5話(完)
帰りのホームルームが終わって、教室のあちこちで椅子を引く音や賑やかな話し声が波紋のように広がっていくのを耳にしながら、右足に体重をかけないように気をつけて席を立つ。
鞄を肩にかけて扉へと足を向けようとしたところで、左から薄ぼんやりと聞こえていた繰り返しの音の羅列が、自分の名前であるということに、遅まきながら気づいた。声が喧騒に紛れていたというのもあるが、容量を超えて疲れるのが嫌で意識的に感覚を鈍くしていたせいでもあるだろう。横を向けば案の定、前髪で顔が隠れ気味な、背の高い男子生徒が目に入った。
「俺が不注意だったばかりに、怪我をさせてしまって……本当に、ごめん」
「……大丈夫だよ、気にしないで。あれはただの事故だったんだし、ちゃんと前見てなかった俺も悪いからさ」
謝罪と受け入れのワンセットが終わり、これで解散だなと思ったが、しかし黒猫は何かまだ言いたげにしていた。僅かに首を傾げて促すと、彼は躊躇いがちに、「自分でも、こんなこと言うのは変だと思うけど、」と前置きをして、言葉を続けた。
「俺と、友達になってくれないか」
「……え?」
「あっ、違うんだ!さっきのやり取りを意識したとかじゃなくて、えっと、ずっと思ってたことで、わざわざ口にするようなことじゃないって分かってるんだけど、その、でも、やっぱり葉山君と親しくなりたいなって強く思うようになって、それで……」
焦ってやたらめったらと喋り続けた彼が、言葉を途切らせて俺と目を合わせてこようとする、その前に。いつもの如く、口の端を吊り上げて応える。
「うん、いいよ」
「……ほ、本当か?」
「もちろん」
頷く俺を見て、不安げな表情を一変させて破顔した友人を前に、俺はやっと肩の荷が下りた気分になった。
*****
「……まじか」
土日を挟んだ月曜日の朝、高校に入ってから初めて寝坊した。とはいっても、急げば何とか間に合いそうだ。日常的に早めの登校を習慣にしておいてよかったと心底思う。
簡易的に身支度を整えて、急いで駅へと向かって電車に乗れば、車内はいつもより混雑していて息苦しかった。ようやく降車駅に着き、時刻を確認するついでにスマホを出すと、ロック画面にヒロインから〈今日は休み??〉というメッセージが届いていた。ホームの隅で立ち止まり、寝坊したけれど何とか遅刻せずにすみそうだ、という趣旨の内容を送ると、すぐさま「ファイト!」と叫んでいるキャラクターのスタンプが返って来た。相変わらず返信が早い。
現在の時刻ならよっぽど遅く歩かない限り余裕で間に合いそうだと判断した俺は、溢れかえる同じ高校の生徒達に混じって歩みを再開した。が、しばらくすると隣に誰か並んでくる気配がした。明らかに歩く速度を合わせられているので、もしやクラスの知り合いだろうかと目を向けると、王子と形容するに相応しい微笑みをたたえた美少年がいた。
「おはよう、葉山君。奇遇だね。今日は珍しく遅いけど、寝坊したの?」
「……そう、です」
「ははっ、そういう日もあるよね。ねぇ、ここで会ったのも何かの縁だし、よかったら一緒に行こうよ」
「……うん」
わざと偶然性を強調する言葉選びをして、周囲に聞こえる程度の声量でそう誘ってくる白王子に、俺はぎこちなく頷いた。
道中で交わされる、今日の授業課題は何だったか、今週末の小テスト範囲はどこだったかなどの他愛もない、クラスメイト同士としての会話の合間に、三輪はトーンダウンさせた声色で、捻挫した足の具合や、昨夜は眠れたのかどうかなどを素っ気なく尋ねてくる。本当に器用だなと思いつつ、こそばゆさを我慢しながら、それらにひとつひとつに答えていった。
そうして校門前にまで来た時、
「あ」
ここ最近で随分と見慣れてしまった、凛とした雰囲気を纏う美少女が、物憂げな表情で佇んでいるのが見えた。てっきりもう教室に着いているのかと思っていた。話しかけるべきか否か迷っていると、ふと顔を上げた彼女と目が合い、柔らかく微笑まれる。
「おはよう、寝坊助な葉山君……と、三輪君」
「おはよう、水谷さん。もしかして、俺のことを待っててくれたのかな?」
「いいえ。残念ながら、ただの偶然よ」
