3話
『お前の目、すげームカつく。睨んでんじゃねーよ』
何を言われたのかを理解できないでいるうちに、けたたましい音とともに机の脚が蹴られ、その衝撃で開きっぱなしだった筆箱が床に落下した。複数の笑い声がやけに遠くから聞こえる。
散乱した筆記用具。大切に使っていた鉛筆は、すべて芯が折れていた。
それからのことはあまり覚えていない。ただ、学校の中で怖いものが増え続けた。笑い声、視線、発表の場、体育、掃除当番。あと、隣の席。あれらが例の平仮名3文字に当てはまる行為だったのかどうかは未だにわからないし、どうでもいい。
慣れてしまえば単なる日常。そんな日々でも毎晩、とある行為によってのみ僅かに安らぎと実感を得られたが、ある日、親に見つかって止められた。泣きながら『気づけて良かった』とうわ言のように繰り返し謝ってくる彼らを見て、俺の中にも意味が分からないなりに罪悪感が生まれ、一緒に泣いた。
転校の話が持ち上がったのは、それからまもなくのことだった。確か4年生の冬休み頃だったと思う。こたつで暖をとりながらぼんやりとテレビを眺めていた俺は、いつになく気遣わしげな表情で顔を覗き込んでくる親に首を傾げたが、何となくその提案に賛成した。すると涙ぐみながら抱きしめられたので、自分の選択は正解だったらしい、とひどく安心した。この頃から作り笑いが上手くなった気がする。
引っ越しや諸々の手続きは速やかに進められていき、やがて冬休みが明け、迎えた初登校の日。自己紹介を終えた俺は、興味津々といった様子で目を輝かせる同級生達に質問攻めされるはめになった。ひとつ答えるたびに、違う方向からまた質問が飛んでくる。きりがなくて目が回った。帰宅して親にそのことを話すと、楽しそうに笑われたので、つられて俺も嬉しくなった。そこでの学校生活は以前ほどは怖くなくて、運が良かったなと思った。
そうしてクラスメイトとも少しずつ交流が増えてきた頃、1人の女子が簡易的にラッピングされたチョコレートを俺に手渡してきた。形状からして、恐らく手作り。
聞けば、彼女は今、来月のバレンタイン本番に向けて試作品を作っており、それらが完成するたびにクラスの男子達にランダムで配っているのだという。ちなみに、対象となるのは当日には何もあげない予定の子達らしく、彼女に恋をしていると噂の男子生徒はとても複雑そうに試作品を受け取っていた。
『本当はねー、ゆいとくんに本命チョコあげるつもりだったんだけどねー、』
チョコをもらった後、偶然にも帰り道が同じだったことが判明したため、横並びで白い息を吐きながら歩いていた時、会話が途切れたタイミングで彼女は悲しげにそう話し出した。
『渡せなくなっちゃったから、残念なんだー』
『ゆいとくんって、誰だっけ。どこのクラス?』
もし同じクラスで俺が忘れてるだけだったら気まずいなと思いつつ、聞き覚えのない名前の生徒について聞き返すと、その子は『あっ』と声を上げた。
『そっか!じゅんくんはゆいとくんのこと知らないんだった!あのねあのね、ゆいとくんはね、ななか達の学年で1番かっこいい男の子で、みんな大好きだったんだよー!』
『へー……あれ、それで、何でななかちゃんはチョコを渡せないの?』
『だってね、ゆいとくんは2学期の終わりに転校しちゃったんだよ!もう学校で会えないし、お家の住所も分からないから、直接渡せないの……』
『そっかぁ。それはとっても残念だね』
うん……、と肩を落として力無く頷く彼女を横目に、自分と入れ違いで転校していったという生徒のことを頭の中で転がす。ドンピシャですれ違うなんてすごいなぁ、と思っているうちに、ある妄想が脳裏をよぎり、考えなしにそれを口にした。
『もしもだけどさ、その子が俺の前の学校に転入してたら、面白くない?』
『えぇ!?何それ!2人が交換されちゃったってこと!?』
『あ……、いや、ただの妄想だけどね?』
『本当だったらすごいじゃん!ねぇねぇ、じゅんくんの小学校ってなんて名前だったの!?』
