差し出されたその手を取ったなら(※)
「あなたの手を離さない」のif話です。
♠…元婚約者視点、◆…妻視点、♣…夫視点、★…元婚約者親友視点
(名前は出していませんが、全員「あなたの手を離さない」に名前が出てきた人物です)
※流血している描写があります。苦手な方はブラウザバック推奨です。
※“こういう結末もあるかもしれない”のパラレルワールドです。
♠♠♠♠
私はあの時本当に馬鹿だった。
もし戻れるなら、当時の自分をぶん殴ってでも愚行を止めたい。
私には婚約者がいた。
親が決めた婚約者で、穏やかな彼女。
ふわふわした雰囲気に目が離せない。
激情は無いが和やかに穏やかに。
きっと愛していたのだと思う。
だが愚かな私はそれに気付かず、擦り寄って来た別の女性に懸想してしまった。
そして、婚約者を手放した。
浮気相手とは一時期の感情で、長くは続かなかった。
会わない日が続き、自然消滅してしまった。
全てを失ったと気付いた時にはもう遅かった。
元婚約者の隣には、私ではない別の男性が寄り添っていた。
彼女は私を好いてくれていたはずだ。
また元通りになれるはず。
そう思っていたのに───
「どうか、どうか私ともう一度婚約をして下さい」
情けない事に、差し出す手は震えていた。
だが──
「……申し訳ございません。私はもう別の方と婚約しています」
その手は宙に浮かんだまま、取られる事は無かった。
どうやって帰ったか覚えていない。
自室のベッドに腰掛け、両手で顔を覆う。
思い出されるのは彼女との思い出だけだった。
花畑で冠を作って私に被せた事。
初めてのダンスで足を踏まれた事。
お菓子を頬張って、屑が口元について恥ずかしがっていた事。
いつも笑顔だった事。
指の隙間から溢れたものがぽたぽたと床にシミを作る。
失ってから気付く、彼女の温もり。
『もう別の方と婚約しています』
自分が欲する者をあっさり奪っていった者への僻み、妬み、渇望。
時間が巻き戻るなら喜んで命を差し出せるほど狂おしい。
もしもそれが叶うならば。
あの時の己の愚行を。
全力で殴ってでも止めに行く。
「ゔぅゔ……ぅあ………っふ………ぐ……」
掻き毟る程の熱情。
行き場の無い想いが己を蝕む。
次から次へと、ぽたぽたぽたぽた、床に溢れては拡がる。
彼女が手に入るなら、悪魔に魂を売っても良かった。
全てを失ってでも、彼女が側にいてくれるなら。
それだけで満たされたのに。
彼女が居ない。それだけで。
全てが色を失くし辺りは砂漠と化した。
だが、自業自得なのだ。
自分のした結果が今のザマだ。
それから私は感情を殺した。
何も見ず、全てが無気力。
暫くして。
彼女が結婚したのを聞いた。
一縷の望みも無くなった。
私は全てを放棄した。
跡取りなんて関係無かった。
彼女を未練たらしく想いながら、激戦の戦場へと赴いた。
◆◆◆◆
どうすれば良かったとか、あの時ああしていればとか。
それは人生が終わった後にも答えは見つからないものなのかもしれない。
私はあの時、震えるその手を取れなかった。
また裏切られるのが怖かった。
暫く差し出された手は空に浮いたままだった。
臆病な私は、絶望の表情を浮かべた貴方から目を逸らした。
そして、他の男性を見た。
傷付いた私を癒やしてくれたその人は、優しく笑って
義務を果たしたら他に行った。
『愛している。君を絶対に裏切らないと誓う』
信じていたのに。
平気で忘れて、家に帰って来なくなった。
『ああ、言ってなかったっけ。彼女は愛人だよ。君には無い魅力があるからね』
『君を愛しているのに変わりは無いよ。けれど、それとこれとはまた違うものなんだ。
一種のステータスと思ってくれ』
『ああ、けど、君は貞淑でいてくれ。妻に愛人がいると知れたら私の名誉に傷が付きかねない』
何て言ってるのか分からなかったわ。
だから、一瞬で醒めてしまった。