……少なくとも待っていたのは貴方じゃないわ、と低音で俺達だけに聞こえるように付け足した彼女は、挑発するように白王子を見つめた。校門をざわざわと通り過ぎていく生徒達の視線が痛い。先に1人で行ってしまおうかなと遠い目をしていると、ヒロインが「葉山君、」と囁き声で呼びかけて来た。
「捻挫の方は大丈夫?」
「あ、うん、もうほとんど痛くないよ。ありがとう」
「そっか!よかったー」
「……水谷さんも今日は遅めに来たの?」
「あー……、ううん、いつも通りに来たけど、教室入ったら潤君がいなかったから心配になっちゃって。寝坊だって教えてもらったけど、でもやっぱりソワソワしちゃってさぁ、」
そこで一旦、口を閉じた彼女は、グイッと俺に顔を近づけ、少し目を伏せながら「校門で待ち伏せしちゃった」と言ってはにかんだ。不意打ちを食らって反応できないでいると、彼女と俺の間に腕が伸びて来て無理やり距離を取らされた。驚いて斜め上を見上げると、いつの間にか三輪がヒロインの腕に手を添えていて、視線を絡めていた。
「……あら、嫉妬かしら」
「いいや。ただ、近すぎるんじゃないかなって思っただけだよ」
「過保護なのね、三輪君って」
「お互い様じゃないかな」
その時、背後から急に黄色い歓声が上がり、何事かと振り返れば、同じクラスの女子達が2人をうっとりと眺めながら通り過ぎていくところだった。見渡せば、同様に見惚れている生徒が多くいて、美しい男女カップルの惚気に感嘆する声さえ聞こえてくる。しかし彼らの近くにいる俺には、交わされる視線の間に甘さではなく火花しか感じ取れなかったため、思わず頬が引き攣ってしまった。
連れ立って歩く2人のおまけ的存在として周囲から不本意な注目を浴びつつも、何とか教室にたどり着く。ようやく視線から解放されると安堵したものの、前に出たヒロインが扉に手をかけて開く寸前、ふと、教室内が妙にざわついていることに気づいて違和感を覚えた。同様に異変を感じ取ったらしき彼女の横顔が僅かに曇ったのと同時に、ガラリと扉が引かれた瞬間、
「あっ、葉山君!」
「えっ、何!?あぶな……!」
見知らぬ男子生徒が教室内から飛び出して来て、それに驚いたヒロインがバランスを崩し、廊下に倒れ込みそうになる。彼女の背中を支えるために俺と三輪が咄嗟に手を伸ばすが、それよりも先に前方から出て来た長い腕によって抱き止められた。転倒を回避できたことにホッと息をつき、改めて前を見ると。
「……ごめん、大丈夫だったか?」
「……えぇ。一応ね」
人懐っこそうな整った顔立ちをした長身の男子生徒、あるいはもう少し俗っぽく表現するならば、チャラそうな高身長イケメンが、ヒロインを難なく抱き抱えたまま、心配げに彼女の顔を覗き込んでいた。
頬を染めながら呆けたようにその光景を見ていた女子達の誰かが、「黒王子……」と熱に浮かされたようにポツリと呟くのが耳に入り、一方で群衆の興奮と反比例して斜め後ろからの不機嫌オーラが増大していくのをひしひしと感じる。それは白王子としての感情か、三輪本人のものか、はたまた両方か。
とにもかくにも、俺は目の前の美形からの強い眼差しも、彼の開口一番のセリフも、そして見覚えのあるツリ目がちな猫っぽい瞳も、すべて見なかったことにして、今すぐ家に帰りたくなった。
*****
「ねぇ、黒王子参戦って何!?そんな展開求めてないけど!?」
昼休み、いつかに2人きりで話した際に利用した例の空き教室に俺を引きずりこんだヒロインは、俺と向かい合う形で席に着きながら、今朝に起きたイレギュラーについての不満を息巻いてぶつけてきた。感情を露わにするあまり声が大きくなっていたため「一旦、落ち着こうよ」と声をかけて宥めすかそうと試みるも、効果はなく、「今はそんなのどうでもいいでしょ!」と一蹴されてしまった。
「だいたいさ、みんなもみんなだよ。藤沢君がイメチェンした途端に手のひら返してチヤホヤし出してさぁ……虫が良すぎじゃない?」
「あー……」
「ていうか!勝手に三角関係作られてるのが本っ当に嫌!何で私を取り合う男2人って構図にされてるの?物扱いがムカつくし、てか私、高嶺の花だよ?軽んじないでよ!あとあと、何よりも、」
私アドリブ大嫌いだからストレス過多なんですけど!
