
「チェリーさん本人が言っていました。お金目当てでこの家に入り込んだと」
じろっと、青灰色の瞳で睨みつけられた。
「私が、そう教えただけです。『子爵家も伯爵家もノエルに継がせるため』と最初から言えば、途方もないことだと、逃げられたでしょう」
「それはまぁ……。ノエルがライアンの子だというのなら、結果的に正統な後継者に相続させるだけですが、アストン家も相続の範囲にかませる過程は、かなりグレーですよね。俺の子ってことにしている時点で、陰謀の匂いが」
んんっとヘンリエットの咳払いに遮られ、バーナードは口をつぐんだ。
(ノエルの存在を知らなかった段階では、俺も早合点したからな。俺が死ぬと見越した上で、家族はアストン家の爵位や財産は諦めて、せめて「嫁」を通して遺族年金を受け取ろうとしてるんだろうなと。チェリーさんは、何かしらの魂胆があって、その話に乗ったどこかの誰かで……)
母を侮っていたわけではないが、そこまで計算高く立ち回るとも想定していなかったのだ。没落しているとはいえ、貴族としての素養は、さすがひとに教えるだけ身についている。
念の為、確認をした。
「そのこと、チェリーさんはどこまで知っているんですか」
「話したのは、遺族年金の件までです。ノエルが、私の父に拒絶されている件まで、話す必要はありません。交渉事は私がすべて行うつもりでした」
固い横顔を見ながら、バーナードはなるほど、と得心した。
伯爵家との交渉の席にノエルやチェリーが同席すれば、心無いことを言われるのは目に見えている。ならば伯爵が死んでしまうのを待って、相続手続きは可能な限りヘンリエットが行う予定でいたのだろう。余計なことを彼らの耳に入れる必要はない、と。
「子爵家がはっきりと没落したのは、俺が子どもの頃でしたね。不作で収入が落ち込んでいるときに、祖父が死んで相続税がのしかかってきて、土地を手放すことになり……。不幸が重なり、誰にもどうにもできなかったと聞きました。父の代で持ちこたえようとしたけれど、その父が死んでまた相続税が重ねてかかってしまった。しかも俺は戦場へ。絶家必至のこの状況下で、そこまで行動できるとは」
俺が死んでも、何も心配なかったですね。
自虐的なひとことが口から漏れそうになり、バーナードは飲み込んだ。嫌味や当てこすりを言う場面ではない。家を守ってくださって、ありがとうございますと言うべきなのだ。
しかし、口にしなかった皮肉めいた心情は、ヘンリエットにも空気で伝わったのかもしれない。かんで含めるように、こんこんと言われた。
「私は、家のことは何もできません。チェリーさんがいなければ、この家の者たちは冬を越せなかったでしょう。あの方は、とてもよくできた方ですよ。追い出したりするのはいけません。元来、貴族の結婚というものは、母親が取り仕切るものです。私があなたの結婚相手を決めるのも、決して道から外れた行いではありません」
ずいぶんと、チェリーの肩を持っている。
チェリーの顔を思い浮かべてみて、「君は、ひとに取り入るのがずいぶんと上手いんだな?」と想像の中で言ってみた。
すぐに後悔した。
疲労というよりは、おそらく極度の緊張で倒れた彼女のことだ。自分の不安定な立場のことも、気に病んでいるに違いない。冗談でも、居づらくなるような意地悪は言うべきではない。
「そうですね。俺は貴族式の社交にはろくに縁がなかったですが、子どもの婚約は母親が指揮を取るというのは存じ上げております。あの赤毛の若奥様は、母上さまのお眼鏡にかないましたか」
「あなたが今からどんなに頑張って探しても、チェリーさん以上の女性を連れてくることはできないでしょう。三日もあれば、十分。すぐにわかります」
手放しの好評価だった。バーナードは呆気にとられ、ついで半笑いを浮かべて「それはすごい」と呟いた。
「よくそんな、すごい方を見つけてくれてきましたね。生きて戻るかもわからない息子のために」
言ってしまってから、これまた皮肉っぽい響きがそこにあると自覚した。自分でも抑えられない、胸の奥底で暗くくすぶるものが、相手構わず傷つけようとして、すきあらば出てきてしまう。
戦場で傷を負いすぎたのだ、というのは言い訳だ。心に魔物を飼ってしまったのは、自分の弱さだ。
ヘンリエットは、魔物が喉笛に食いつこうとした気配に気づいているかもしれないが、痛みを受けた素振りも見せずにそっけなく答えた。
「私は、あなたが結婚もしないまま、死んでしまうのはあまりにも哀れだと思ったのです」
「たくさんいますよ。いました」
生涯結婚しないまま終えるひとを、戦場でずいぶん見た。彼らのすべてが、独身主義だったはずがない、ただ、戦地に身を置けばひとは死ぬのだ。バーナードが帰ってきたのは、運の問題だ。
(形だけでも、結婚していたことにしようと?)
またもや、皮肉が口から溢れ出しそうになる。苦労して抑え込むバーナードの横で、ヘンリエットが前を見据えたまま、毅然として言った。
「チェリーさんというひとを知ってからは、あなたがこの家に早く帰ってくれば良いと思っていました。あなたが私より先に死ぬだなんて、最初から、私はちっとも考えていなかったのです。この国の多くの母は、覚悟を持って息子たちを送り出していたでしょう。私は覚悟がありませんでした。ただ、あなたが生きて帰ってくることだけを願い、信じていました」
子どもの頃から、いかめしい顔をしていることが多く、あまり表情の変わらない母だった。
横顔はまるで、巌のようだった。まじまじとよく見なければ、わからなかっただろう。その目が潤んで涙をたたえていることに。
吹き荒れる慟哭の気配が、言葉を超えて伝わってくる。
バーナードは、もらい泣きに声もなく目を潤ませてから、遠くを見た。
畑の向こうの木立ちに視線を向けて、声の震えに気をつけながら、呟く。
「あそこの木、ハンモックをかけたら気持ちよさそうですよね。子どもの頃から、いつかやってみようと思っていたんです。せっかく帰ってきたので、昼下がりに、ゆっくり寝てみたい」
好きになさい、と言ってヘンリエットは立ち上がった。振り返らないまま、キッチンへ通じる裏口は使わずに、庭を大回りするようにして去った。
夕陽は青く透き通り始めていて、いつの間にか夜がすぐそばまで近づいてきていた。
後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、バーナードもまたベンチから立ち上がった。
キッチンからは、とてもあたたかで美味しそうな匂いが溢れ出していた。