96話 ドラゴンは食事にも一手間かかる
「吸血鬼よ、これを作れ」
うららかな昼下がり。
男性の読書の時間は、そんな地の底から響くような低い声で邪魔された。
見せられたケイタイ伝話の画面には、とある料理のレシピが載っていた。
男性は目を細め、それを見る――といっても、別に老眼で画面の文字がよく見えないわけではない。
男性は吸血鬼である。
今でこそ『お伽噺の中にしかいないもの』という扱いを受けている絶滅危惧種だが、本来、吸血鬼とはすさまじい再生能力と、いつまでも望む通りの健康体を維持できる能力があるのだ。
老眼になどなりようはずがない。
それでも目を細めたのは、画面内に表示されているレシピの意味がわからなかったからだ。
「なんだねこの……『シェフの気まぐれ蒸し鶏のポワレ オーガニック野菜と天然ハーブの田舎風ジビエ仕立て ~気まぐれフルーツソースを添えて~』とは……いったいどれだけ気まぐれを起こせば気が済むのだ」
「自然派であろう?」
満足そうに語るのは、小さな生き物だった。
真っ赤なウロコに覆われた体に、おおよそ『つかむ』機能のなさそうな四肢、ずんぐりむっくりした体の後ろには太い尻尾を持ち、長い首の上にはヘビを思わせる縦長の瞳孔を備えた瞳がある。
どう見てもドラゴンであった。
これで世間では子犬扱いされるのだから、世の中に自然なものなどなにもないとさえ思える。
男性はケイタイ伝話をコトリと目の前のローテーブルに置く。
そして羽ばたきテーブルの上に乗ったドラゴンを見て――
「……まあ、君がどのような物を食べようが、私からなにか言うことはないが……ただね、前も言ったかもしれないが、私は君の召使いではないのだ。いきなり来て『さあ作れ』というのは、少々乱暴ではないかね?」
「我が個人的に食べたいものを見せて『作れ』と命じたのならば、そのそしりもまぬがれまい。しかし、違うのだ」
「君以外の誰がこんな気まぐれレシピを食べたがるというのかね?」
「我は大自然の意思を代弁しているだけにすぎぬ。気まぐれレシピは大自然の思し召しなのだ」
「……」
ミミック漬けにされ毒気の抜けたドラゴンは、このようになにかにつけて大自然の意思を代弁しているぶる。
大自然というお題目をつければなんでも許されると思っているようであった。
「ドラゴンよ……こんなことは言いたくないが……今の君は、どうにも正気を失っているように見える」
「我が正気かどうかなど、どうでもよかろう。すべてのことは、大自然の雄大さの前には、小さきことよ」
「では食事だってこんな手のこんだものを求めずに、いつも通りカリカリだの野菜クズだの食べればいいではないか……」
「それはいかん。人工物はいかんのだ」
「このむやみやたらと手間のかかる料理は人工的ではないのかね?」
「『オーガニック』や『天然』という言葉が入っているであろう?」
「入っているが」
「自然なのだ」
「……」
その時、男性の中でなにかがブツリと音を立てた。
男性は無言で指を鳴らし、眷属を呼ぶ。
招集に応じたのは、黒髪で片目を隠した、メイド服姿の少女であった。
眷属である――ただの幼い女の子を不当にメイド業に従事させているわけではなく、吸血鬼たる男性が血を分け従僕化した野生動物なのである。
「眷属よ」
「……」
近寄ってくるが、返事はしない。
しゃべるのを極度に嫌うのだ――男性はだから、かまわず命令を続ける。
「ドラゴンを拘束して口を開けさせなさい」
「吸血鬼!? 貴様、血迷ったか!?」
ドラゴンがおどろく。
眷属の動きは素早かった。
するりと滑るような動きでドラゴンを持ち上げると、どこに隠し持っていたのか、子犬サイズの小動物を縛るのに適切な長さの丈夫な紐で、ドラゴンの四肢と首と尻尾をつないでしまう。
こうなるとドラゴンはもがくことさえできない――完全にドラゴンの体型を想定し考案していたとしか思えない緊縛技法であった。
男性はドラゴンが動けないのを見やると、いったん部屋を出る。
そして持ってきたのは――『あなたの愛猫に至福の時間を』でおなじみ、猫用カリカリである。
男性は開いていたその袋の中におもむろに片腕を突っこみ――
片手いっぱいのカリカリを取り出した。
「さあ、ドラゴンよ、カリカリを食べろ! 食べるのだ!」
「やめっ、やめろ! やめろぉぉ! 自然派ではない! 人工物を我の口に入れるな!」
「『オーガニック』や『天然』という言葉が入っている程度で納得するような、浅い自然派のくせになにを言うか! さあカリカリしなさい! そしてもとの君に戻るのだ!」
「やめろぉぉぉ! やめろぉぉぉ!」
しかし、抵抗は長く続かなかった。
ついに男性はドラゴンの口にカリカリをねじこむことに成功する。
カリカリィィィ――
小気味よい音を立てて、ドラゴンの口の中で愛猫を気遣った成分により構成された至上のペット用おやつが弾ける。
カリカリに焼かれた表層を噛み破ればあふれだす天然由来の成分は、まるで旨みの大洪水だ。
ペットフード業者が愛猫のことを思っていた時間そのものが堆積したとすら言えるそのフードを、ドラゴンは咀嚼し、飲み込んだ。
そして――
「…………うまい」
ドラゴンは、ぼんやりとつぶやいた。
顔にはどこかつきものが落ちたような表情が浮かんでいる。
「……ハァ……ハァ……大自然……大自然が、我の中から抜けていく……いや、あれは本当に大自然だったのか……? ただのよからぬ電波ではなかったのか……?」
「ドラゴンよ、元に戻ったようだね」
「うむ……なにか、我の体を使って勝手なことを言っていた何者かが、出て行ったような……そんな心地だ。あなおそろしや……我は今まで、我らしからぬことをしていたようであるな……」
「ああ、そうだね。君らしくはなかった……まあ、我を通そうとゆずらぬあたりは、ある意味で君らしくもあったが……ともかく、おかえり」
「うむ……」
ドラゴンは鼻から息をつく。
そして、拘束されたままの体をひきずるように、テーブルの上を移動し――
「吸血鬼よ、どうやら迷惑をかけたようだな」
「気にすることはないさ。我らはいわゆる『幻想種』――絶滅寸前の人外仲間ではないか。困れば助け合うのは、当然だ」
「うむ……」
「さ、なにかと疲れただろう? ……眷属よ、ドラゴンを部屋まで運んであげなさい」
眷属はうなずくと、拘束されたままのドラゴンを荷物のように乱暴につかんで、片手で持って行った。
パタンとドアが閉じると、部屋には男性だけが残される。
男性はソファに深く背中をあずけ、ふう、と息をつき――
「……本当にいいのだよ、ドラゴンよ。なにせ、君がおかしくなったのは、私が君をミミック漬けにしたからなのだから……元に戻らないかと思って、ヒヤヒヤしていたところなのだ……」
一件落着である。
こうして男性の地味な心労は、また一つ減ったのだった。