何気なく出したつもりの話題に思っていた以上に食いつかれ、若干押され気味に身を引きながらも、辿々しく学校名を言うと、彼女は目をまん丸にして『うそー!』と叫んだ。なんと「ゆいとくん」とやらは本当に俺の前の学校に転入していたらしい。頬を紅潮させたその女子は、興奮のあまり俺の手を握って上下に激しく振ってくる。
暫しされるがままにされていたが、突然彼女が『あぁっ!』と何かを閃いた様子を見せたことで、ようやく揺さぶりが止まった。
『じゃあさ、じゅんくんはゆいとくんの学校がどこにあるか知ってるんだよね?行けるんだよね!?』
『い、一応……』
『実はね、ななか、最初ゆいとくんが転校しちゃうーって聞いた時は、でもゆいとくんの学校の場所調べて渡しに行けばいいじゃん!って思ってたんだけど、でもやっぱり遠いところ行くの怖いし、知らない学校で待ち伏せする勇気もないしで諦めちゃって……、でもね!』
がしり、と再び握り込まれる手。眼前には希望に満ち溢れた顔が迫ってくる。
『じゅんくんと一緒なら、きっと大丈夫だと思うの!ね、バレンタインの日、ななかに着いてきてくれるよね!?』
『……うん、いいよ』
キラキラとした瞳で見つめてくる、いたいけな女の子を前にして、当時の俺は断る術を持ち合わせていなかった。
そして月日が経ち、来るバレンタイン当日。風邪を引いたせいで遠出ができなくなったと語り、鼻水を啜りながら、泣き腫らした赤い目で懇願する彼女に託された本命チョコを、やはり俺は拒むことができなかった。
*****
ヒロインと2人きりで話をしたあの日から、数週間後。
「あら、葉山君。可愛らしい寝癖がついているわよ」
クスクスと笑いながら伸ばされる白く細長い手が自分の髪に辿り着く前に、のそりと机から頭を上げる。正面からぶつかる視線。いつの間にか俺の前の席に座っていた彼女は、空中に浮いて行き場をなくしたその手を緩やかに引っ込めて、「残念」と柔らかく微笑んだ。
あの日以来、ヒロインはこの早朝の、まだ俺達しか教室にいない時を見計らって、ちょっかいをかけてくるようになった。しかも妙に甘ったるい言動ばかりしてくるものだから、いつまで経っても慣れない。
自分で髪を適当に撫でつけながら、「毎朝やってて飽きないの」と問うて眠たい目を擦り再び前を見ると、満面の笑みを浮かべる朗らかな美少女がいた。
「全然!」
「……そっか」
呟いてから、そろそろと目を逸らし、眩しさ満載のオーラから逃れる。この変わり身の速さも慣れない要因のひとつだった。
「ていうか私としてはー、」
ふと俺の机に身を乗り出しくる気配を感じ、一瞥すれば、ふくれっ面で頬杖をついた彼女が恨めしげな目をしていた。首が傾げられた拍子に、艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「君が全くときめいてくれないのが、すごーく不満でーす」
「ときめくって……」
「こんなに綺麗でお淑やかでその上いい匂いもする最高級美少女にアプローチされて、何で目がハートにならないのかって話。普通イチコロでしょ?」
あ、自分でそういうこと言っちゃうんだ、と思っていると、「自惚れじゃなくて事実だからいーの」と見透かされたように反論されて虚をつかれる。恐る恐る「声に出てた?」と聞けば、不機嫌そうに「顔にはっきり」と返された。
そのまま互いに無言でまどろんでいたが、ふと頬杖を崩して机の上で腕を重ねたヒロインは、上半身ごと体をこちらに倒して伏せた状態になり、その額を枕に見立てた自身の腕に乗せた。本気で眠る体制に入ってしまったのだとしたら、かなり困る。
試しに「寝るなら自分の席でね」と声をかけてみるが、返事はない。弱ったな、と呑気に思っていると、僅かに身じろぎをした彼女が何やら口をもごつかせる。が、くぐもった声で上手く聞き取れない。ほんの少し近づいて耳をそばだてると、「もしかしてさぁ、」という言葉がようやく聞こえたため、大人しく続きを待っていたが、突然、くい、と袖口が引っ張られ、意識が持って行かれた。
