取引
暗い納骨堂を離れたお絹が訪れたのは、また暗い部屋だった。
混沌とした本の山に沈む男と百世が言葉を交わす。
お互いの利害がぶつかり火花が散る。
「取引」
この女。真に小学生か。
お絹が一番最初に連れて行かれたのは白くて大きな建物だった。大学の校舎らしい。しかし見たこともないくらい立派な建物だ。
綺麗で広い廊下から奥まった暗い廊下を進み「職員室」と書かれた部屋に着いた。まるで百世は二度ノックをして軋む扉を開けた。
中は雑多だった。天井まである本棚にぎっしり本が詰まっていてさらにあふれた本が机や椅子にまで積まれていた。
その山に向かって「教授ー。四谷教授ー。終わったわよー」と百世が声を投げかけると髭面の大柄な男がのっそりと現れた。
「ああ、お疲れさん。どんな様子だった?」
「自分から献体されたくらいだから素直な人ばっかりだったわよ。説明したらけっこうあっさり上がってくれたわ」
「なに?じゃあ凶暴化した悪霊とか人間に恨みつらみのある動物霊とかは」
「居なかったわね」
男は渋い顔だ。
お絹は思った。なぜだろう。簡単に終わったら喜ぶところではなかろうか?
「じゃあなんでこんな事件が…」
「さぁ?それよりもちゃんと葬式上げてる?みんな自分が死んだこともよく分かってなかったわよ」
「む。ちゃんと年一で慰霊祭を開いているんだがな」
「坊主か祈祷師かわからないけど、祈る人が悪いんじゃない?最近は唯物主義者の坊主がまかり通っているくらいだから」
「まったくどうしようもないな」
「ま、おかげで私たちが経験積ませてもらえるんだけれど」
「じゃあまた来年もよろしく」
「どうだかね」
「いやいや。謝礼も出すんだしそこはこっちの都合も見てくれよ」
男がそういうと「私たちは業者じゃないっての。なにいってんのかしらこいつは」とぼやいた花子が男の目の前まで飛んでいっておでこを指で弾く。
しかし男はデコピンされたところを指で掻いた以上の反応がない。花子の動きにもまったく無反応だ。
「どうしようかしら。ねぇ、なむ?」
「え!?」
無茶振りにたじろぐなむの耳元で花子がぼそぼそつぶやく。
「え?え…えっと、そうですね。謝礼金を増やしてもらうか情報を提供してくれたら…とか?」
「なむちゃんも意外とキツイ子だなぁ」
ここでお絹はようやく気がついた。この男は幽霊が見えていないのだ。
「ま、とにかく今日はお疲れさんということで。はいこれ」
そう言って男から差し出された茶封筒を百世が受け取る。
「はい毎度」
お絹は感心と同時に呆れてしまった。これじゃ本当に業者ではないか。しかも付き合いの長いやつだ。目の前に居るのは壮年の男と小学生なのに。
ここで百世が茶封筒をひらひらさせながら「ところで」と、ここに来た本題を切り出した。
「あの納骨堂に入っている人たちの名簿ってあるの?」
「突然どうした。なにか気にかかることがあったのか」
男は話題が切り替わったことを敏感に察知したようで目に力がこもる。
「ええ。実は三十年前に納骨堂に入った女性の霊を拾ったのよ」
「ふむ」
「その女性に関わる情報が欲しいの。放っておくのも可哀想だからね」
「なるほど。っていうことは…」
男が老体とは思えぬ速度で百世の茶封筒めがけ手を伸ばす。しかし百世はそれを超える速さで避けたために男の指が空を切った。
「全員成仏してないだろ!こら!契約違反だろうが!」
「私はちゃんと”納骨堂の中の不成仏霊”は全員帰しましたー!!その霊は外に出たから関係ないですぅー。契約は履行されてますぅー」
「生意気な!あ。もしやその箱は!」
「あ、そうそう。その女性の骨壷借りてくわね」
「なんじゃと?」
「どうも骨壷から遠くに離れられないみたいなのよね。生への執着かしら」
「勝手なことを!」
