エミリーにバラを/あるいはなにか適切な助言を
これは、いまから四年ほど前の、梅雨から夏にかけてのお話である。
その頃わたしは、これとはまた別の名で長めの恋愛小説を書いていたのだが、ある夜、高校時代からの友人である一香から、公園通りの居酒屋に来るよう言われた。
時間は、十時になり掛けるか掛けないころで、すこしおっくうではあったものの、主人公たちの会話が途切れたことと、「鷹子は来てくれるって言ったよ」との一香の言葉に服をかえ靴を選ぶと、一階の居間にいる弟に声をかけてから、よるの街へと出掛けた。
*
鷹子との出会いは、学園通り奥の古ぼけた映画館で、ノーラ・エフロン監督のリバイバルを見ていたときのことだった。
わたしは、いちばん奥の、まん中からすこしはずれた席に座っていて、鷹子は、そこから空席2つをはさんだ右側の席に、開始直前にすべり込んで来ていた。
息をはずませ、しかし、席にすわるやいなや物語の世界にはいり込んでいった彼女のよこがおを見て、わたしはおかしくてたまらなかった。
しかもそれから、わたし達ふたりは、映画のまったく同じ場所で同じようにわらっては、映画のまったく同じ場所で同じようなため息を吐き、映画のまったく同じ場所で涙をながしていたものだから、物語が進むにつれ、わたしの笑いはおおきくなり、それにつられた彼女の笑いもおおきくつよいものになっていた。
そうして結局、たまりかねたわたし達は、ヒロインが自身の秘密を主人公に告げるといういちばんの感動シーンで、ふたり同時に大笑いをしてしまい、そのおかげもあってか、その日のうちに、わたし達は友人になっていた。
彼女はとてもキレイなひとで、その頃、すでにわたしも、自身の指向を理解してはいたので、彼女にそれを告げたこともあった。
が、しかしそれは、「気持ちはうれしいのよ、カシさん」と言う彼女の、うれしいようなはにかんだような、みごとな笑顔にふられてしまうことにもなった。
もちろん。
だからと言って、彼女とはいまでも仲のよい友人同士ではあるのだが、彼女には、その頃からすでに、こころに決めたひとがいて、そのときつかんだ彼女のコート、その黄色いサマーコートの跡は、いまでもわたしの、右の手のひらに残されているのである。
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居酒屋に着くと、一香は半分できあがっていた。
飲みなれない焼酎だかなんだか、度数の高いお酒に手を出してしまったようすで、上品な白いはだが首まで赤くなっている。
「おそいよ、ヤス」と、空のグラスにその焼酎だかなんだかを注ぎ、わたしに向けながら彼女は言ったが、こちらは由緒正しき下戸の一族である。渡されたグラスをテーブルのはしに寄せると店員に炭酸水を注文した。
「鷹子は?」わたしは訊き、「すぐに来るわよ」と、壁の品書きを見るともなしに眺めながら一香は答えていたが、とつぜん、まるでその品書きを読み上げるかのような声で、今回のわけを語り始めた。
彼女は、背のたかい、すらりとしたひとで、その見た目もあってか、高校時代は後輩連中の好意をよく受けていたのだが、この三年ほどまえ、偶然知り合った男性と恋に落ち、いまは公園向こうのマンションで暮らしている。
夫婦仲はよく、彼らが手をつなぎ商店街を歩くすがたも、なんどか見かけたことはあった。
彼女は、最初聞いたときにはにわかには信じられなかったのだが、父親が厳しいひとだったこともあったのだろう、彼といっしょになるまで、と言うことは三十を過ぎるまでという意味だが、男性というものを知らなかったらしい。
「それが、もう二年よ」と、一香が声をひそめたところで、ガラ。と店の戸がひらき、鷹子がはいって来た。
*
「二年はつらいわね」と、わたしがよけた焼酎だかなんだかのグラスを飲み干しながら鷹子は言うと、手酌で二杯目を注ごうとしたので、ボトルをうばい水割りにしてやった。
彼女は彼女で、由緒正しきうわばみの一族なのである。
「さいしょは、その、わたしも……その…………アレ? だったし」と、一香のはなしは続いていた。「なんか、こんなものなのかな…………と?」
くり返しになるが、彼女たち夫婦のなかは良好であり、離婚や別居のうわさの絶えない旧友たちのなかにあってその存在は大変稀有なものであった。が、しかし――、
「もう少し……、その……、もとめられる? ものだとばかり――」と、一香。
それでも最初は、彼女がもとめれば、二週にいちどは応じてくれていたそうなのだが、それがひと月にいちどとなり、ふた月にいちど、み月、よ月と伸び、ついに今夜、なみだながらの話し合いのすえ、彼がほんとうのところを語ってくれた――と言うことであった。
「それは、」と、一香のことばになにか応えようとしてわたしは、ひょっとしてこれが今夜よばれた理由なのかも知れない、と彼女をうたがってしまったのだが――いやいや、一香は知らないはずである。
すると、ここで突然、わたしの右側にすわっていた鷹子が、わたしの頭をなで、首のまわりの髪の毛をにぎりはじめ――彼女はときおり、他人の髪の毛でたわむれることがよくあったのだが――そのきれいなひとみで一香に、
「ところでイッちゃんさ、(*検閲ガ入リマシタ)のカッコとかは試してみた?」と、あまりのことについつい検閲を入れてしまうようなことを言いだした。
「ちょ、ちょっと、鷹子?」と、周囲の客や読者のことを考えながらのわたし。
なんとか彼女を止めようとしたのだが、そんな気づかいはどこへやら、なおも彼女は、
「あんた、すらっとしてて男の子みたいに見えることもよくあるしさ、そーゆーカッコして (*検閲ガ入リマシタ)とか (*検閲ガ入リマシタ)とかしてやったら――ことば遣いも男の子っぽくしてさ――ふつうによろこぶと想うんだよね、そんな旦那さんでも――ってかあんた、(*検閲ガ入リマシタ)ってなんのことだかわかる?」
と、こちらの検閲が間に合わないほどのいきおいで続ける。
となりのカップルの耳をそばだてる音が聞こえ、バイトの女の子は顔をまっ赤にしたまま、壁のメニューに全集中の構えである。
あかかった一香の顔もさらに赤味を帯び、これ以上公序良俗に反する言動がつづくようであれば、この居酒屋はおろか『小説家になろう』からも出て行かなければならないかも知れない。
「お会計お願いします!」わたしは叫ぶと、
「え? でも私、さっき泡盛をボトルで」と言う鷹子と、いまでは手足のさきまで赤くなった一香の手をとり、駅前のカラオケ館まで、彼女たちを移動させた。
*
それからしばらくして、八月の終わりか初めだったと想うが、わたしはたいへん美しいものを見た。
朝、石神井池の喫茶店でコーヒーを飲んでいると、わたしの向かいにすわっていた鷹子が――彼女はその時、実家の本棚にあったというフォークナーの短編集を読んでいたのだが――不意に顔をあげ、
「あれ、うまくいったっぽいね」そうぽつりとつぶやいた。
ふと振りかえると、まどの向こうの小道を、白いワンピース姿の一香が、日傘をくるくるさせながら、飛ぶように歩いていくのが見えた。
「どれが効いたんだろうね?」鷹子が、また、ぽつりと言った。
(了)