俺の手首付近の布を控えめにつまむ、細長い指。辿った先には上目遣いでじっと俺の顔を観察してくる彼女がいて、その瞳は、珍しく揺れていた。
「潤君的にはさ、こういうほうが、キュンときたりする?」
「……どういうーー」
こと、と言いかけた瞬間。勢いよく教室の扉が開かれ、現れた人物を見て咄嗟に言葉を飲み込む。どこか苛立たしげな足取りで俺達の元へとやって来た彼は、感情の読めない視線で見下ろしてきた。
「おはよう、藤沢君。今日も新記録達成ね。完全に朝型の人間になったのかしら?」
倒していた姿勢を戻しながら、余裕の笑みを浮かべて挨拶をするヒロインに、黒猫の鋭い視線が一点集中する。数秒間、重苦しい膠着状態が続いたが、ちらりと俺を見た彼が先に口を開いたことで、終止符が打たれた。
「……葉山君を、困らせないでくれ」
やけに剣のある言い方だった。そのことに気を取られすぎて、始めの「ハヤマクン」が自分のことを指しているのだということに気づくのが遅れる。
「あら。そんなつもりはなかったけれど?」
固まっていた俺の代わりに、ヒロインが彼のセリフに応じた。そこで我に返った俺は彼女に賛同するため声を出そうとしたが、挑戦的に目を細めた彼女が「それより、薄々勘付いていたのだけれど、」と唐突に話題を変えたため、叶わなかった。
「貴方って、私と彼の仲を邪魔するために登校時間を早めたのかしら」
「何が言いたい?」
「だって不自然でしょう?いつも遅刻寸前だった貴方が、ここ最近、刻むように登校時間を早めているなんて」
「早合点はやめてくれ。俺が意識してるのは葉山君だけだ。むしろ君のほうこそ、俺が葉山君と親しくなるのを妨害しようとしてるんじゃないのか」
「ムキになっているところ悪いけれど、論理が破綻しているわ。私が彼を独り占めするのは、私達以外に誰も教室にいない、束の間のこの時間帯だけ。クラスの皆が登校し始めれば、貴方はいくらでも彼とお喋りできるはずよ?」
「……君が、葉山君と2人きりでベタベタするのが嫌なんだ」
「あぁ、くだらない嫉妬ってオチね」
あからさまな嘲笑を添えて発言を締めるヒロイン。一瞬、言葉を詰まらせた黒猫が、それでもなお言い募ろうとしたところで、同じクラスの女子集団がグループ内で楽しそうに会話をしながら教室に足を踏み入れてきた。
彼女達がお喋りに夢中になっている隙にヒロインは席を立ち、ひらりと俺に手を振ってから踵を返す。自席に向かう動線上で女子集団に挨拶をする彼女を眺めながら、知らず入っていた肩の力を抜く。あの緊張感が嘘であったかのように、教室内は普段の、何の変哲もない雰囲気に戻っていた。
何だか、疲れた。体を襲う気怠さのままにため息をつきかけたが、黒猫が依然として自分の横に棒立ちしていたことに気づいて、すんでのところでやめる。立ちすくむ彼は、どこか心ここに在らずだった。
「……あの、藤沢君?」
「……え、あっ、ごめん、ぼーっとしてた」
声をかければ、先ほどの延長線上で厳しい眼光が向けられるかもしれないと気を引き締めていたが、意外にも、振り向いた彼は無防備な表情をしていた。ともすれば、優しげとも取れるような。
左隣の席に鞄を置き、椅子に座って同じ視線の高さになった彼は、眉をハの字にして「ごめん」と謝罪を繰り返す。
「え、いや、別にいいよ。俺が動揺してたのは本当だったし、」
「違う、水谷さんの言う通りだったんだ」
目を合わせながら断言したかと思えば、途端、「全部俺の独りよがりだった」と項垂れ始めた黒猫に、どう言えばいいか分からず狼狽える。だが次の瞬間、彼は意を決したような雰囲気で顔を上げた。
「迷惑かけてごめん、反省する。もう彼女との間は邪魔しない。でも、俺は葉山君と仲良くなりたいから、これからも話したい」
いいかな、と寂しげな瞳で見つめられ、まるで赦しを請われているかのような居心地の悪さを感じた俺は、すぐさま笑顔を作って首肯した。
