紅涙を絞る
若い女性の涙を誘うことを「紅涙を絞る」と表現します。
元々は「血の涙」を意味した紅涙が、女性の涙の形容となったのは「万緑叢中紅一点」の句が関わっているのではないかと思います。
戦後の名作ラジオドラマ『君の名は』が紅涙を絞り、この時間帯の女湯はガラ空きになったほどと言われております。
拙筆『風月佳人』でも紅涙を絞ろうと狙っていますが、書いている本人が悲しくない場面では無理がありますね。
尤も、私の目が潤んだ場面と言えば、『ゾンビランドサガ』の第八話と『反逆のルルーシュ』最終話、『永遠のゼロ』ぐらいで、「全米が泣いた」とか大袈裟な煽り文句のついた映画とかでは、心動かされたことがありません。
そのような私が風月佳人の外伝を書き上げ、ラストシーンでウルウルしつつ、派生の話を二つ書きました。
もう二つ目でダメでしたね。
登場人物に感情移入し過ぎて、涙腺のダムが決壊。思わぬ滂沱の涙に執筆を中断して、数度に分けて書きました。
読み返して校正しようにも、涙が止まらず遅々として進みません。書いている本人は状況把握しているので悲しいのですが、読み手にこの悲しみが伝わらなくては意味がありません。
どうにかこうにか形にはなっていますけど、翌朝も読み返して涙が落ちそうになるなど、危険な状態です。
この感情が読者の皆さんにも伝わるよう、心を鬼にして書き上げたいと思います。
最近は喜劇が主流になっている理由を垣間見た気持ちです。
悲劇を描くのは難しいですので、私の描く悲劇には類型を用いています。
生別・死別の類型では、死別はその一点に集約される物語の組み方、或いは死後に発見される日記や手紙などで真意を知るなどの演出が効果的です。
生別は、擦れ違い、または正体を隠しての再会など、読者側にもどかしさを感じさせる演出を多用。
浄瑠璃などでも生き別れの母親と幼い娘が再会する場面が涙を誘い、『瞼の母』のように去り際の主人公が「瞼を閉じれば、母親の姿を偲ぶことができる」という強がりで締め括る演出が心を動かすでしょう。
そういう訳で、『風月佳人』はまだまだ酷い状況を描いて、読者の皆さんを涙の海に沈めようと企んでおりますので、お覚悟下さい。
ドイツ哲学のフリードリヒ・ニーチェは「相応しい時に生き、相応しい時に死ね」と人生を表現しました。
人の尊厳が最も美しく輝くのは死の瞬間と思います。その死を彩るのが、それまでの生き様でしょう。
なお、涙の数だけ強くなるはずが、昨日付けの記事を更新できない状況でした。




