【第3話】生きのびる
私が登校したのは、始業時間よりも二〇分は早い時間だった。昇降口にいる学生の少なさが、緩やかに一日の始まりを告げている。
教室には数人しかいなかった。スマートフォンを見たり、本を読んだり。誰も喋っていない。朝乃ちゃんと美祐奈ちゃんの姿もない。
私は一直線に後ろの席にいる、佳音ちゃんのもとに向かった。
佳音ちゃんは何をするでもなく、机に突っ伏していた。話しかけてほしくないオーラを出して、どのグループにも混ざらずに、日々をやり過ごしているのだ。
いたたまれない思いをはねのけて、私は声をかける。
「滝石さん、だよね? 起きてる?」
私の言葉に、佳音ちゃんは耳を貸さなかった。相変わらず机に突っ伏している。
寝息を立てていないから、起きてはいるのだろう。私と話したくないと思っていても、不思議ではない。
私にできることといったら、言葉を重ねるぐらいしかないのだ。
「昨日は本当にごめん。あれは私の本心じゃなかったの。朝乃ちゃんと美祐奈ちゃんが見ていたから、あんな態度取っちゃっただけで、本当は滝石さんのこと、助けたかったの」
佳音ちゃんは反応しない。自分を石だと思いこんでいるみたいだ。
「家に帰ってからも、滝石さんを助けられなかったことをずっと悔やんでた。なんで手を振り払っちゃったんだろうって。私が滝石さんの立場だったらって考えると、とても辛い思いに駆られた。だから、決めたの」
うんともすんとも言わない佳音ちゃん。教室は少しずつ騒がしくなっていく。
「私、今度もし同じような状況になったら、絶対に滝石さんのことを助ける。絶対に見捨てたりしないって、約束するよ」
「偽善者」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、私はどう反応したらいいか分からなかった。会話が成立した喜びはなく、戸惑いと言い訳が口をついて出る。
「そんなことないよ。私は滝石さんのことを思って……」
「私のことを思ってって何? じゃあ、どうして昨日、助けてくれなかったの?」
教室はさらに騒がしくなってきた。もうすぐ朝乃ちゃんか美祐奈ちゃんが、登校してくるかもしれない。そう思うと、私は焦ってしまう。
「それは……」
「どうせ、木和田さんと遊佐さんが見てたら、同じことするくせに」
「そんなことないよ。だって私は……」
我慢の限界だったのだろう。佳音ちゃんは頭を上げた。顔に腫れているところは一つもない。
だけれど、歪められた目元から、心が傷ついていることは、容易に推測できた。
「だって私は、って何!?」
激昂がこだまする。教室は一瞬静まったけれど、すぐに元の騒がしさが取り戻されてしまう。
「曽根さん、自分ないじゃん! 流されてばっかじゃん! 人に合わせて意見コロコロ変えるような人、私は信用できないよ!」
何も言えなかった。その言葉はあまりに的確に、私の姿を捉えていたから。
「私に謝るのも、何もできなかった自分に対する言い訳でしょ!? 私のためじゃなくて、自分を納得させたいからでしょ!? そんな見せかけの同情なら、私はいらないから!」
「違うよ。私は本当に悪かったって思ってる」
「いいよ、そんな安い謝罪は! いいからどっかいってよ!」
佳音ちゃんは、再び机に突っ伏してしまった。はっきりと拒絶されて、私は彼女の側にいる理由をなくす。長い髪の毛の一本一本が、私を責めたててくるようだ。
怖くなって、私は自分の席に戻った。
何もできずに座っていると、朝乃ちゃんと美祐奈ちゃんが一緒に登校してくる。
美祐奈ちゃんの席で、いつものようにおしゃべりに興じる二人。まるで昨日の出来事なんてなかったかのように、どこまでも気楽だ。
二人のもとに行ったら、私の中の何かが欠けてしまう。だけれど、一人だと周囲の視線に耐えきれない。
私は席を立って二人のもとへと向かっていた。
二人に合わせて笑っても、虚しさばかりが募っていた。
部活を終えて家に帰ると、テーブルの上にビールの空き缶が転がっていた。