あの日を境に、少しずつ変化した日常。それでも、三輪だけは変わらず白王子として振る舞い続け、俺に対しても「ただのクラスメイト」という姿勢を崩さなかった。俺にとって、それは唯一の心の拠り所だった。
*****
〈第二段階に移りたいと思います〉
夜、風呂から上がってスマホを手に取ると、ヒロインからよく分からないメッセージが来ていた。何それ、と送れば一瞬で既読がつく。あちらもちょうど、俺のトークルームを開いていたのかもしれない。
〈明日、祝日で学校ないでしょ?〉〈用事ないならデートしようよ〉と2通連続で返ってきた。肩にかけたタオルで髪を雑に拭きながら、とりあえずベットに腰掛けて文字を打つ。
〈それも「アプローチ」ってやつ?〉
〈いえす!〉
〈普通に暇だけど、別に俺と一緒に過ごしても楽しくないよ〉
〈なんでー?〉
〈インドア派だから誰かと遊ぶのに慣れてない〉
〈じゃ、静かなところにしよ〉
〈そういう問題じゃなくて……〉
人と遊ぶのが苦手だというのは本当だ。だから学校生活でも最低限の交流を意識して、放課後にまで付き合いを持ち込まないようにしている。いつも絡む数人のクラスメイト達は、俺のそういった性質も理解してくれているからありがたい。
その後、何往復か押し問答をした挙句、俺のメッセージを最後に会話が途絶えた。恐らく彼女の方が諦めて、自然消滅というかたちになったのだろう。スマホを側に放ってから、ドライヤーと歯磨きをするため洗面所へと向かった。
そして一息ついて自室へと戻ってくると、予想に反してヒロインからまたも通知がきていた。何気なくトークを開いて、文字を目で追う。
〈嘘、見栄張った。ほんとは素の自分でいられる相手と時間を過ごしたいだけ〉
切実な声色によって、その一文が脳内で再生される。文面を考えるよりも先に、勝手に指が、画面の上を滑っていた。
〈どこに、何時ごろ集合する?〉
既読はやはりすぐについたが、返信はなかなかこなかった。散らかっていた部屋を片付けつつ待っていると、机の上でスマホが振動する。
〈13時くらいとかはどうかな〉
〈了解、場所は?〉
〈まだ決めかねてる〉
ピタリと止まる会話。頭を悩ませ、トークを少し遡って4通前のメッセージを読み返してから、慎重に文字を入力する。
〈じゃあ、水谷さんがいちばん自然体でいられる所にしよう〉
その数分後、とある公園名を告げるメッセージが届いた。
*****
翌日の昼、スマホ片手に地図アプリに浮かぶ自分の位置情報と睨めっこしながら行き着いた、寂れた公園にて。
「だからぁ、人違いだって言ってるでしょ!しつこいなー!」
「僕が翠を見間違えるわけないだろ!?なんでそんな嘘つくんだよ!」
帽子を目深にかぶり長い髪を一括りにしてブランコに腰掛けている少女に、爽やかな美少年といった風貌の人物が何やら突っ掛かり、言い争いをしていた。よく見ると、少年の斜め後ろにはショートヘアの大人しそうな少女も控えている。
修羅場らしきその光景から反射的に目を背けようとするも、ブランコに座る方の少女の背格好や声質に何となく覚えがある気がしたので、再度、彼女に注目してみる。そして、彼女の正体がヒロインであると認識したのとほぼ同時に、向こうも大きく口を開けて俺に気づいた様子を見せた。
ガシャン、と両手で握っていた鎖を揺らし、跳ねるように立ち上がった彼女が、ポニーテールを左右に揺らしながら俺の方へ駆けて来る。だが目の前で急ブレーキをかけた彼女は軽く挨拶を交わすやいなや、「わざわざこんな遠い場所に呼びつけといてほんとにごめんだけど、面倒な奴が来ちゃったから移動しよ」と早口で言い切って、力いっぱい俺の腕を引っ張り公園の出口へと促した。
が、全速力で回り込んできた例の少年にすぐさま退路を塞がれる。困り切った表情で一方的にヒロインへの呼びかけを続ける彼は、部外者の俺など眼中にないようだった。無視というより、始めから存在がないものとされている。
