初めて部活をサボった日
寝て起きたらぜんぶ元通り、なんてことにはならなかった。
通知の音で目が覚めた僕は、ほんのり濡れた枕から顔を離した。もう昼過ぎだ。日が入らなくなって、部屋が薄暗くなっている。スマホに目をやると、新着メッセージが来たと画面に表示されていた。僕と同じく水泳部の高橋陽平からだ。一体なんだろう。
『大丈夫か』
心配してくれているようだ。なにか返信しようとして僕は頭を抱える。果たして女になったこの状況を大丈夫と言っていいのだろうか。そもそも女になったことを明かすべきか、それとも隠すべきか。
『大丈夫』
五分ほど悩んだ末、一言だけ送ってトーク画面を閉じた。顧問の先生やマネージャーさんからもメッセージが来ていた。それぞれ確認して一言ずつ返信していく。
ぐぅとお腹がなった。そういえば朝から何も食べていないな。ぶかぶかの服を引きずりながら冷蔵庫の前まで歩き、その扉を開ける。
「……」
冷蔵庫の中身は空っぽだった。わずかな望みに賭けて炊飯器の蓋を開く。当然何もない。昨日の夜に洗った後の綺麗な状態を保っている。
ため息が口から出た。両親の仕送りの米はあるから、本当に何もないわけじゃない。けれど今から炊いても、この炊飯器だは一時間ぐらいかかる。早炊き機能なんて便利なものはない。そんなに長く空腹に耐え続けるなんて、とても考えられなかった。
結局僕はコンビニに行くことにした。この家から徒歩二分のコンビニ。高校の最寄りでもあるから、食べ物と文房具の品揃えが豊富だ。手軽に食べられるものもなにかあるだろう。
さっそく行動に移した。まずは着替え。と言っても今の僕が着られるようなものがあっただろうか。備え付けのクローゼットの中を眺めていると、高校指定のジャージが目についた。
ズボンの腰ひもをキツく縛って、裾も二回まくり上げた。ジャージを羽織って、右のポケットにスマホ、左のに財布を入れる。不格好ながらも、とりあえず出発の準備が整った。
重たい玄関のドアを開けると、四月上旬のまだ肌寒い空気が流れこんできた。きちんと鍵を閉めて、いざコンビニに行こうと意を決する。僕はコンビニに向けて足を踏み出した。
視点が低くなったからか、町並がやけに新鮮に見える。道沿いの建物全部が大きくて、まるで覗かれているような気分になる。歩いている人がいないのは幸運だった。
体が縮んだからだろうか。僕がコンビニについたのは家を出てから五分後のことだった。息も切れてしまっている。すごく短い距離のはずなのに。
「いらっしゃいませー」
店員さんの声を無視して、店の奥の方に行く。棚から漏れた冷気が足にかかる。しっかりした包装のおにぎりが歯抜けに置かれている。ところどころ空いたスペースがどことなく寂しく思えた。
結局、僕はおにぎりをいくつかとペットボトルのお茶だけ買って店を出た。
そしてそのまま入口から横に出て、ゴミ箱の前で鮭の包装を開けた。開ける時に海苔が少し散ってしまったが、気にせず続ける。プラスチックをゴミ箱に捨てて、両手で持っておにぎりを頬張った。いつもより塩味が効いている気がした。
ちょうど僕が一つ目を食べ終わる頃、学校の方から男子高校生の集団が向かってきた。運動部だろうか。
「うげっ」
よく見ると、それは水泳部の面々だった。今は会いたくなかったのに。顔を背けて、お茶を飲みながら信じてもいない神様に祈った。バレませんようにって。
そんな僕の内心はつゆしらず。一行はそのままコンビニに入っていった。これ幸いと思った僕は、ペットボトルのふたを閉めて早足で逃げ出した。
☆☆☆
そこからどう帰ったかが記憶にない。
気づいたら自室の布団に仰向けで寝転んでいた。なんだか右膝がヒリヒリと痛む。確認したら擦り傷だった。どこかで転んだんだろうか。
右ポケットのスマホが振動した。メッセージの着信を知らせるものだ。画面を見ると、陽平からだった。
『そうか
無理するなよ』
それだけだった。彼らしいや。
ある考えが僕の頭をよぎった。女になったと陽平に伝えること。けれど僕にはそうする勇気はなかった。泳げなくなりました、なんて一時のことでも認めたくなかった。