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4話

 バスの窓から流れていく景色を眺めていると、あの女の子から渡されたメモに書かれた駅名がアナウンスされるのが耳に入り、停車ボタンを強く押す。地面に足をつけてみても、やはり周りの景色はガラス越しに見えているような気がして、ほんの少し不思議だった。本命チョコが入った可愛らしい紙袋が風に揺られたことでカサリと音を立てて、それはまるで、自分のことを急かしているように思えた。

 学校終わりにすぐバスに飛び乗ったが、ここに来るまでかなりの時間を要してしまったから、もうこっちの生徒達はほとんど下校が済んでしまっているかもしれない。あの子によれば、「ゆいとくんは王子様みたいにかっこいいから見れば必ずわかる」とのことだったが、もしそれらしき人物が分からなかったら適当な子に託して帰ろう。

 約4年間通った道は体が覚えていて、見覚えのある場所に出れば、そこからは地図を見なくても歩けた。普段はわざと他の生徒が選ばないような閑散とした通学路の方で通っていたため、自然と同じような道を選んでしまう。

 そうして人気のない空き地に差し掛かり、通り過ぎようとした時だった。手入れされていない草で荒れ放題のそこに、人影があることに気づき、ちらりと視線を移した瞬間、栗色の髪をした綺麗な顔の男の子と目が合った。ただそれだけなのに、何故か目が離せなくて。そして、目線を少しずらし、彼を取り囲む状況を認識した途端。

 彼は、俺自身になってしまった。

 全身の力が抜けて、でも心臓だけが熱くて、邪魔なものをすべて置き去って身軽になった体で、無我夢中で集団の中へと走った。掴み掛かった分だけ痛みが倍になって返ってくる。痛かった。ようやく痛みを感じた。物理的な衝撃が、どこか懐かしさを伴って、実感として自分を包み込む。助けたかったとか、復讐をしたかったとか、そんなのじゃない。ただひたすらに、無謀な痛みを通して、もう一度だけ、生きてみたかった。

 けれど全てが終わった後、残ったのは果てしない虚無感だった。生き返ったはずだった。でも生き返った上で、死にたくなってしまった。もう現実に身を置きたくなかった。麻痺した心臓という鎧を脱ぎ捨てて、生の土俵に立つことは、もうしたくなかった。疲れたんだ。ずっとずっと前から、きっと呼吸なんて止まっていた。もし心と身体がまるごと一緒だったら、俺はとっくに、解放されていたはずなんだ。

 ゆらゆらと揺れて溶けていく視界。刹那の痛覚がまた、消えていく。これ以上、死なないためだけに生命を費やしていくのは、もう嫌だった。擦り傷がついた手を、空へと伸ばす。このまま飛んでいって、あの青で目の前を埋め尽くせたら、存在する義務から解放されるだろうか。

 そんな妄想をして、俺は静かに瞼を閉じた。はずだった。

 糸が切れたように落ちかけた、天を求めた俺の手を、誰かが強い力で握りしめた。薄らと開いた目に、美を司った男の子のシルエットが映る。ぼんやりと、その絵画を眺めていると。

 

『……うっ』


 勢いよく、頬が熱い体温に包まれる。さわさわと、俺の存在を確かめるかのように僅かに動いて、やがてそれが彼の両手だと気づく。暖かさにより一層、目を細め、そうして意識を手放そうとして、


『おい、お前!』


 ガッ、と急に頬が両側から圧迫され、無理矢理に引き戻された。すっかり覚めてしまった目で、それでも残った理性が自分の悍ましい視線を彼に向けることを拒み、視界から彼を逃そうとした、直後。


『っ、僕から目を逸らすな!』


 真っ直ぐと、自分のすべてを射抜くような、どこまでも透き通った瞳。様々な感情が綯い交ぜになったそれは、紛れもなく、ただ俺ひとりに向けられていて。

 2つの水晶に映り込んだ俺は、確かに今、ここに生きていた。


『……痛い』

『突き飛ばされて地面に転がされた程度だろ、弱音を吐くな。傷も大したことはない』


 心底呆れたような声が降ってきたが、倒れたままでいる俺の手や顔についた擦り傷を確かめるように撫でる手つきは繊細で、存外優しかった。細く空に向かって吐き出した息は白く、肌に触れる空気が冷たい。そういえば、今は冬なんだなと思い出した。肺に入る冷気が何だか新鮮だった。