あの時、貴方を選んでいればこんな事にはならなかったのかしら。
いいえ、きっと臆病な私は貴方を選べない。
そして、またこの結婚を選んでしまう。
格上の公爵家。断れるはずも無い。
互いに愛し愛される婚姻を密かに願っていた私の想いは、数年にして砕けてしまった。
心の置き場所を誰かに求めたくて。
貴方に会いに行ってしまったけれど。
まさか。
戦死していたなんて。
執事の方から頂いた手紙を開封すると
『さよなら』
たった一言。
何度も何度も、書いては捨てを繰り返していたけれど、最後はその一言だけと、執事の方から聞いた。
あの時、あなたの手を取れば、未来は変わっていたのかしら。
『さよなら』に込めた貴方の想いを受け取って、私は止めどなく涙を溢れさせた。
そして私は夫と離縁した。
『愛してやったのに何が不満なんだ!?』
彼は怒っていたから、私は告げた。
『ごめんなさい。本当に愛している人が誰なのか気付いてしまいました。結ばれる事の無い方ですが、今後は修道院でその方の冥福を祈りたいのです。
愛妾の方を迎えて下さい。
勝手を言って申し訳ございませんが、息子をよろしくお願いします……』
『お前……』
不安そうな息子を見て、申し訳無さが襲って来る。
『ごめんなさい。あなたを愛しているわ。勝手なお母様を許さないで……』
悲しげに、涙を堪えた息子を逞しく思う反面、この子を傷付ける事しか選べない自分に嫌気が差す。
背中に回された震える小さな手を愛しく思いながら、名残惜しく手放す。
すると、息子は私の手を取った。
震える小さな両手で、しっかりと握る。
『お母様、僕も連れて行ってください』
ぼろぼろと大粒の涙が、ぽたぽたとこぼれていく。
思わず夫を見ると、苦い顔をして『もういい……』と力無く呟いた。
♣♣♣♣
妻が出て行って10年経った。
当時の愛人と再婚したが浪費癖が酷いわ夫人としての仕事はしないわ散々だった。
『私は愛人のままでいたかったのに!!』
と金切り声で怒鳴られる毎日にはウンザリだ。
我慢できなくなった俺は家を出て蝶のように渡り歩いていた。
どうしてこうなった。
そもそもの原因はなんだ。
浮気して出て行った元妻だ。俺を捨てるから!!
おかげで俺の社交界での評判は最悪だ。
だが10年、忘れた事が無かった。
浮気などせず、大事にしてやったら結果は違ったのだろうか。
元妻にはいつかの夜会で見付けた時には既に婚約者がいた。
だが元妻の婚約者が浮気をして婚約が破棄されたのを聞いた時には歓喜に震えた。
すぐさま公爵家の権力を利用し手に入れた。
だが、元妻の心には俺ではない誰かが棲みついていた。
それでも俺を愛していると言っていた妻。
それは嘘だと信じられなくて、俺は浮気を繰り返した。
最初こそ咎められたが次第に何も言わなくなった。
そして、出て行った。
あの瞳に見つめられると罪悪感が押し寄せてくる。
ずっと、目を逸らしていた結果がこのザマだ。
本当は──君を……
君と……
「公爵さま」
腹に痛みが走る。
服が赤く濡れていく。
「な……ん……」
薄れゆく意識の中、力を振り絞って振り返ると、最近愛人にした女性が微笑っていた。
「いつまでも別れてくれないからこうするしか無かったの」
なんの、事だ──……
「私は遊びでしたの?ずっと待ってたのに。あなただけを、愛していたのよ。信じていたわ」
彼女は微笑んで、『貴方を手に入れるにはこうするしか無いじゃない』と言う。
“どうしてこうなったんだ……”と思いながら、俺は意識を手放した。
★★★★
ようやく見付けた。
亡くなった親友の元婚約者。
妹の友人。
公爵家に嫁いで、嫡男を得た数年後に離縁して、その後消息不明だった。
この度公爵が亡くなり、嫡男に相続権があるからと王に頼まれ彼女達の行方を探していた。
王国の外れ、国境に近い修道院でシスターをする姿を見て、以前と変わらぬ姿に蓋をした筈の気持ちが溢れだす。
彼女の隣にいるのは息子だろうか?
