むかつく顔
鏡はそんなに見る性質じゃない。だから、気が付くと鼻毛が伸びていたり、朝食べたパンのジャムがほっぺについていたり、目が酷く充血しているのに気が付いていなくて心配されたりといった事がよくある。
きっと、自分の顔に、あまり興味がないからだろう。
別に自分の顔なんて気にしなくても生きてはいける。だから、それでいいと僕は思っていた。
ある日のことだ。
何気なく道を歩いていたら、車が僕に向って突っ込んで来た。
命に別状はなかったものの、僕はそれで重傷を負ってしまった。しばらく入院をしていなくちゃならない。
運転手はきっとアクセルとブレーキを踏み間違えてしまったのだろうと僕は思っていたのだけど違った。なんと運転手は「歩いている僕の顔がむかついたから、轢き殺してやろうと思った」とそう証言したらしいのだ。
酷い話じゃないか。
仮に彼の主観で僕の顔が“むかつく”のだとしても、それで殺してやろうなんて思うのはどうかしている。
もちろん、彼は世間から糾弾された。とんでもないクソ野郎だと。しかし、それは僕の顔写真がネットにさらされる前までの話だった。
どこでどうやって僕の写真を手に入れたのかは分からないけど、犯人の運転手の証言に興味を覚えた誰かがそれを手に入れ、ネット上に公開してしまったのだ。すると、なんとこんな意見が飛び交い始めてしまった。
「確かに、こいつの顔はむかつく」
「運転手の気持ちも分かる」
「これはもう公害だな。整形手術で顔を変えるべきじゃないか?」
犯人の運転手への擁護と、僕への攻撃。僕は被害者なのに、いくらなんでもこれはあんまりだ。
そう思った。
僕はその時、まだ入院中だったのだけど、とてもショックを受けたものだから、その事をお医者さんに相談してみた。
もちろん、専門分野が違うのは分かっていたのだけど、一般常識レベルのメンタルケアくらいならしてくれると思ったんだ。
ところが、お医者さんは僕の訴えを聞くと、「まぁ、どうでしょう。私からはなんとも……」
なんて言葉を濁すのだ。
僕は不思議に思って「どうかしたのですか?」と尋ねてみたのだけど、何も応えてくれない。それでもしつこく尋ねていると、お医者さんは不意に、
「うるさい! そのむかつく顔をこっちに向けるな!」
と、そう怒鳴ったのだった。
僕は怒るよりも、驚きのあまり茫然となってしまった。
お医者さんによれば、何故かは分からないけれど、僕の顔を見ているだけでむかついてくるのだそうだ。
そこまで醜い顔はしていないと思うのだけど。
それでそれからは、治療に支障があるという事で、僕は病院にいる間、マスクを被っての生活を強いられた。
「こんな“症例”は、初めてです」
と、お医者さんは言った。
どうも、彼は僕の顔にむかついてしまう自分に非があるのではなく、僕に問題があると言いたいようだった。
症例。
医者から真剣に相手をむかつかせる顔の病気だなんて言われた人間は、恐らく僕くらいだろう。
やがて僕は退院した。気の所為じゃなければ、半ば追い出されるような感じで。ところが会社に出勤すると「もう来なくていい」と言われてしまったのだった。三ヵ月も休んだからだそうだ。
「いえ、でも、それは車に轢かれて入院していたからで」
あんまりだと思って僕はそう抗議したのだけど、その抗議は聞き入られなかった。「察してくれ」と人事の担当者は言った。つまりは、それは表向きの理由で、本当は僕の顔が原因で会社をクビにするという事だろう。
以前は、僕を普通に雇ってくれていたのに、一体、どうしたのだろう?
僕はあまりに理不尽だと、その不当な解雇を世間に向ってネットで訴えた。ところが、僕の顔を知る彼らは「お前の顔が悪い」と声を揃えて言うのだった。
裁判をしようかと思って弁護士にも相談したのだけど、弁護士ですら「あなたの顔では、どうしようもない」とそう言う。裁判官だってあなたの敵になる、と。
どうやら僕の顔は、法律ですらも無効化してしまうらしい。
ちゃんと、マスクをして行ったのだけど。
当然ながら、どんな職場も僕を雇ってくれそうになかった。これでは生活保護を申請するしかないだろうと思って役所に行ったのだけど、そこでも「あなたの顔では無理だ」と言われてしまった。それどころか、「ずうずうしい。殴らないだけ、ありがたく思え」と罵倒された。
家に帰った。
これから、どう生活をしよう?
僕は絶望感に苛まれた。人間がいる場所では、生きられそうにない。無人島を目指す事を本気で考えるしかないのかもしれない。
その時にふと思った。
――そう言えば、僕の顔はどんな顔だったっけ?
何故か僕は自分の顔を忘れていた。こんな目に遭っているのに、何故か確認すらしなかったんだ。これまで、じっくりと、自分の顔を見た事なんかいない。でも、
僕は洗面所の鏡に向かった。
じっくりと自分の顔を見てみる。
すると、途端にむかむかとして来た。見れば見る程にむかついてくる。
ああ、なるほど。これはむかつく。皆の言うのは正しかったんだ。
そう思った僕は、それから台所に行って、そのむかつく顔に思い切り包丁を刺してやった。
そのむかつく顔をぶっ刺せて、僕は心の底から胸がスッとした。
もちろん、そこで僕の意識はなくなったけれど。