 いつまでも起きる様子を見せない俺に、今度こそ本当に呆れたのか、側でしゃがみ込んでいた男の子はおもむろに立ち上がり、視界の端へと消えていった。が、すぐに戻ってきて、『さっさと立て』と前から手を差し伸べてきた。儚げな見た目に反して、俺を引き上げる彼の力は強かった。

 まだ少し霧がかかったようにぼんやりとする頭を押さえていると、眼前に何か物体が掲げられる。黒くて小さい、2つの機械らしき物。


『……これ、なに?』

『小型のボイスレコーダーとカメラだ』

『ぼいす……』

『音声を記録する機械のことだ。僕の上着のポケットに忍ばせておいた。こっちのカメラは、あの草むらの中に』


 生い茂る草の一帯を指して『案外バレないものだな』と感慨深げに呟く彼をよそに、そのハイテクな機械をいまいち理解できない俺はポカンとしていたが、それでもかろうじて口を開き、『なんでそんなもの持ってるの?』と彼に尋ねた。その際、口の端がピリリと痛んだので、いつの間にか乾燥で切れていたのかもしれない。


『証拠を残すためだ。あの馬鹿共が下卑た笑いで僕に呼び出しをしてきた瞬間から、たいだい察しはついていたからな』

『……わかってたなら、逃げれば良かったのに』

『元々、僕の周りをちょこまかと動き回っていた鬱陶しい奴らだ。この好機を逃して野放しにするほうが面倒だろう』

『でも、囲まれちゃってたじゃん』

『だからこその証拠だろ。奴らから仕掛けてきたと証明されれば、正当防衛が適応される』


 真顔でグッと拳を握りしめる男の子。まさか、真正面から反撃して、しかも勝つつもりでいたのか。あの多勢に無勢の状況下で。やはり想像以上に勇ましい性格らしい。

 気が抜けたのと同時に、もしや自分の行動が彼に不利益を与えてしまったのではないか、という罪悪感が湧いてきて、視線が足元に落ちる。


『……俺、君の計画の邪魔しちゃった。ごめん』


 ポツリと口にして、じわじわと後悔が胸の中で広がっていく。一向に彼から返事が返ってこないのも、その感情に拍車をかけた。


『……おい』


 沈黙を破って、端的な呼びかけが降ってくる。重い頭を持ち上げた先に、半透明の黒い丸が向けられていた。


『え』


 パシャッと、シャッターを切る音。何度か瞬きを繰り返した後、男の子の手に例のカメラが握られていることを認識し、それで写真を撮られたのだと思い至った。だが、理由がわからない。

 混乱して目を見開くことしかできない俺を、カメラを下ろした彼はまじまじと眺めて、そして、悪戯っぽく笑みを深めた。それを見た俺は、何だかすべてがどうでもよくなって、彼につられて、久々に心の底から笑った。

 それから、捨て置いた荷物を見たことで本来の目的を思い出し、託された紙袋を手に取って男の子に「ゆいとくん」を知っているかどうか尋ねると、彼はものすごく怪訝な顔で、それは自分の名だと言った。彼は王子様というより王様という感じだったので、イメージの乖離にひっそりと驚いていると、見透かされたのか、さらに険しい顔つきでジロリと睨まれた。やっぱりどう見たって王子様には見えない。

 送り主の女の子の名前を告げて紙袋を手渡すと、口では返礼が面倒だとぼやきつつも、何だかんだ丁重にランドセルの中へとしまっていた。目的を果たせたことにホッとして、改めて辺りを見渡すと、もう日没が近かった。

 男の子に別れを告げて、バス停へと足早に向かおうとしたが、突然襟首あたりを後ろから引っ張られてバランスを崩す。目を白黒させて倒れかけた俺を彼は全身で受け止めて、『お前は僕に何かないのか』と何故か不機嫌そうに囁いた。何か、とは、チョコのことだろうか。生憎持ち合わせはないと言おうとしたところで、ふと今朝、近所のおばさんに配られた、20円ほどで買えるチョコが、ポケットの中に入れっぱなしだったことを思い出した。

 ゴソゴソと取り出して、『これでも良かったら』と差し出せば、『仕方ないな』と仰々しい態度で摘み上げられた。どこにでも売ってる手頃なものだったが、それを受け取る彼はやけに嬉しそうだったから、たぶん、チョコが好物だったのだろう。

