【第1話】流される
最近、奇妙な夢を見る。ふと目を開くと、私は真っ白な空間に放り出されているのだ。スキー場よりも、スケッチブックよりも白いそれは、世界から取り残された余白みたい。自分の空虚さを突きつけられているようで、言い知れない不安を覚えてしまう。
しかし、この夢の登場人物は私一人ではない。私を見ているのはもう二人の私。それは潜在意識とか無意識下とかスピリチュアルな話ではなく、しっかりとした実体を持って現れている。
二人とも鏡に映したみたいに、私の部屋着を着ているが、右手を差しだせば、ちゃんと同じ右手を差し出してくれる。握手したこともあるけれど、皮膚の柔らかさは確かに人間のものだったし、体温もリアルに感じた。
だから、幽霊でないことは明らかだ。夢に幽霊というのも、おかしな話だけれど。
「ねぇ、あなたは誰?」
「エスエヌティーエー」
「どうしてここにいるの?」
「エスエヌティーエー」
何度聞いてみたところで答えは同じ。二人は壊れたラジオみたいに、同じ言葉しか喋ってくれない。言葉を変えてみても返ってくるのは「エスエヌティーエー」。何のことだかさっぱり分からない。
私はここのところ毎日、このおかしな二人と意味不明な問答を繰り返している。夢だからいつかは覚めるのが唯一の救いだ。
もっと有意義な夢を見られればいいのだが、こればかりはコントロールできない。
すぐ忘れるように努める。それが現時点での、数少ない対処法だった。
「ねぇ、多穂聞いてる? 二組の近藤と伊野、もう付き合ってるって噂だよ」
窓の外では桜の木が、花びらは散ったけれど、青々とした葉をつけている。その生命力に感動していると、木和田朝乃ちゃんが口を尖らせながら、聞いてきた。
話を聞いていなかったことがバレるとまずいので、慌てずに調子のいい声で答える。
「なんかそうみたいだね。いいんじゃない? お似合いで」
「そうそう。あの二人って勉強も運動もできるでしょ。やっぱ釣り合いが取れるようにできてんのかな」
「二人とも目立つし、お互い惹かれるものがあったんじゃないかな。これ以上ないほどのカップルじゃない?」
「えー、本当にそうかな」
今度は遊佐美祐奈ちゃんが口を尖らせた。ぱっちりとした二重まぶたに、不満の色をにじませている。
「私はそうは思わないけどなー。ほら、あの二人って何か裏がありそうじゃん。僕、私しか彼を、彼女を本当の意味で理解してないって陶酔してんだよ、きっと」
「それは確かにあるね。腹黒美人って言葉もあるくらいだし」
「でしょ。だから私は、あの二人は近いうちに別れると思うな。ああいうのって大体、急に冷めるもんだからね」
「分かる。私もあの二人は上手くいかないと思う」
「ちょっと、多穂。どっちの立場なの。それと美祐奈、そう言っといて、別れた後の近藤狙ってたりして……?」
「そんなことないよ。ド平凡な私が、近藤くんと付き合えるわけないじゃん」
「どうだか」
含み笑いをする朝乃ちゃんを、美祐奈ちゃんが、小突いている。授業が始まるまでのわずかな時間が、私たちにとってはかけがえのない時間だ。あと二時間ぐらい休み時間があればいいのに。
「その話はおいといて、ねぇ聞いてよ」
美祐奈ちゃんが話題を変えた。分かりやすく顔を赤らめていたから、私たちも深くは追及しない。
「昨日さ、スキーしてる夢見たの。急な斜面でも。びっくりするぐらい完璧に滑れてた。私スキー場に行ったことなんて、一度もないのにね。起きて思わず笑っちゃった」
「それって美祐奈ちゃんが、スキーしたいんじゃないの? ほら、夢って自分でも気づいてない、深層心理を表すっていうでしょ」
「いや、そうとも限らないかもよ。もしかしたら別の意味が隠されているのかも」
朝乃ちゃんが、意味ありげに呟いている。バッグからスマートフォンを取り出して、何かを調べていたけれど、私たちは特に気にしなかった。朝乃ちゃんはファンタジックなものが好きで、たまに異世界ものの小説も読む。
求めていた情報に辿り着いたようで、朝乃ちゃんが私たちにスマートフォンを覗き込むよう声をかけてくる。
「ほら、このサイトによると『スキーを楽しむ夢は吉兆の証。ハッピーなニュースや楽しい出来事が待っているでしょう』だって! 美祐奈、近々いいことあるんじゃない!?」
「えっ!? マジで!? じゃあ、今コンビニでやってる一番くじで、A賞当たったりすんのかな!?」