言い切って僅かに呼吸を乱したヒロインは、俺の両肩を鷲掴んだのちに、へにょりと項垂れる。艶やかな黒髪に向かって「どんまい」と言葉をなげかけると、「うぅ」とも「あぁ」ともつかない微妙な唸り声が返ってきた。
しばらく無言でそのままの体勢が続き、どうしたものかな、と思っていると、ふいに腹が鳴る音が教室に響く。バッと顔を上げたヒロインは気まずげに自身の腹部に手を当て、そろそろと上目遣いになって「聞こえた……?」と問うて来たため、素直に頷くと、彼女は目を見開いた後、両手で顔を覆って悶え始めた。
ジタバタと足を動かす姿に思わず笑いが込み上げながらも、ふとポケットに入れている非常食の存在を思い出した俺は、それを彼女に差し出した。
「よかったらこれ、あげるよ」
「……チョコ?なんで?」
「俺の非常食。といっても、あんまりお腹の足しにはならないかもだけど」
ヒロインは指の隙間からキョトンとした表情を覗かせつつも、そのうちゆっくりと両手で器を作ったので、そこにポトリと小さなチョコレートを落とす。20円程で売っているような手頃なものだが、俺はいつからか、それを常備するようになっていた。実際にはお守りに近いのかもしれない。
彼女は「ありがと」と礼を言ってから、包みを丁寧に開いてチョコを口に放り込んだ。暫し口の中で転がしている様子だったが、やがて、「おいしい」と顔を綻ばせる。つられて、俺の口元も緩む。
と、膝の上に置いていた俺のスマホが急に振動を繰り返し、そのせいで床に滑り落ちかけたため、慌てて掬い上げる。見れば、友人から〈休み時間はクラスの人達に囲まれてちゃんと話せなかったから、いま会いたい〉〈どこにいる?〉という2通が届いていた。
「どした?」
「……なんか、藤沢君が俺を探してるっぽい」
「ふーん……、まあ、ここに居れば見つからないで……あ」
興味なさげに喋っていたヒロインは、しかし窓に視線を移した瞬間、ふいに言葉を途切らせる。「何かあった?」とその横顔に問いかけると、彼女は苦い顔をして「今さっき藤沢君っぽい男子が通り過ぎていて行って、私、目が合っちゃったかも」と答えた。
「……もう仕方ない!ほら、潤君は早く別の場所に移動しなよ!」
「え、えっ?急にどうしたの」
彼女は突然スクッと立ち上がったかと思えば、俺の腕を引っ張って後ろの扉へと向かわせようとしてきた。何だ何だと瞬きを繰り返しながら、肩越しに振り返れば、神妙な顔つきをしたヒロインは「会いたくないんでしょ、彼と」と静かに語りかけて来た。決して目を逸らそうとしない彼女と見つめ合いながら、俺は躊躇いつつも、それを首肯した。
気づけば扉付近にまで押しやられていて、「ほら、行って」と彼女に背中を優しく押されたのとほぼ同時に、前方の扉がガラリと開かれる音を背後にして、俺は廊下を駆け出した。
*****
見つかりにくそうな、人気のない場所へ。そう意識しながら夢中で走るうちに辿り着いたのは、寂しげな雰囲気がする校舎裏だった。予想通り、誰もいない。
膝に手をついて軽く呼吸を整えてから、ポツリと設置されている簡易的なベンチに腰掛けた。久々に全力疾走したせいで、心臓がバクバクとうるさい音を立てている。汗ばんだ体に、時たま吹くそよ風が気持ちよかった。
木が揺られて葉が擦れる音と、風に乗って遠くから断片的に聞こえてくる生徒達の話し声に、目を瞑って耳を澄ませる。幼い頃から、こういった静かな場所は好きだった。心が凪いでいくのを感じる。
ゆったりと流れる穏やかな時間は、
「……見つけた」
近づいてくる足音と共に聞こえた呟きによって、終わりを告げられた。名残惜しく思いながら、瞼をゆっくりと持ち上げる。
「隣、座ってもいい?」
「……どうぞ」
身じろぎをして端の方にずれると、新たに加わった重みでベンチが少し軋んだ。緊張で強張った顔をした友人は、すぐには話し出そうとしなかった。
「俺に何か、話したいことあった?」
静かに口にすると、彼はこちらに向かい合うような体勢を取った。だが、彼の瞳の奥に再びあの熱を見つけてしまうことを恐れた俺は、しっかりと視線を交えることができなかった。それを察したのか、友人はほんの僅かに肩を落とす。