私の家でお酒を飲むのは、お母さんしかいない。だけれど、お母さんはお酒が、特別好きではないはずだ。
ソファに近づくと、お母さんはいつものように寝ている。
私は淡々とビールの空き缶を片付けた。呆気ないほど軽いそれは、何かの喪失を訴えかけているようだった。
しばらく朝乃ちゃんや美祐奈ちゃんとラインをした後、夕食を作ろうと、私は椅子から立ち上がった。すると、そのタイミングでお母さんも目を覚ました。
起き上がって、私を見つめる目は虚空を捉えているようで寂しい。「多穂、おかえり」という声にも元気がなかった。
「うん、ただいま」
「空き缶、片付けてくれたんだ。ありがと」
「お母さん、これからご飯作るけど、何か食べたいものある?」
「……。ねぇ、多穂。今ちょっと話せる?」
ただならぬ切り出し方。無視するなんて選択肢は私にはなく、再び椅子を引いて座る。
お母さんも座った。見慣れたはずの部屋着が、少し不気味に映る。
「今日、私久しぶりに会社に行ったの」
たった一言で、私は事の重大さを悟る。だけれど、ポジティブな話を期待して、相槌を打った。
「うん、どうだった?」
「上司の人に呼ばれててね。もう有給は使えないって。これ以上は欠勤になるって言われて」
お母さんの口ぶりは、深刻そのものだ。前向きな話ではないと、私は徐々に覚悟する。
「今までお世話になりました。ありがとうございましたって、会社を辞めてきた」
「そうなんだ」
素っ気ない反応で、現実から心を防御しようとする。
「でも、多穂。心配しなくて大丈夫だから。多穂が高校を卒業できるまでは貯金も持つと思うし、その頃にはお母さんも、少しはよくなってるだろうから」
「本当に大丈夫? 私もバイトとかした方がいいんじゃ……?」
「ううん、心配しなくても大丈夫だから。私が何とかする。子供を育てるのは親の、大人の責任だから」
「でも、お母さん、あまり一人で抱え込むのはよくないって、お医者さんも言ってたじゃん」
「いいの。私が、何とかするから」
言葉は力強かったけれど、伏し目がちなお母さんは、心配するなという方が難しいほど、暗い影をまとっていた。平気な顔を作ろうとしていて、それが余計痛々しい。
「話してたら、お腹空いたね。今日は外にでも食べに行こっか」なんて、無理をしていることがバレバレだ。
「大丈夫だよ。私がご飯作るから」
私が言うと、お母さんは頷いて、またソファに戻っていく。
小さな後ろ姿を、私はひりつくような思いで眺めていた。
私はリビングに立っていた。誰に言われなくても分かる。これは夢だ。
窓を背にして、やっぱり二人の私が立っている。カーテンの隙間から日光が漏れてきて、昼間の設定らしい。テレビの大きさから戸棚の位置まで、私が記憶しているリビングそのもの。
だけれど、再現度の高さには、私はもう驚かない。二人の私に、問い詰めたいことがあった。
「エスエヌティーエーって、SINTAI、身体のことじゃないんだよね。だったら佳音ちゃんに拒絶されることもないもん」
「エスエヌティーエー」
「ねぇ、いい加減教えて。エスエヌティーエーって何? 何を指してるの?」
「エスエヌティーエー」
当然だけれど、二人の私はそれしか言わない。もしかしたら、Iを入れるというアプローチ自体が間違っているのだろうか。だけれど、少し考えてみたところで、代案は思い浮かばない。
私は片方の私に、近づいてみる。
少し動いてみて、人差し指がついてくることを確認したとき、私の頭は閃いてしまう。それは、ずっと目を逸らしてきた本心だった。
「今ここにいるのは私も含めて三人。つまりIは三つ」
呟いた瞬間、リビングが白い光に包まれた。だんだんと漂白されていって、何も見えなくなる。二人の私も白で塗りつぶされていく。
姿が見えなくなる間際に、二人ともがかすかに口元を緩めたのが見えた。
そこで、私は目を覚ました。ほのかに明るい寝室。スマートフォンを見ると、朝の五時だった。
再び眠りにつくこともなく、私は体を起こす。そして、確かめるように口にした。
