好きだと気付いたら知らなかった頃には戻れない
✦…ヒロイン視点
♠…ヒーロー視点
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それはある日突然自覚した。
『あぁ、この人が好きだ』と。
だけど、私には婚約者がいる。
『好き』な人ではない。
いわゆる政略的なもので結ばれた婚約。
だけど、この想いだけは自由でいたい。
結婚したら夫だけを見るから。
今だけは───
♠♠♠♠
将来妻になる予定の人は、俺ではなく違う人を見ている。
彼女は政略結婚だと思っているが、そうではない。
彼女の事がどうしても欲しかったから打診したものだ。
俺は紳士の仮面を被りながら彼女を見ている。
俺ではない男を切ない眼差しで見る彼女を。
彼女の想いは遂げられない。
俺と結婚するからだ!
なあ、今だけは他の男を想うことを見て見ぬふりをするよ。
だけど───
結婚したら俺だけを見てくれないかな……?
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婚約者を見るふりをして彼を見る。
『好き』を自覚してからは無意識に目で追ってしまう。
……今まではどうだったかしら?
仮にも婚約者がいるのに。
ふと婚約者を見てみると、柔らかな笑みを浮かべていた。
つられてにこりと返すと、目を見開いた。
すぐに視線を逸らし、また『彼』に目線を戻した。
──やだわ。どうしても無意識に見てしまう。
結婚して、断ち切れるのかしら。
再び婚約者に目をやると、悲しそうな顔をして俯いた。
……もしかして、私といるのが辛いのかしら?
♠♠♠♠
彼女と視線が合って、にこりと微笑まれた。
途端に心臓が跳ねる。
今日は涼しいはずなのに汗も滲んでくる。
もしかして、少しでも俺を意識し…て…………
くれてるわけないか。
目があったのは一瞬で、その目線はまた別の所へ行った。
期待するな。
……期待、するな。
これ以上好きになったらだめだ。
──想いを向けてもらえない事が辛かった。
『好き』だと気付かなければ良かった──。
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婚約者から、体調不良を理由に夜会のエスコートをキャンセルする旨の連絡が来た。
代わりを頼んだらしく、その名を見てみると『好きな人』の名前だった。
彼と婚約者は友人で、気さくで優しい人だからと綴っていた。
私は体調を気遣う返事をし、そわそわしながら夜会に出かけた。
『好きな人』は気さくで優しかった。
エスコートはさり気なく。
ダンスも上手い。
ひとときの逢瀬は熱に浮かされふわふわとして、とても幸せだった。
だけど。
私は上の空だった。
婚約者が体調不良で欠席しているのに、私一人で浮かれていいのかしら。
御見舞行ったほうがいいのかしら、と。
どれくらいの時間までならご迷惑でないかしらとチラチラと時計を気にしていた。
だけど『好きな人』は今私の隣にいない。
退室するなら一言パートナーに言わなくてはならないが、『好きな人』は友人を見かけて離れたまま戻ってきていなかった。
なんとか探してホッとすると、声が聞こえた。
「あいつがどうしても、って言うから来たけど、人の婚約者だから手も出せねえよなぁ」
「さすが夜会キラー。そのへんの女見繕えばいいじゃん」
「一応パートナーいるからなぁ。早く帰らねぇかな」
「ひどいなお前」
笑いながら『好きな人』と友人は行ってしまった。
私は震える足を引きずって、駆け出した。
途中見かけた見回りの方に「体調が優れないから帰るとパートナーに伝えて欲しい」と言うと、よほど顔色が悪かったのか「承知しました」と馬車まで送ってくれた。
なんだか無性に婚約者に会いたくなった。
♠♠♠♠
今頃彼女は『好きな人』と夜会を楽しんでいるだろう。
彼女はアイツが好きだからと、夜会のエスコートを代わって貰った。
せめて婚姻前に一度だけでも、とは思ったが俺は既に後悔していた。
アイツは見目が良いだけに女遊びが激しい。
夜会の度に違う女性を休憩室に誘い込む。
彼女も誘われていたら、と思うと激しく嫉妬心が湧いてきた。
アイツのパターンはダンスを踊った後暫く友人と談笑し、その後女性を探しに行くはずだ。
俺は居ても立ってもいられず、部屋を出た。
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夜会会場から婚約者の家は近く、少しだけ顔を見て帰ろうと馬車を走らせた。
ちょうど門をくぐった所で玄関先にいた婚約者の姿を見つけた。
彼は呆然とこちらを見ていた。
体調は悪くないのかしら?
「……どうして…?夜会は…」
「あなたが体調が悪いと聞いたから、一人楽しめなくて切り上げて来たのだけど…」
戸惑った表情の婚約者を見ると、体調は悪くなさそうに見えた。
「アイツは…一緒じゃないのか?何か嫌な事されたのか?」
婚約者は私に駆け寄って来る。その表情は心配しているようだった。
「大丈夫よ。それよりあなたはどうなの?何故外にいるの?」
ハッとして気まずそうに目を逸らした。
……もしかして、嘘だったのかしら?
「…君が、アイツを…」
どきりとした。
まさか、あの人を好きなの、気付いてた?
心臓が大きな音を立てる。
「……あ……の、…」
何か言わなきゃ。何か、言わなきゃ…。
……何を。
「………好きだよ」
それは聞き逃しそうになるくらいの、小さな声。
ハッとして、上を向くと。
婚約者は悲しそうに笑っていた。
♠♠♠♠
彼女はとても驚いた顔をしている。
でも、もう限界だった。
彼女を好きだと気付いた時から俺の気持ちは後から後から溢れてくる。
彼女が別の男を好きだと気付いてからは、彼女からの想いが欲しくなった。
途端に世界の色が変わった。
好きなのに。
俺だけを見て欲しいのに。
結婚する約束をしていても、不安で仕方なくて。
でも拒否されるのが分かっていて気持ちを伝える勇気も無い。
だけど。
せっかくアイツと夜会に行かせてあげたのに。
アイツを放って来て、俺の所に来るなんて。
自惚れそうになる。
ああ、そんな困った顔をしないで。
君を困らせたいわけじゃないんだ。
でも、君が愛しくて仕方なくて。
もう、気持ちを抑える事ができないんだ。
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暫く見つめ合って。
「…ごめんなさい、私…」
「うん、知ってる。…言わないで。分かってるから。………ごめん」
違うの。
そうじゃなくて。
貴方を傷付けた事を謝らなくちゃ。
そう思って口を動かしても、喉の奥が支えて乾いて声が出ない。
「今は……いいんだ。だけど、結婚したら、俺を見て欲しい。…俺だけを…」
今にも泣きそうな顔をした婚約者にそっと手を伸ばす。
冷たい頬に触れるとビクリとした。
「今からでも…いいかしら?貴方と、向き合いたい」
すると目を見開いてしばし呆然として。
婚約者は優しく笑った。
ああ、貴方はそんな風に笑うのね。
私はちっとも貴方を見てなかった。
「ありがとう。少しずつでも、君と向き合えたら嬉しい」
本当に嬉しそうな顔。
きっと、この人なら好きになれる。
そんな予感がした。