「それ、マジであるかもよ」
おだてられて、美祐奈ちゃんは先ほどよりも高揚していた。朝乃ちゃんと盛り上がっているのを、私は微笑ましい気持ちで見つめる。
二人の笑顔が、私を動かすエネルギーだ。
「ねぇ、最近、多穂はどんな夢見てんの。私が占ったげる」
「占うのは朝乃じゃなくてサイトじゃん」という美祐奈ちゃんのツッコミにも、朝乃ちゃんは笑ったままでいた。この和やかな雰囲気なら、相談できそうだ。
「なんか変な夢なんだよね」
「変な夢?」
「真っ白な空間に私はいて、もう二人の私が私を見つめているの」
「こっわ。なんかもうオカルトじゃん」
「うーん、このサイトには自分が出てくる夢っていうのは、載ってないね」
「でも、それだけじゃなくて、私が何を聞いてもその二人は、『エスエヌティーエー』としか言わないの」
「怖い怖い。もうオカルト通り越して、サイコじゃん」
「うーん、やっぱり自分が出てくる夢ってことは、多穂に関係してるんじゃないかな。しかも二人だし」
私たちは考え込む。私は夢のことを思い起こそうとしてみたけれど、ぼやけて上手くできなかった。
少しして美祐奈ちゃんが、何かを思いついたように声を出す。
「その『エスエヌティーエー』って、多穂自身のことを言ってんじゃない? ほら、曽根多穂って、SNTAが入ってんじゃん」
私ははっとした。どうして今まで、気がつかなかったのだろう。
「やっぱり、その夢は多穂自身に関係してるんだよ。ほら、多穂って流されやすいとこあるじゃん」
「そうかなぁ」
「そうだよ。私だって多穂と話していても、なかなか本当の多穂が見えてこないもん。かくれんぼの鬼にでもなったみたい」
「もしかしてさ、もっと自分を持てっていうお告げなんじゃない? 多穂、ひょっとして今の生活に満足してないとか」
朝乃ちゃんの虚を突くような言葉に、私はかぶりを振る。だけれど、急に教室が暑く感じられて、首筋に汗が一滴垂れる。
「そんなことないよ。私は朝乃ちゃんや美祐奈ちゃんと話してるだけで、満足だもん。他には何も望まないよ」
「多穂、欲ないなー」
美祐奈ちゃんが言った瞬間、チャイムが鳴った。先生が入室してくる。学生たちは慌てて、自分の席に戻っていく。私と朝乃ちゃんも例に漏れない。
自分の席に座って、先生が授業を始めても「欲ないなー」という美祐奈ちゃんの言葉が、私の頭の中でグルグル回っていた。
英語の授業は、ひどく退屈だった。
私たちは一応、高校受験をパスしてきている。だけれど、授業の内容は未だに中学のおさらいだ。先生が口を酸っぱくして、不規則な動詞の活用形について説明しているけれど、何度も単語帳を捲った記憶は、まだ頭の中にこびりついて離れていない。
「じゃあ、今日は七日だから狩谷、最初から読んでみろ」
名指されることが分かっていたのだろう。狩谷新太くんは返事をして、すっと立ち上がった。中学校の頃から剣道部だったこともあって、背筋がピンと伸びている。
「アイウォークドインザパークイエスタデイ。ゼンアイファウンドジョン。ジョンイズマイフレンド。ソウ……」
新太くんの発音は、見事なカタカナ英語だ。日本人らしさが全く抜けていない。だけれど、それは友達にからかわれないようにするには最適解だ。
誰もが教科書に目を落としたり、内職をしているなかで、私は新太くんの顔をじっと見上げていた。一人ぐらい新太くんを見る人がいてもいいだろう。
整った姿勢と、平坦な英語の発音のアンバランスさが、私の目を釘づけにする。曽根という苗字に感謝することが、高校に入ってから増えていた。
ページの最後まで読み終えたところで、新太くんは音読から解放される。先生に促されて、
席に座る間際、新太くんと私は目が合った。
なのに、私は思わず目を逸らしてしまう。新太くんの丸っこい猫みたいな黒目が、とても透き通っていたから。吸い込まれそうだったから。
右耳で椅子が引かれた音を聞いて、私はようやく黒板に視線を上げた。先生が赤いチョークで、「ここテストに出るからな」と強調する。高校に入学して初めての中間テストは、二週間後に迫っていた。
バレーボール部の活動を終えて家に帰る頃には、日が沈み始めて、長い影を作っていた。
玄関を開けても、「ただいま」と言ってみても反応はない。毎日のことだからもう慣れっこだ。
案の定リビングに行ってみると、机の上にコップと、錠剤の容器が置かれていた。