「……俺、葉山君に訂正したいことがあるんだ」
「訂正?」
「昨日は勢いで『友達になってほしい』なんて言ったけど、でも俺、家に帰って自分の気持ちとちゃんと向き合ったら、それは正しくなかったって、気づいてしまったんだ」
息を吸う音。ごくりと音がしそうな程はっきり喉仏を上下させてから、彼はもう一度、口を開く。それを横目にして、俺も彼にバレないように、発言の準備をする。
「葉山君にとっては、俺なんてただのクラスメイトに過ぎないし、……男同士だし、こんなこと言われても迷惑なだけかもしれない。でも、どうしても伝えたくて……、っ俺は、」
「藤沢君。藤沢君は、何も間違ってないよ」
「……え?」
唐突に自身の発言を遮ってきた俺を、友人は混乱に満ちた瞳で見つめるが、そこには昨日のような露骨なものはなかったため俺は密かに安堵した。これならある程度は目を見て話せそうだ。
「藤沢君は、俺と友達だってことを間違いだって言ってたけど、それは合ってるよ。間違ってない」
「あ、あぁ、えっと、葉山君がそう思ってくれているのは嬉しい。だけど俺が言いたいのは、その、俺の葉山君に対する思いは、」
「ごめんね」
2度目の妨害。彼の目は、別の色を乗せて見開かれていく。
「俺にとってはもう、たぶんこれからも、藤沢君は友達だから、」
訂正とか、できないよ。
一言一句、はっきりと言葉を伝える。互いに不幸になるだけの曖昧さなんて、毒でしかない。俺には彼の気持ちを尊重できなかった。それだけだ。
頼りなさげに揺れる瞳は、俺の発言によって彼が傷つけられたことを如実に表していた。目を背けたくなる気持ちも、耳を塞ぎたくなる気持ちも、痛い程わかる。けれど彼は、決して逃げようとしなかった。ただ、泣きそうな顔で笑って、頷いた。
木から飛び立った鳥が、鳴きながら頭上を通過する。空は青くて、震える吐息をもらす彼の隣で、俺はぼんやりと、悠長に流れていく雲を眺め続けた。
どれくらいそうしていただろうか。ふと、すぐそばであくびをする気配を感じて目を向ければ、友人が両腕を突き上げて、気持ちよさそうに体を伸ばしていた。肢体をピンと張り詰めて、そしてだらりと脱力してベンチの背に体を預けた彼は、「俺さ、」と柔らかい声色で言葉を紡いだ。
「自分の容姿が、コンプレックスだったんだ。派手で軽薄そうな、この顔が。中身を見て欲しかったけど、でも逆に、容姿に合わせた性格にしないと、周りに扱いにくい奴って思われて過ごしにくくなる。対人関係にはそれ専用の顔を用意しなくちゃいけないって、暗黙のルールだって、みんな分かってる。ただ目立ちやすい俺には、その強制力が、みんなよりあからさまだっただけだ」
空を仰いでいた彼は、目線だけを俺に移して、微かに笑う。それは、彼がいつも浮かべる素朴な笑みで、けれどもし俺が彼を知らなければ、物足りない笑みに思えただろうもの。
「人と関わるのは好きだ。でも同じくらい、1人になりたかった。殻にこもってさえいれば、ずっと楽だったから。楽しくはないけど、苦しくもない」
暫しの沈黙の後、反らせていた上体を起こして、しっかりと俺の目を見据えた友人は、「あのさ、どうして俺が髪を切ったのか、当ててみてよ」と穏やかな表情で問いを出してきた。だが、それに対するどの回答も、俺の声によって発されることですべてが酷なものへと変わりそうで、恐ろしくて。何も口にできなかった臆病な俺は、静かに首を振った。
その様子を見取って、切なげに笑みを深めた彼は、「俺が髪を切ったのは、葉山君の顔を、もっとはっきりと見たかったからなんだ。長い前髪は邪魔だったからな」と解答を与えた。それを聞いて、やはり何も答えなくてよかったと思った。
「……ごめん。君を、困らせたいわけじゃないんだ」
そう口にする彼の方が、よっぽど苦しげな表情をしていた。頬に伸ばされてくる手。それを拒むべきか委ねるべきか、分からなくて、ただじっとしていた時、
「藤沢君、ごめんね。そこ、俺の場所だからどいてくれる?」
触れられる寸前、毅然と響いてきた声に空間が引き裂かれた。