 そして後日、3月の中旬ごろ。


『じゅんくん、はい』


 以前、本命チョコを託してきた女の子から、長方形の箱を渡された。側面にはオシャレな英字が刻まれている。首を傾げる俺に、彼女はどこか釈然としない表情で経緯を説明してくれた。


『あのねぇ、ななか、チョコの紙袋の中にななかのお家の住所書いた紙も入れててね、ゆいとくんがホワイトデーのお返しくれたの。でもー、もう1個お菓子があって、そっちはチョコを届けてくれた子にあげてってお手紙に書いてあったの。だから、じゅんくんにあげる』


 その話を聞いて、彼がまだ自分のことを覚えていてくれたことに言い知れぬ高揚感を覚えつつも、あのチョコのお返しに、こんな高そうなものを貰ってもいいのだろうか、という躊躇いも生じた。なかなか反応を示さないでいる俺を、もう少し情報が欲しくて待っているのだと捉えたのか、彼女は『中身はマカロンなんだってー』と説明を付け加えてくれた。高級そうな箱に似合う、オシャレなお菓子だなと思った。

 あのチョコをくれた近所のおばさんにもお裾分けしてあげよう、などと考えていると、ズイッと顔を寄せてきた女の子から『抜け駆けは禁止だよ!?』と迫ってこられる。あまりよく分からなかったが、その剣幕に負けて、俺は何度もコクコクと頷いた。


*****


 あ、ぶつかる。

 瞬時にそう悟って動かそうとした右足は、しかし予期せぬ方向に曲がって鈍い痛みをもたらした。斜め前から衝突音とともに低い呻き声が聞こえて、そのままドミノ倒しに背中から倒れいく最中、どうしてこうなったのだろう、と諦めの気持ちで記憶を辿った。

 そもそもの発端は、通常であれば今の時期、俺達のクラスの男子は体育館でバスケをしているのだが、今日に限っては授業数に余裕があるからという教師の提案によって、多数決の結果ドッジボールをやることとなった、というところにある。

 足の速さだけは少し自信がある俺は、始めのうちこそ上手く人の間を縫ってボールから逃げ続けていたが、もう1個のボールが追加されてダブルドッジとなった途端に、ボールの位置を把握するだけで精一杯になってしまった。

 片方のボールだけを意識していたら、もう片方のボールに当たりかける。目が回るのような状況の中、必死で逃げ回っていると、段々とコート内の人数が減って標的にされやすくなっていった。

 そして、外野からのボールを避けようと相手コート側に近づいた時、


「あ」


 もう1個の、相手コート内から投げられそうになったボールから逃れようとしていた同じチーム生徒の背中が、眼前に迫る。生徒は俺に気づかず後ろに下がって来たため逃げ場がなく、方向転換も失敗した挙句に、そうして俺は、強烈なボールを顔面に受けてグラついたその生徒共々、後ろに倒れ込んだのだった。

 幸い生徒の背中に顔をぶつけることは避けられたが、打ち付けられた自分の背中が痛い。右足の方も挫いたかもな、と苦く思っていると、「ごめん!」と叫んだその生徒が体を起こしてどいてくれた。無事な左足を軸にしながら上体を起こし、生徒に向かって大丈夫だと言おうとしたが、彼の容姿を改めて認識してピシリと固まる。


「葉山君、無事か!?本当にごめん!」


 共倒れになった生徒はどうやら黒猫だったらしい。確かに背が高いなとは思っていたけれど、焦っていて気づかなかった。いや、違う、それよりも、


「ふ、藤沢君!鼻血……!」

「え?」


 ポタポタと赤い雫が、彼の鼻から滴り落ちていた。


「うわっ!ほんとだ、え、どうしよ」

「あ、ティッシュ!待って俺、ティッシュ持ってる!」


 大慌てでポケットティッシュを取り出し、数枚を乱雑に引き抜いてから、両手で鼻を押さえている黒猫の顔付近へと持っていく。同じく慌てている彼は片手を離してそれを受け取ろうとするが、遠近感があまり掴めないのか、伸ばされた手はぶれまくった拍子に俺の手の甲にベタリと触れる。液体が付着する感覚にぞわりと鳥肌が立ったが、何とか堪え、手の先へと誘導して目的の物を掴ませた。

