ドームから通路に入ります。
予想以上のキューちゃんの反応にエマは少し戸惑う。
「ウィザードには自分たちの使い魔に名前をつけることはしないの?」
「そのような事は余り聞いたことがありません。もっとも私もウィザーになりたてなので詳しいことは知りませんが。」
「きゅうっきゅいいい~っ。」
キューちゃんが何かを訴えているみたいに声を上げる。
「知っている使い魔はみんな数字で呼ばれていて、名前をもらったのは自分が初めてだそうです。とても名誉に感じているそうです。」
「そうか。良かったねキューちゃん。」
エマにはミーの出す音、言葉らしきものを理解することは出来なかった。しかしその音の感触でなんとなく感情の変化のようなものは感じ取ることが出来た。
「荷物はよろしいですか?良ければ出発いたしますが。」
「いいわ、私はこのバッグひとつしか荷物は無いから。」
エマは着替えの入った大きなバッグ一つを携えていた。
服はいつものワンピースに編み上げのブーツを履き、つばの大きな帽子をかぶっている。
「そうですか、それでは御者台へどうぞ。荷物は後ろの荷台へ。」
エマが荷物を荷台に置き御者台の横に来たが御者台は普通の馬車と同じように高い位置にあった。
馬がいないのに御者台というのもおかしな話だが、この世界ではこの形がもっとも一般的な乗り物であるからエマは特に何の疑問も感じない。
足場を探しているとカパッと壁面が割れてステップになる。
「ありがとう、キューちゃん。」
「ぴいいい~っ。」
キューちゃんが礼を言われて嬉しそうに鳴く。
「お金はどうなさるのですか?私は夜はドームの外で過ごす事になりますので宿は必要有りませんが。」
「十分とは言えないけどお金は用意してあるわ。それに私は薬草の見分けがつくから薬草を見つけたらそれを摘んで売れば少しは足しになるし、お金に困ったら働けばいいんだしね。」
「なかなか頼もしい発言ですね。それでは出発いたしましょう。」
「きゅいきゅいい~っ。」
キューちゃんは一声鳴くとゆっくり走り始めた。
人が歩くより少し早い程度の速度ではあるがこの世界ではそれが人々の生活の速度であった。
それでは最初はどの通路に入って行きましょうか?
「メルダの通路ね。そこからお願いします。」
エマは父の残していった手帳を見ながら言った。
エマの父親によればドームから通じている通路の先には橋がありドームからその端までは馬車で言っても丸一日かかる距離だと言っていた。
メルダ通路はエマ達のいる街からは反対側に当たり、ドームを横断することになる。
「それではエマさんお気を付けて。無事に生まれ故郷が見つかっても私たちのことを忘れないでくださいね。」
「大丈夫ですよ。私の故郷はこの村だもの、また帰ってきて先生のお菓子を食べに行きますよ。」
「楽しみにしていますよ。」
「ぴっ、ぴい~っ」
キューちゃんが掛け声のような音を出す。
ヴァルガ先生はエマ達が去っていくのをずっとギルドの前で見送っていた。
エマは思いもかけずウィザーと一緒の旅をすることになった。
このドームから出たことのないエマであったが、普通ではありえな様な幸運な旅に胸躍る思いであった。
ゴトゴトと舗装されていない道をゆっくりと進む。エマはしばらく離れることになるドームの景色を眺めながら進んだ。
しばらく木々に覆われた丘を進むと小高い場所に出る。そこからはドーム内部が見渡せた。
フェブリナ・ドームでは農業を主なる産業で、生活そのものは完全な自給自足である。
天を覆うドームはよく磨かれており、磨き虫と呼ばれる魔法で動くゴーレムが天井をいつも磨いている。
天井はひどく高く朝方には天井の下に雲が出来て雨が降るのである。
時として天井の最上部は外に出来る雲の上にあることも有る。
ドームの周囲は雨が降り、ドームの真ん中は晴れているという光景も珍しくない。
空には白い色をした月が見える。月の神アイーシャである。
夜になるとその月の周りを小さな月が回っているのが見える。
アイーシャの娘イリーダである。
その月は天の上部に鎮座したまま動くことはない。
周囲の星は月とは関わりなく天を巡って回転しているものの月はそれらの星の動きに逆らうように天に留まったままである。
月は一日で満ち欠けを繰り返すし、真夜中には満月になる。
どのような仕掛けかはわからないが天の一角に誰かが月を固定して球形の月を太陽が照らしているのである。
どの位の高さに月が有り、どの位大きいのかは大人に聞いても答えは帰って来ない。
いや、ウィザーは知っているだろうけれどそれを人々に話すことはしない。
月は太陽に照らされた面が明るく反対側は陰になっている。
月は巨大な球体であり宙に浮いていることは月の満ち欠けを見ていれば子供でも理解できている。
月は年に2回太陽の前を通り太陽を隠す、そしてその夜は月に地球の影が落ちる。
この世界が巨大な球体であることは広く知られた事実である。
ただ、どのような仕掛けがあのような巨大な月を天に留まらせているのかは誰も知らない。