ぼーっと事の成り行きを眺めていると、後方からのんびりとした足取りで歩いて来る少女が目に入った。先ほど少年の側にいた子だ。外見からして同い年ぐらいかもしれない。再び少年に寄り添うような立ち位置に収まった少女が、こちらに視線を流してきたタイミングで小さく会釈すれば、鋭い睨みが返ってきた。面食らって、何か間違えたかな、と考えているうちに、
「あの子の彼氏ですか?」
と脈絡なく尋ねてきた。あの子、という部分的でヒロインを一瞥したから、たぶんそういうことだろう。首を横に振り、「違うよ」と口にしたところで、ふと隣で繰り広げられていた喧騒が止んでいることに気づいた。というか斜め前からジリジリと焼くような視線で刺されていて痛い。嫌々と、諦念まじりにそれと向き合う。端正な顔立ちの少年は、イメージ通りの爽快な笑顔を俺に投げかけた。
「蚊帳の外にしちゃってごめんね、再会するのが久しぶりで、つい嬉しくなっちゃったんだ。それで、君は翠の友達?」
「……まぁ、」
「あんたには関係ないでしょ」
一歩前に踏み出したヒロインが、棘のある口調で俺の言葉を遮った。いつになく敵対心を剥き出しにする彼女は「埒が明かない。早く行こ」と吐き捨てると、すっかり押し黙ってしまった少年に今度こそ背を向ける。腕を掴んでいたはずの彼女の手は、いつの間にか俺の手と絡められていて、有無を言わせない力で進行方向へと引きずられた。
その最中、後ろから「徹、元カノさんのことはもういいでしょ」という少女の声が聞こえた。少女はどこか祈るような声色で何度も少年に話しかけているようだったが、彼は一向に返事をしない。そして、彼らの声がもう届かなくなりそうなほど距離になった時、少年はおもむろに、けれどはっきりと言葉を発した。
「違うよ、琴音。翠は彼女なんかじゃなくて、僕の大切な幼馴染だ」
ヒロインと繋がれた方の手に、ギュッと力が込められた。
*****
互いに無言で歩き続けること、十数分。目についたカフェに入店し、他の客からなるべく死角になるような奥の席に着いて、それぞれが注文した飲み物が店員によって運ばれた頃合いで、ヒロインは「何から話せばいいかなぁ」と重い口を開いた。
「とりあえず、結論だけ先に言うね」
帽子を脱いで側に置いた彼女は、「あー、髪がボサボサ」とぼやいて顔を顰めてから、薄く水の膜が張った瞳で俺を見据えた。
「……私は、無意識のうちに君を昔の自分に重ねてて、だから私は、君を救うことで、間接的に過去の私を救いたかったんだ」
今となっては全部身勝手なエゴだったって分かるんだけどね、と付け足した彼女は、自嘲気味に目を伏せ、少しずつ言葉を積み重ねていった。
公園で彼女に突っかかっていた少年は桃瀬徹という名で、彼女とは家が近く、幼稚園からの幼馴染だったということ。互いに家庭環境が複雑で、だからこそ共鳴する部分が多くて、深く長く寄りかかりながら生きてきた彼女達は、同じ中学校に上がる頃には共依存めいた関係性に陥っていたこと。そして、当時の彼女達にとっては、2人だけの箱庭が何よりも幸福の象徴だったこと。
だが、成長期を迎え、身体における男女の差が顕著に現れ始めたのを契機に、関係は緩やかに崩壊していく。ヒロインが、少年のことを異性として意識し始めたのだ。
「最初はね、それが恋なんて知らなかったし、信じたくなかった。よくある気の迷いってやつだって、思い込みたかったの」
でもね、と小さく呟き、震える吐息をもらした後、彼女は切なげに笑顔を取り繕った。
「あいつが学校の女子達からモテ始めた時、死んだ方がマシってくらい、胸が苦しくなっちゃった」
嫉妬、独占欲、裏切り。黒い感情を抱え込み、孤独な葛藤を経た末に、しかし彼女は、自らの気持ちを隠し通して今まで通りの「幼馴染」を演じることを選択した。少年と築き上げてきた関係を自分の感情ひとつで拗らせてしまうことが、恐ろしくてたまらなかったという。
けれどもある日、彼女が、少年に恋焦がれていた1人の女子生徒に呼び出されたことで、事態は一変する。