彼女にそっくりだ。父親に似なくて良かったな。
俺は修道院長に話をつけ、彼女と息子と面会した。
公爵が亡くなった経緯を話すと、息子は「やはりな」と言う顔をする。
彼女は顔色悪くなった。
話し合いの結果、息子は公爵位を継ぐ事になったが彼女は残ると言った。
「母上は私が見ますから」と言ったが、彼女は頑なに離れたがらなかった。
「あの人が眠っているから……」と。
だから。
「じゃあ、俺が君のお母さんの面倒見るよ」
つい、言ってしまった。
二人とも怪訝な顔をして断ったけど、俺も引き下がれなかった。
10年以上閉じ込めて溢れ出した気持ちはもう止まらない。
「ずっと、好きだったから。君の事が、ずっと」
幸せに、するから。
親友、ごめん。
「でも……あなた、愛人さんが……」
「現役は退いたから契約は終了している。子ども達も成人している。だから、今の俺は独り身。誰もいない」
「……ごめんなさい、やっぱり」
「あいつを愛していていい。結婚とかもしなくていい。
君の側にいる権利をくれ」
半ば懇願に近い形で手を差し出し、頭を下げた。
情けないが手は震えっぱなしだ。
「母上。貴女をここに一人置いては行けない。護衛みたいなもんだと思えばいいんじゃないかな。本気みたいだし、あの男みたいなクズじゃない気もするよ」
息子のナイスアシストに感謝する。
それから暫く彼女は逡巡して。
「私は、元婚約者の人……あなたの親友を愛しています。それでも良ければ……」
柔らかな、彼女の手が重ねられる。
弾かれたように顔を上げると、申し訳無さそうに彼女は微笑んだ。
「ありがとう……、───」
それから俺は修道院近くに家を借りた。
彼女は還俗して、二人で慎ましやかに暮らし始めた。
俺は現役を引退したとは言え生活の為に仕事をしていたが、家に帰った時「おかえりなさい」と迎えてくれる事が嬉しかった。
彼女が側にいる事が夢のように幸せだった。
親友の思い出を語る、彼女の優しい瞳が好きだった。
そして月日は流れて、
今、彼女はベッドに横たわっている。
年を重ねても、病気で痩せてしまっても相変わらずきれいで。
その時は迫っているのに、表情は穏やかだった。
「あの子たちは……」
「今こちらに駆けつけてるよ」
「まぁ……お仕事大丈夫なのかしら……」
「君の方が大事だろう。こんな時に仕事なんかしてらんないでしょ」
今にも消えそうな命の灯火を、その手を握り繋ぎ止める。
「あなた……今までありがとう。私、あなたに愛されて幸せだったわ」
「うん……」
「今、こんな事言うのは……卑怯かもしれないけれど」
「…………」
「私、あなたを。私を愛してくれた、あなたを、愛していたわ」
「…………うん……」
「私は……あなたを、待ってる……。急がなくていいから、ちゃんと、見つけてね……」
「必ず、見つけるよ。君と、あいつを。だから、
二人で、待ってて……」
「ええ、待ってるわ……あなた…………」
涙をこぼして、君はゆっくりと目を閉じた。
ふわりと風が舞い、部屋の中を駆け巡る。
親友が彼女に手を差し出すと、彼女はその手を取った。
『ありがとう、───』
再びふわりと風が舞う。
彼女を亡くした事は悲しいが気持ちは穏やかだった。
いつか、俺がそちらにいくときまで。
「待っててな、二人とも」