その向こうではソファで昼寝をしているお母さんがいる。ここのところお母さんは一日の半分を寝て過ごしているから、何の不思議もない。いつものように私は錠剤の容器をゴミ箱に入れ、コップを洗い始めた。
水道水がシンクを叩く音で、お母さんは目が覚めたらしい。寝ぼけ眼のままで私を見てくる。
「ああ、多穂。おかえり」
「うん、ただいま」
「コップ洗わなくていいよ。私が洗うから」
「いいよ。お母さん、疲れてるでしょ。私がやったげる」
これも毎日のやり取りだ。お母さんの側にいられるのは、私しかいない。そんな使命感が私を動かしていた。
コップを洗い終わって流し台に置く。お母さんは、ソファに寄りかかってあくびをしていた。
「そうそう、私これからスーパー行くけど、なんか食べたいもんとかある?」
「別にないよ。多穂が好きなものなら、私何でも大丈夫だから」
私は戸棚の引き出しを開けて、財布を取り出した。二人で共有している財布だが、ほとんど私しか使っていない。
制服のまま、再び玄関に向かおうとする。だけれど、お母さんが蚊の鳴くような声で呼び止めた。
「ごめんね、多穂。いつも迷惑ばかりかけちゃって」
「そんなことないよ。自分を責めるのはよくないって、お医者さんにも言われたでしょ。お母さんは今は休むべきなんだから。私に任せといて」
気丈に振る舞ったわけではない。私の紛れもない本心だ。お母さんにはなるべく負担をかけたくない。気持ちが伝わったのか、お母さんは「うん。じゃあ、よろしくね」と私を送り出してくれた。
玄関を開けて、寒くなり始めた空気を全身に浴びる。空には雲が出ていて、もうすぐ雨が降り出しそうだったから、私は早足でスーパーマーケットへと急いだ。
気がつくと私は教室に立っていた。入ってきた記憶がないから、すぐにこれが夢だと気がつく。机も椅子もきれいに並べられていて、かえって不気味だ。
私は自分の席ではなく、教室の真ん中にいる。でたらめな時間割表。止まった時計。微動だにしないカーテン。
教壇の左右に立っていたのは、やはり二人の私だった。
「ねぇ、あなたたちは何なの?」
返事は分かっていたけれど、私は聞いた。
すると、一人の私が、ゆっくりと右手を持ち上げて、私を指さした。
「エスエヌティーエー」
初めて見る挙動に、理解が追いつかない。もう一人の私にも、同じように聞いてみる。
「私をどうしたいの?」
「エスエヌティーエー」
もう一人の私は、うってかわって左手で私を指さしながら言った。私に向けられた手は二つ。
朝乃ちゃんと美祐奈ちゃんの言う通りだ。間違いなく、この夢は私自身のことを表している。
だけれど、私の名前をアルファベット表記にしたところで、何の意味があるというのだろう。
意味? もしかして、これは暗号?
「あなたたちは、私に何か伝えようとしているの?」
「エスエヌティーエー」
同時に頷く二人を見て、私は確信する。これは何かのメッセージだ。それも、私にまつわる。
だけれど、その真意はいったい何? 考えてみても、夢の中は頭が鈍っているらしく、何も閃かない。教室を見回してみても、ヒントとなるものはありそうにない。
私は無為な時間を過ごして、やがて目を覚ました。目覚まし時計は、朝の七時を指していた。
「またこの夢か」
この時間だ。二度寝をすれば学校に遅れる。私は起き上がるしかなかった。
階段を下りて、洗面台で髪型を整えながら考える。鏡の中の私は、まだ眠たげな表情だ。
私、自分、曽根多穂。いくら考えても堂々巡りで、真意にはたどり着けない。
髪型を整え終わって、朝食を作ろうとキッチンに向かう間、私は昨日のことを考えた。新太くんの横顔を思い出した瞬間、私は急に閃く。
英語。私は英語でIだ。夢の中、二人の私は、私を指さしていた。
つまり、エスエヌティーエーに、私を表すIを加えると……
「シンタ」
その顔を思い浮かべた瞬間、私は大きくかぶりを振った。そんなわけがない。だけれど、お米を研いでいても、卵をかき混ぜていても、今度は新太くんのことばかり考えてしまう。私の本心と、新太くんに何の関係がある。
朝乃ちゃんや美祐奈ちゃんのことを、考えようとはした。だけれど、新太くんが私の頭を占拠していて、思い浮かべることは難しい。
気がつけば、いつも作っている玉子焼きを、少し焦がしてしまっていた。
(続く)