「まずはストレートに、『徹君と付き合ってるの』って聞かれたから、幼馴染で腐れ縁なだけだよって否定した。そこまでは良かった。だけど、『それなら、私が徹君と付き合ってもいいよね』って言われた時、……喉の奥から、今まで見て見ぬ振りしてた色んな感情が這い上がってきて、へばりついて、それで、何も、声にできなくて……、結局ね、私、首を横に振っちゃったの」
ポタリと、一滴の雫が落ちたのを皮切りに、唇を噛み締めて、声を押し殺しながら、目の前の少女は涙を流す。
「そしたら、あの子、ちょっと暴走しちゃって、私に掴み掛かろうとしてきた。1回目は何とか避けられたけど、その後、焦ってたから足がもつれて転んじゃって。影が差して、あぁ、殴られるなって思った瞬間、彼が、徹が駆けつけてきて、『何やってんだ』って力づくであの子を止めてくれた。傍目から見れば、まさしくヒーローだったと思う。……でもね、騒動が一段落した後に、泣き崩れた彼に抱きしめられて、耳元で言われたんだ」
『翠だけは絶対、あんな風に、おかしくなったりしないで』
死刑宣告だったと、ヒロインは声を震わせた。
「『あんな風』っていうのは、暴走したことじゃなくて、彼に想いを寄せること自体を指してた。これ以上ないぐらいに取り乱して、全身で怖がってたんだよ?私も、あの子と同じものを抱いてたのに。いっそあのまま殴られてた方が、何倍も良かった。そうすれば、私が彼にとっての化け物だって、知らずに済んだかもしれない」
それ以来、彼女は、少年の隣で「無害な幼馴染」を演じることに耐えられなくなった。
言葉を切ったヒロインは、取り出したハンカチを目元にそっと当て、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。静寂が場に満ちる。グラスに入れられた氷が、カラン、と音を立てた。
しばらくして、一度、大きく息を吸い込んでから、彼女は顔を上げた。暗く沈んでいた瞳には、幾許か光が戻っていた。
「だからって、絶望してバッドエンドってわけじゃないよ。むしろ、考えようによってはいい機会だったのかも」
曰く、少年と距離を置いたヒロインは依存先を「自分自身」へと変え、自分の外見と内面を磨くことに注力した結果、それに伴って人間関係も豊かになり、視野が広くなったのだという。
「そりゃ、めちゃくちゃ病んだし、一生立ち直れないかもって塞ぎ込んだ時期もあったけどさ、」
ぐーっと背伸びをして、一気に全身の力を抜いた彼女は、テーブルの上に腕を伸ばし、複雑そうに笑う。
「中2の終わりに、あいつが同じ学校の卒業生と付き合い始めたって聞いた時、全部どうでもよくなっちゃった!もうあいつが何考えてんのか分かんない、知りたくもないやーって、吹っ切れた感じ?」
はあ、とわざとらしく、オーバーにため息をついてから、ヒロインは呼び鈴に手を伸ばして店員を呼び、チョコレートパフェをひとつ追加注文した。店員が去った後、久々に口を開いて、「その卒業生って、もしかして公園にいたショートヘアの子?」と聞けば、かぶりを振られた。
「全然違う。見たことない顔だったし、あいつの高校の同級生とかじゃないかな。……相変わらず訳わかんない」
そう言って窓に視線を流し、眉根を寄せて暫し思案する表情を見せたかと思えば、唐突に「そういえば!」と彼女は手を叩いた。
「わざわざこんな所まで来てもらっといて、面倒なゴタゴタに巻き込んじゃってごめん。本当はあの公園でゆったりしながら、サクッと本題について話す予定だったんだけど、最悪なタイミングであいつが通りかかってダル絡みされちゃってさぁ」
「そっか。……あそこって、水谷さん家の近所だったりするの?」
「そうそう、めっちゃ近いよ!小さい時はよくあの公園で時間潰してたの。懐かしいな……まぁその分、あいつの家も近いから、一応こうやって変装してたつもりだったんだけど、」
意味なかったよねー、と残念そうに言いながら、ヒロインは隣に置いていた帽子を、ぽす、と自分の頭に被せた。もしかしたら、珍しく髪を括っているのもその変装の一環だったのかもしれない。
「あっ!でさ、その本題!」
「あ、うん」