「そっか。私、死にたいんだ」
ベッドから起き上がって、静かにリビングを目指す。お母さんが内服薬をしまっている場所は分かっている。戸棚の上から二段目だ。
引き出しを開けると、小さく膨らんだプラスチックの袋があった。前の週末にお医者さんに行ったばかりだから、錠剤はさほど減っていない。一ヶ月分がほとんど丸々残されている。
私はそれを容器ごと取り出して、キッチンへと向かった。電気をつけなくてもいいくらいの明るさが、そこにはあった。
料理をする時に冷蔵庫を開けたから、お母さんがまだ缶ビールを残していることは分かっていた。手に持つとそれは痛いぐらいに冷えていて、肌に張りつきそうだった。
私は缶ビールと錠剤を、シンクの横に置いて眺める。
どんな薬も飲みすぎると毒になる。お酒と一緒に飲めばなおさらだ。これらを一度に摂取したならば、私はたちまち死ぬことができるだろう。
どうせ私がいなくても、朝乃ちゃんと美祐奈ちゃんは、楽しく話すのだ。私がいる意味なんてひとかけらもない。
私は缶ビールのプルタブを引いた。間の抜けた音とともに、ビールの辛い香りが漂ってきて、思わず顔をしかめてしまう。
意を決して口を近づけた。鼻が泣きわめいていて、その痛さが私に妄想をもたらす。
もし、薬とお酒を飲んでも、死ぬことが出来なかったら?
頭に重い後遺症が残って、生活に苦労するかもしれない。
いや、もし死ぬことができたとしても、拷問のような頭痛と地獄のような吐き気に苛まれて、苦しみながら死んでいくとしたら?
殺してくれと叫びたくなるほどの激痛は、想像しただけでも、ひどく苦しい。その痛みに黙って耐えられる自信はない。
でも……だけれど……。
気がつけば、私の耳はビールがシンクを叩く音を聞いていた。
これでよかったのだと、自分に言い聞かせる。お母さんには後で謝ればいい。
私の身体は生きることを望んでいた。日常の中で、生きることを求めていた。
いつの間にかキッチンは、昼間と変わらない明るさを持っていた。
「ねぇ、数学の授業マジ怠くない? あんな数式覚えたって、それが社会に出て、何の役に立つんだって感じ」
朝乃ちゃんが、机に手を突きながら言う。セットされたショートヘアには、今日も一分の隙もない。
「分かる。集合とか、連立方程式とか、社会のどのシーンで使うんだって思う」
「でしょ。川上の話もつまんないし、やたら長いし」
「私も、数学の授業はいっつも眠くなる」
「えー、私は数学嫌いじゃないけどな。それより現代文の方がつまんなくない?」
口を挟んできたのは美祐奈ちゃんだ。見上げる目には、今日もしっかりとしたアイラインが引かれている。
「分かる。一〇〇年以上前に書かれた小説を読んでも、だから何? としか思わないよね」
「そうでしょ。都丸ももうおじいちゃんだから、何言ってるか分かんないし、読むとしても、もっと最近の小説読みたい」
「確かに。現代文っていうわりには、ちっとも現代じゃないよね」
「私は現代文嫌いじゃないけどな。今まで残ってきてる名作には、それなりの理由があるわけだし」
「それは、そうだよね。つまんなかったら、もう外されてるだろうし」
「でも、数学の方がまだよくない? 明確な答えがあって」
「確かに、現代文は正解が決まってない、難しさがあるよね」
「ちょっと、多穂」
朝乃ちゃんが私の方を向いた。どきりと心臓が跳ね上がる。
「多穂はどっちの立場なの?」
「そうだよ。数学と現代文、どっちが嫌なの?」
二人が私のことを見ている。視線を一身に浴びて、喉が渇く。がんばって頭を回して、返事を見つけ出す。
「私は、どっちも嫌かな」
「なにそれ」
美祐奈ちゃんがそういったを皮切りに、私たち三人は笑い出した。傍から見れば、仲睦まじい友達三人に見えるだろう。
それでいい。私はこれからも自分の気持ちに、蓋をして生きていく。自分の「死にたい」という本当の気持ちに。
外では木々が盛んに、黄緑色の葉をつけている。
本当の気持ちを自覚した日から、あの奇妙な夢はもう見なくなっていた。
(完)