「どうしても必要なのよ。後でちゃんと返すから」
「ダメ」
「レポート出すわ。そこらの霊感週刊誌よりは面白いこと請け合いよ」
「…ダメ」
「あなたが調査取材と称してどこに出掛けているかバラす。この間は温泉行ってたでしょ」
「小賢しい!」
「え?バラしていいの?」
「ぐぎぎ」
男は悩んだ末、はぁー、と大きく溜息をついた。男は茶封筒を追うのを諦めて椅子にどっかりと腰掛けた。先程よりも偉そうな態度なのは百世に対する対抗心かもしれない。
「名簿だのという前に本人に聞いたらよかろう?一番の情報源じゃないか」
「それはもう。けれど彼女自身の記憶は彼女の亡くなった時まででしょ?特に彼女の場合、死の前後の記憶が曖昧でよくわからないのよ」
それを聞いて男は興味津々の様子だ。
「霊体にも記憶障害があるのか?」
「精神に起因するものはあるわよ」
男は少し考えた後「名簿はある。はずだ」と独り言のように呟いた。
「はずとは?」
「献体の名前は人体解剖研修に関わった生徒と講師以外には非公開だ。だれが誰を解剖したかは自分や献体の家族にも秘密にする決まりになっている。ただ管理する以上どこかには、な」
「なるほど。探すのは…かなり面倒ね」
百世がちらりと男を見た。
「ワシにそんな権限はないからな」
「嘘つきはやめなさいよ。納骨堂の管理やってるのあなたじゃない。一応責任者なんだし、なんとかならないの」
「なんともならん。守秘義務というものがある。一応責任者だからな」
「…そう。そこまで言われたらこれ以上無理強いはやめましょう」
「…なんか今日はやけに退くのが早いな。なにか企んでいるだろう」
そう言われた途端、百世は顔を両手で覆い隠して俯いた。
「ああ!お絹さん可哀想!こんなわがままおじいちゃんのせいで成仏できないだなんて!」
泣き真似をしつつ指の間から様子を伺う百世を男は鼻で笑った。
「はん。そんなことしても無駄だぞ。それとおじいちゃん言うな。ワシはまだ五十代だぞ!」
そうだったのか、とお絹は驚いた。歳相応に見えないのはヒゲが立派すぎるからだろうか。あと一人称がワシなのも悪い。
その後百世は何度もお願いし、最後には泣き落としにかかったが手厳しく突っぱねられてしまった。
流石の百世も暖簾に腕押しでこれ以上成果が無いと思ったのか「仕方ないわね」と言って諦めた。
その後はお互い全員腰を下ろして世間話に興じた。男の最近悪くなった体の箇所だとか百世たちの小学校で流行っている遊びだとか他愛ない雑談を楽しんだ。
やがて彼女たちが職員室を去る間際に「女性の名前はおきぬさんで合っていたかな」と聞かれた。百世は「そうよ。おきぬさんで合っているわ」と振り向きもせず答えた。
その時の百世の顔はいたずら好きの子供が笑うのにそっくりだった。
校舎の外は日が少しだけ下がったようだが相変わらずの日差しだった。
「花子」
百世が言うと花子は「はいはい…」と気だるそうに校舎へ戻っていった。
「花子さんは何処へ行ったの?」
お絹が聞くと百世がにやにやと笑った。
「四谷…さっきのおじいちゃんね。あいつのところへ行ったわ。あいつが名簿を調べるのを監視してもらうためよ」
お絹には百世の言っている意味が分からなかった。彼はあんなにも非協力的だったではないか。なんでそうするのがわかるんだろう?と納得がいかないお絹の様子を察して百世が答えた。
「ふっふっふ。私には分かるわ。あいつなら絶対そうするという確信に近い予感があるのよ」
百世は自信たっぷりだ。
「さぁ!今日はもう花子に任せて帰りましょ!」
すかし、カマかけ、脅迫。
それは子供に不相応な交渉の秘技。
折れた四谷は悔し紛れにまた隠し事を作る。
しかしそれも百世の意図。四谷の背中を花子が睨む。
次回「お泊り」
はや四話にしてテコ入れが始まる。