「話戻るけど、私が潤君に自分を重ねてちょっかい出してたってやつで、あれってつまり、まぁ、正確には潤君を私に、三輪君を徹に見立ててたんだよね」
「……え」
ここで急に三輪の名前が出てきたのも、彼が例の少年と重ねられていたのも想定外で、思わず声が出た。そんな俺を見て苦笑したヒロインは、「あくまで過去形だよ」と捕捉を入れる。
「……徹と一緒にいた時の私は、本当に、彼と彼の周辺しか見えてなかった。だけどあっちは、なんていうか、色々と見えてたっていうか、立ち振る舞いがすごく上手で、まぁだからこそ、大勢の女子達から慕われてたんだろうけど。……でも私は違った。ただの凡人で、ありふれた人間で、彼にとっての特別だって自負してたけど、それだって脆かった。いずれにせよ、いつかは彼の隣には居られなくなる運命だったのかもしれないって、今は思う」
一呼吸を間に挟んで、「路地裏で君達を見かけた時、」と言葉が続く。
「瞬間的に、当時のことがフラッシュバックしたの。それで、この人、潤君も、私みたいにいつか、相手に裏切られて、縛られて、挙句、選ばれずに終わるんじゃないかって、想像した。もうそんな結末、2度と見たくなかった。だから、まずは少しでも君の視野を広げたくて、……違う、本当は、過去の私を徹から奪いたくて、君の意識を私に向けさせようとしたの。憎悪とかでも良かったけど、流石に受け止める勇気がなかった。で、それならとりあえず、学校での私、つまり、高嶺の花の水谷翠っていうキャラクターを好きになってもらおうって考えた」
我ながらめちゃくちゃだったなって思うよ、と笑って、彼女は自分のドリンクに手を伸ばし、一気に飲み干した。それから、鞄の中からスマホを取り出したかと思うと、「ちょっと待ってね」と断ってから何やらスイスイと操作をし始めた。
「そんなこんなで散々妄想して突っ走っちゃった訳だけど、結局は私の思い込みに過ぎなかった、っていう顛末を潤君に伝えるのが、今日の本来の目的だったんだよ。邪魔が入ったし、寄り道もたくさんしちゃったけどさ」
これ見て、と言われてテーブルの上に差し出されたスマホには、彼女と誰かとのトークルームが映っていて、左上には「三輪結翔」という文字。彼女が送った、俺と出かけることを茶化して報告しているメッセージの下にある、指し示された一文に、緊張しながら目を通す。
〈俺って水谷さんより人気者だよ〉
「……何これ、自慢?」
「俺はお前よりも動かせる駒が多いからいざとなればお前を潰すことなんて造作もないぞ、っていう脅し」
「うわ……」
「ドン引きだよねー、潤君とデートするねって教えてあげただけなのにさぁ。協定のよしみとして今までもちょくちょくメッセージ送ってたのに、ぜーんぶ既読スルーで、今回は珍しく返信来たなって思ったらこれだよ。完全に敵認定されてんの」
なんか、思っていた以上にえげつない。
唖然としていると、ヒロインの注文したパフェが届けられ、スマホを掬い取った彼女は嬉々として写真を撮り始めた。何枚か撮り終わったのち、よく撮れているものを選別しているのであろう彼女は、目線を落としながら「ということでー、」と気の抜けた調子で言葉を紡いだ。
「まぁ、ぶっちゃけさ、私もあいつに選ばれてたら何だかんだ今もベッタリだっただろうし、そういう幸せのかたちもあるって、一応知ってるから、」
ふとスマホから目を離したヒロインが、目線を絡めてくる。浮かべられた笑顔は、彼女にしては少し、ぎこちなかった。
「潤君が苦しくないなら、私はそれでいいよ」
「……うん」
よし、と場の空気を切り替えるように、殊更明るい声で呟いたヒロインは、パフェの頂をスプーンで大胆に削った。そのまま口に運ぶのかと思ったが、しかし彼女はピタリと動きを止めた。じっと見据えてくる瞳。
「あのね、それでももし、潤君が不安定な橋の上でしんどくなったら、私を頼ってね。私、君に告白されたら絶対に付き合うから」
その発言に何か反応を示すより先に、スプーンに乗ったアイスが口元に突きつけられ、俺は仕方なしに、パクリとそれを受け入れた。