97話 吸血鬼、堕ちる
「おじさーん、頼まれていた物、持ってきましたよ!」
朝、男性がソファに腰かけ読書をしていると、聖女が来た。
彼女は一抱えもある箱を持っている。
「あ、あの、これ、どこかに置いても? けっこう重いので……」
「ああ、入口あたりにでも置いてくれてかまわないが……」
男性は困惑した顔になる。
なにせ――覚えがない。
聖女になにか、荷物を持ってくるように依頼した記憶がないのだ。
その事実は、男性をヒヤッとさせた。
なにせ――男性は吸血鬼である。
肉体は常に健康を維持し、衰えるということがない。
……だけれど。
最近、なぜか、記憶力の衰えは感じるのだ。
だから本気で心当たりがなかった男性は、思わず己の機能を疑ったのだが……
「それにしてもおじさん、ご立派です!」
「……なにがかね? まあ、掛けなさい」
「失礼します! だって、ついに働く気になったんでしょう? 内職キットを依頼された時は、わたし、思わず感動をしまして……」
「その荷物を頼んだのは私ではないようだね」
男性は確信した。
いかなる気の迷いがあろうとも、『そうだ、内職をしよう』ということにはならない自信があったのだ。
「あれ? でも、眷属ちゃんから、『家でできる仕事を紹介してほしい』って言われましたけど」
「……眷属が……」
そういえば、お金をほしがっていた気がする。
ぶっちゃけ蔵を開けばいくらでも財宝はあるので、お金がほしいならば勝手に持ち出してかまわないと男性は言っているのだが……
眷属的には『自分で稼ぐ』ことが大事らしい。
最近までは主な収入源を『動画』に頼っていたはずだが、ドラゴンが撮影をやめてしまった影響からか、あまり思わしくないのだろう。
ついに眷属が内職に手を出し始めるようであった。
「なるほど。どうやらそれは、私あての荷物ではないようだ。眷属にあとでお礼を言わせよう」
「え、ということはおじさん、眷属ちゃんに内職をさせて、無職を続行するおつもりで?」
聖女が『嘘でしょ?』というような顔をしていた。
そうだ――現代、吸血鬼や眷属というのは、お伽噺の中にその存在の残すのみである。
現代っ子の聖女からすれば、男性と眷属は、『おじいちゃんと孫』なのだ。
幼い孫に身の回りの世話や収入を任せる、別に介護も必要なさそうな男性。
客観的に見て――非常にまずい。
「いや、その……」
ここで男性が『そうとも。私は吸血鬼だからね。少々の血さえあれば生きていけるし、その血を得るための財力はすでにあるのだよ』と発言しなかったのは、積み重ねられた聖女との歴史のせいであった。
通じない。
私は吸血鬼だとか、この城は自分のだとか、そういう事実は、聖女には通用しないのだと、数々の会話の中で男性はすでに学んでいるのだ。
加えて、男性は自身のメンタルの変化をいよいよもって自覚せねばならない局面にいた。
かつて、男性は泰然自若としていた。
誰になんと思われようともいっこうに気にしない、揺るがぬ『己』があった!
だけれど社会に触れ、文化に触れ(外に出ないので直接は触れていない)、現代っ子の知り合いも大量に増えた(聖女、竜の末裔で吸血鬼の魔法使い、その弟。総勢三名)。
社会性が生まれ――プライドが生まれた。
かつての自分ならば『ちんけだな』と嗤うような種類のプライド。
つまり――
――若い女の子にダメなおじさんだと思われたくない!
「く……うう……!」
「おじさん!? どうしたんですか、いきなりうなって!? どこか痛むんですか!?」
痛いのは心であった。
ああ、なんと弱くなってしまったのだろう!
かつて『超常たるヒトガタの闇』と呼ばれた人外の化け物が、まるでそのへんにいる普通のおじさんみたいなメンタルに変貌している!
――いけない。
今が、分水嶺だ――今、かつての己に戻ろうと奮起しなければ、永遠に普通のおじさんメンタルで生きることになってしまう、そんな予感がした。
だから男性は口を開く。
若い女の子にスルーされがちな、『私、吸血鬼』アピールをするために、口を開き――
「――私は」
「おじさん?」
「私は……………………別な仕事をしようかと思っているんだよ」
「まあ! そうだったんですか!」
「ちょっと下調べに時間がかかってね……もうじき、なにをしようとか、言えると思う……うん、まあ、だから、待っていなさい」
「はい! 慌てなくって大丈夫ですからね」
聖女はしんから嬉しそうな笑顔を浮かべた。
男性も笑った。
嘘までついて格好つけようとする、堕ちてゆく己を嗤い――
己をここまで変えた聖女に賞賛の笑みを送った。