「あ……、三輪、君」
柔和な微笑みを崩さないままこちらへ歩み寄ってきた三輪は、行き場をなくしていた友人の手をやや雑にパシリと掴むと、流れるように立ち上がらせた。
呆然としていた友人が、我に返ったようにハッとして三輪に向かって言葉をかけようとするも、肩に手を置かれて何か囁かれた途端、開きかけていた口を固く結び、そして自ら歩き出す。角を曲がって姿が見えなくなる直前に、口パクで「またね」と俺に告げた彼は、三輪に複雑そうな一瞥をくれてから、後ろ髪を引かれるようにしながらも去っていった。
彼の消えていった方角を眺めていると、間近でベンチが軋む音。隣には、ふてぶてしい顔をした美少年が偉そうな態度で腰掛けていた。
「……このベンチ、三輪のものだったんだ?知らなかっ、」
「お前の隣は俺だ」
「……あっそ」
軽口を叩くつもりが、にべもなく撃沈された。
横で居座る体温。ちょっとした出来心で肩がくっつきそうな程の距離に詰め寄ってみるが、意外にも、彼は腕と足を組んだまま微動だにしなかった。いつもだったら俺から近づいたら逃げるくせに、こんな時ばかり容認しないでほしい。これじゃあ、もっと調子に乗ってしまう。
「……防波堤協定、ってやつ」
「なんだ、あいつに吹き込まれたのか」
「……あれ、相手は俺じゃ駄目だったの」
「当たり前だろ」
「男だから?」
「お前だからだ」
喉の奥が引き攣る。
「……おい、息をしろ。死ぬぞ」
「なんで」
「は?」
「三輪も、俺のこと好きなんじゃなかったの」
言って、後悔と自責が目の前を黒に染めていく。頭からつま先まで、そのドス黒い粘液に余す所なく飲み込まれかけたことろで。深々と吐かれたため息とともに覆い被さって来た体温によって、意識が浮上させられた。
「好きじゃないとは、一言も言っていないだろう」
「……じゃあ、どうして、」
「いいか、よく聞いておけ」
一段と強く腕の力を込めてから、体を少し離して、彼は俺の目を見つめた。
「俺は常に、お前の脅威であり続けたい」
「…………は?きょうい?」
「常時お前を俺という存在で脅かしておきたい、ということだ」
「いや、言葉を噛み砕いてほしいってことじゃなくて、え?意味が、わかんないし、そもそも脅威に思ったことなんて、」
「例えば、俺とお前が恋人になったとする」
ビクリと、自分でも呆れるほど大袈裟に肩が揺れると、「いいから聞け」と宥めるように目を細められた。
「そうすれば、お前は俺を恋人として意識するだろう」
「……うん」
「それが気に食わない。俺はお前に、俺という人間そのものを認識させておきたいのだから」
「……話が抽象的すぎて掴めない」
「人間は多面体だ。だが、曖昧で不明瞭なものを好む者は少数派であることも確かだろう。ゆえに、自身の心の安寧を優先させたい俺達は通常、他者を枠に嵌めて容易に矮小化させる」
「だからさ、難しい言葉ばっかり使われてもわかんないってば」
「……つまりだな、」
お前は、俺をまるごと愛すべきなんだ。
「……耳、真っ赤だけど?」
「うるさい、黙れ」
かつてないほどの動揺を見せて、僅かに潤んだ目をした彼の顔が近づいてくるが、いつかの時とは違って、俺は彼との間に何も障害物を挟もうとはしなかった。しかし、それでも鼻先が触れる距離で彼は動きを止める。
「いくじなし」
「……うるさいぞ」
バツが悪そうな顔で目線を逸らす彼に、ニヤつきが止まらない。初めて優勢になれたかもしれない。
心臓が熱いのを自覚しながら、そっと手を伸ばして三輪の頬を包む。ゆるやかに瞳が動き、視線が絡んだ。胸の奥がざわめいて、落ち着かなくて、でもそれが、全く嫌じゃない。彼の瞳に映された俺は、頬が緩みきっていた。
「三輪の言ってたことはよく分からなかったけどさ、」
俺はずっと、これから先も、三輪のそばに居れたらいいなって思ってるよ。
【蛇足追記】
三輪結翔って理系エリートになって大学でもそっち系の学部に進学するけど、葉山(ド文系)とふたりきりの静かな空間のときに葉山のことを背もたれにしながら(「重い」)哲学書を貪り読んでそう。