天井の一つ一つは六角形をしておりその角々から柱が地上に降りてきている。
糸のように細く見えるその柱も近づくと大きな家位の太さが有り、その柱の根元には池ができている。
外で降った雨は柱を伝って池に流れ込んでいるそうである。
人々はその水を畑に引いて灌漑に利用している。
池以外にもドームの中央には大きな川が流れており川幅は50メルカ近くは有る。
この川は枯れたことがなくドームでは水に困ったことはない。
低地の平らな部分では川や点在する池から供給される水によって作物がよく育っており、丘陵地帯は木々が植えられており人々が使用する木材を供給している。
遠くにドームの外周が見える。
木々の高さよりも高い不透明な壁により外を見ることは出来ない。
しかしドームの外ではそこに生存する生き物もいるようである。エマの父親がそう言っていた。
ドームの外に大嵐が吹きすさぶ事も有るが、ドーム内では川が増水して低地が一部冠水するくらいで済んでいる。
人々はドームの中で安全に何不自由なく過ごしているのだ。
ドームがいつ、だれによって作られたのかは定かで無い。
ウィザーが作ったとも言われているがウィザーは否定も肯定もしなかった。
ともあれ、人々はドームの中で生まれ、一生をそのドームの中で過ごし、やがてそこで死ぬことを当たり前の事として過ごしてきた。
そう、ここには全てがあり人々は貧しくとも安らかな生活を保証されていると言っても良かった。
しかしエマの父は行商人であり、ドームからドームへと旅を続けている。
その父が言うのに人は人々はドームの中でしか生きることができない。
ドームの外では息が苦しくなって生きては行けないと言っていた。
それ故に世界にはウィザーが存在し、人々が生きていくのを助けているのだとも。
「ねえ、シドラ。」
「はい、なんでしょうエマさん。」
御者台に座るシドラもまた風景を楽しんでいるのかきょろきょろ周りを見ている。
「ドームを作ったのはウィザー達と言われているけど本当なの?」
「私はウィザーになったばかりなのでそういった知識には乏しいのです。」
「でも、そういった話は記録に残っているんでしょう?」
「エマさん、記録は常に曖昧で移ろい易いものですよ。正しいことが記録されているとは限りません。時と共に真実は変化し忘れ去られて行くものなのです。悠久の時の前に逆らえる者など存在しません。間違いが有ったとしてもそれもまた真実として伝わって行くのです。」
何が言いたいんだろう?
「つまりウィザー達も忘れちゃったって事?」
「端的に言えばそういう事の様です。」
何ともウィザーらしくない返事である。
エマの知っているウィザーは極端に優れた記憶力を持ち、人間では計り知れない能力を示す、いわば超人達である。シドラの言うような事がありうるのだろうか?
エマはそう思ったがそれがいつものウィザー達の示す態度であって、彼らはドームに関して確定的な事を言った事はないのである。
エマはそれ以上の答えをシドラがしてくれるとも思わなかった。
人に優しくそれでいて断固として人の介入を阻むウィザーの世界。
何故シドラはウィザーになったのだろう?
いや、どうしてウィザーになれたのだろう。そんな疑問がエマには湧いてきた。
「ウィザーになる前は何をしていたの?」
答えが返って来るとも思わなかったが聞いてみる。
「旅人です。遠くから旅をしてきました。」
意外な答えが返ってきた。ウィザーがウィザー以前の事を語るのを初めて聞いた。
「一人で?」
「いいえふたりの仲間と一緒にです。」
「そのふたりはどうしたの?」
「まだいますよ。」
「その人達もウィザーになったの?」
「いいえ、別の街で暮らしています。いずれ再会するでしょう。」
ウィザーにならなかった仲間もいる?ではその人達は人間のままなのかしら?
「再会したらまた旅に出るの?」
「さあ、どうでしょうか?その時になってみないとわかりません。」
ウィザーが旅をする?それもまた初めて聞く言葉であった。
でもどこから旅をして来たんだろう?ドームを渡り歩く旅であれば父もやっている。
それではいったいどのような旅をしてきたのだろうか?
「それよりエマさん。もうすぐメルダ通路に入りますよ。」
ドームの外周部分にポッカリと開いた半円形の穴が見えてくる。エマも何度か訪れた事がある通路の一本である。
アクセスいただいてありがとうございます。
この世界での大きさの単位を現代社会の単位に置き換えると以下の通りとなります。
ドーム 直径30ケールを覆っている透明なドーム最大高さ約1500メルカ
通路 ドームを繋いでいるかまぼこ型のドーム幅200メルカ最高高さ100メルカ
ヘックス ドームを含む一区画、直径100ケールの6角形、ほぼ中心にドームがあり 外周を川に囲まれている。
橋 ヘックスの外周を流れる川を渡る橋、幅約100メルカ 長さ1000~2000メルカ
単位
メルカ=メートル
セルメ=センチメートル
ケール=キロメートル
ケルグ=キログラム
感想やお便りをいただけると励みになります。