 とりあえずの応急処置として重ね合わせたティッシュで鼻を押さえ込んだ黒猫は、ふう、と息を吐き、俺の方を向いて礼を言った。軽く手を振り、なんてことないと伝えようとして、ふと、彼の目線が俺の顔ではなく、少し下、手元あたりに注がれていることに気づく。辿ってみると、彼の血が付いてしまった自分の右手に行き着いた。あぁ、これについて申し訳なく思っているのか、と思い至り、やはり再度、笑みを作って大丈夫だと伝えようとした、が。

 俺を見下ろす彼の瞳の奥に、おかしな熱があった。

 燃えているというより、煮えているような、どろりとした粘着質なその熱は。情欲としか、言いようがなかった。


「はい、藤沢君。これどうぞ」


 肩を抱かれて思いきり後ろに引かれたため、意図せずのけぞる。至近距離からの聞き馴染みのいい声に、自然と身体の強張りが解けていった。


「……っあ、ありがとう」


 白王子に投げ込まれた箱ティッシュを見て、上擦った声で黒猫が言った。「災難だったね」と同情の眼差しを彼に向けてから、しゃがみ込んだ三輪は俺の左腕を自身の肩に回して、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。異変を察した体育教師がこちらに駆けて来ると、白王子は「葉山君が足を捻ったようなので、保健室に連れて行きます」と殊勝に微笑んで、教師の返事を待たず、俺を支えながら体育館出口へと少しずつ進んでいった。

 左半身に体重をかけ、彼に頼りきって不恰好に歩くが、時たま、右手の甲がジクジクと膿んだように疼く。


「見るな。俺だけに集中しろ」


 命令口調が降って来て、もっと体重をかけろと言わんばかりに左へと傾けられた。

 保健室への道中にあった手洗い場で一旦立ち止まり、器用に蛇口を捻った三輪に促されるがままに、右手を水の中へ突っ込む。

 水圧だけでもだいぶ落ちたが、それでも顰めっ面をした彼は、柱に俺をもたれかからせて安定したのを見取った後、僅かに残っていた赤を両手で擦って水に流した。だがあまりにも強い力で擦って来るのでたまらず「痛い」と抗議すれば、なぜか「これぐらい我慢しろ」と逆ギレされた。

 そうして、ようやく洗い終わったかと思うと、今度は新品同様のハンカチをポケットから取り出して、丹念に俺の手を拭き始めた。どうせまた抗議しても無駄だろう。

 飲み込んだ言葉の代わりに、彼の方に身を寄せ、首筋あたりに鼻を擦り付けて息を吸った。かすかにシトラスの香りがする。彼の温度と混じり合った軽やかなそれは、あの熱を掻き消してくれるようだった。しばらくの間、目を瞑って浸っていたが、やがて「嗅ぐな、馬鹿」と短く吐き捨てた彼の肩に押しやられる。その耳は、ほのかに色付いていた。

 保健室の前に到着してノックしてから扉を開けると、ちょうど出ていくところだったらしい生徒と出くわし、見上げれば黒猫だった。あの後も鼻血がすぐには止まらなかったため、保健室でもらった保冷剤を当てるなどして、今し方おさまったのだと言う。

 その後、なんやかんやと処置を受けた俺は、終業時間に差し掛かったのタイミングで、歩けないほどの痛みではないから大丈夫だと言い張って保健室を後にした。帰っていいと言ったのにそばに留まり続けてくれていた2人と、並んで廊下を歩く。

 もう肩を貸す必要はないのに俺の左隣を決して譲らず、黒猫との間におさまり続ける白王子に、黒猫は若干困惑気味だった。普段の教室において、白王子と俺は連絡事項を介する程度でしか関わりがないのだから、これほど近い距離で接しているとなれば、何らかの違和感、あるいは推測が喚起されてしまうのも致し方ないだろう。例えば、あの時のヒロインのように。

 それらを退けるには適切な距離に戻ればいいだけなのだが、今はまだ、このままでいたかった。

 誰も口を開くことなく、淡々と教室へ向かっていたが、ふいに黒猫が、「三輪君って、」と控えめに声を発した。つられて彼の方を見ようとして、間に入り込んだ背に阻まれる。それを見た黒猫が苦笑する気配を感じ、しかし彼は躊躇いを見せた末に、続く言葉を紡いだ。


「俺が思ってた以上に、友達思いなんだな」


 数秒の沈黙の後。俺に背を向けたまま、それを聞いた彼は、


「何か勘違いさせてしまったみたいだけど、葉山君と俺は、友達なんかじゃないよ」


 三輪は、そう言って心外そうに笑った。

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