逆方向へと向かう電車
――ある普通の男がいた。
男は平凡な家庭で育ち、平凡な会社に入社した。
誰かに迷惑を掛ける訳でもなく、それなりに親孝行もした。結婚だけは縁が無く、両親には最後まで孫の顔を見せる事は出来なかった。
毎日同じ電車に乗り、毎日同じような仕事をこなし、それなりに部下からは慕われ、家に帰ってはネットを見て眠る。漫才を見ては笑い、部下の怠慢には怒り、線路に飛び込んだ人がいたら驚き、映画を見たら泣く。
唯一の宝物は、部下から貰った紺色のビジネスバッグだけ。
そんな、ごく普通の男だった。
ある時、急に自分の変わらない人生が嫌になった。
趣味があれば何か変わるのか?
彼女が出来れば何か変わるのか?
男は切っ掛けを考えたが、退屈な日々で既に心は摩耗しており、新しい事を始める活力は失われていた。
いつもと同じ朝、同じ駅で同じ電車を待つ。
いつもと違うのは、幸せそうに線路に飛び込む人が見えるという事だけ。
――このまま、自分も線路に飛び込んだらどうなるのだろう?
死にたくはない。
だが、退屈の先にあるものが見たい。
右足が宙に浮き、時間がスローになる。
好奇心の引力とは、こうも魅力的なのか。
着地する場所には、見た事のない世界が待っている。
――しかし、その瞬間。
男はネットで見た『逆方向の電車に乗る』という文章を思い出した。
男は踏み止まり、後ろを振り返った。
いつもの電車とは逆方向の電車に乗り継いでいけば、海へと辿り着く。急に目覚めたかのように、脳に意識が灯った。
思い立った男は、会社にも連絡を入れないまま、ホームの反対側に到着した電車へと乗り込んだ。
湘南に向かうその電車は混雑していた。
海に遊びに行く服装の若者、母親の手を繋ぐ子供、一つのイヤホンを2人で聞いている老夫婦。疲れた顔のサラリーマンはおらず、誰もが穏やかだ。男は、そんないつもとは違う日常に興奮していた。
海に近づく程、乗客の数は少なくなった。
空いた席に座って落ち着いた所で、急に仕事の事が頭に浮かんだ。
自分がいなければ回らない、あの重要なプロジェクトはどうなる?
今日の取引先との会議、決済資料は準備できているのか?
電話も切ってあるから、自分は行方不明扱いになっているんじゃないか?
そんな不安を感じながらも、椅子の暖かさと電車の揺れで、男は眠ってしまった。
◆ ◆ ◆
気付けば、男は夕暮れ時の電車の椅子に座っていた。
対面の窓の向こうには、海に沈む湘南の夕日と、自分と同じように座る一人の老人が見えた。
老人は優しい声で男に問いかけた。
「なぜこの電車に乗ったのでしょうか?」
男は口を開いた。
「自分の退屈な人生が嫌になったのです」
生きる為に働き、食べて寝る。自分なんていなくても回る世界。同じ事の繰り返しで刺激もなく、年齢だけが積み重なっていく。
生きる意味などあるものか。
いっそ大災害でも起きないか。
そんな事を答えた。
「あなたがこの電車に乗っても、世界は何も変わりません。あなたの仕事は代わりの誰かが請け負い、あなたの足跡は誰かが少しずつ消していきます」
夕日は半分沈み、逆光で老人の顔が見えなくなる。
いつの間にか電車は停車していた。どこの駅かは分からないが、ホームには黒い人影しか見えない。
「あなたは、あなたを想う誰かの事を考えましたか?」
「想いではありませんが、部下や取引先の事を考えました。ですが、それよりも私の好奇心が勝りました。新しい一歩を踏み出していく人が沢山いて、羨ましかったのです」
気付けば男の手には、駅で買ったビールとチーズがあった。
この老人と話すのは悪くない。
「よかったら、私と共に海を見に行きませんか?」
「えぇ。こんな年寄りでよければ」
老人はにっこりと微笑んだ。
夕日は沈み、電車の中には夜が訪れた。
◆ ◆ ◆
ある普通の女がいた。
仕事は大変で、趣味をする時間も取れない。独身で彼氏はおらず、同居する親は介護が必要だ。今は生きていくために働いている。
そんな、ごく普通の女だった。
その女は今日、駅のホームでたまたま線路に飛び込む男を見た。紺色のビジネスバッグを持った男だ。
このホームは通過する電車が多い。ふとネガティブな気持ちになったら、簡単に命を放り出せる便利な場所。違う世界に繋がっているかのような駅。昔からそう聞いていた。
女は今日、有給を取って海に行くつもりだった。
特に目的があるわけでは無い。だが、海辺に腰を下ろしてぼーっとしたい。女は、忙しい中に生まれるそんな一日が好きだった。
湘南に向かうその電車には、男の血が付いていた。