95話 妖精は仲間を求めるリターンズ
ヒタヒタ……
ヒタヒタヒタ……
「んんん……? なんだ?」
妙な物音と、胸あたりに感じる冷たい感触で男性は目覚めた。
なにか胸のあたりがひどく濡れている感じがして、男性は片手で自分の胸元をさぐる。
手に、なにかべったりとした、粘性の液体がくっついた。
「体から変な汁が……!?」
男性はサッと青ざめる。
己の身に起こった明らかな異常事態に動揺したのだ。
なにせ男性は吸血鬼なのである。
病気やケガとは無縁だ――いや、縁はあっても、すぐさま肉体が健康状態に再生するのだから、身体に異常など起こりようはずもない。
だが、現に、胸のあたりに変な汁が出ている。
その汁は粘性が高く、透明で、ほのかにつんとする甘い香りがあり――
「……ん? これは蜜か? なぜ私の胸から蜜が……?」
知れば知るほど不可解で、怖ろしい。
長生きしすぎた吸血鬼は胸から蜜が出るようになるのだろうか……?
男性が今後の人生とか色々なことを考えていると――
ふと、男性の胸になにかが乗った。
「ふんふーん♪ ふんふんふーん♪ 八の字を描くように、全身の筋肉をまんべんなくー」
胸に乗ったなにかは、思わず力の抜けるような歌声を発する。
男性が顎を下げて自分の胸元を見れば――
妖精が抱えるようにハケを持って、男性の胸に一生懸命なにかを塗っているところであった。
「…………?」
妖精が――妖精というのは、四枚羽根の生えた、手のひらサイズの少女である。
抱えるようにハケを持って――サイズがサイズなので、通常のハケでも、彼女には一抱えほどもある。
男性の胸に、一生懸命なにかを塗っている――これがわからない。
「妖精よ」
男性は呼びかける。
すると妖精はピタリと歌をやめて、男性の方を見た。
「あ、起こしてしまったです?」
「まあ、起きてしまったが……その、君はいったい、なにをやっているのかね? 私の胸にハケで蜜を塗っているように見えるのだが……」
「え、でも、蜜はハケを使わないと塗りにくいのですよ? 道具を使うのは、賢き者の特権なのです。よって妖精さんは頭がいい……」
「そうじゃない。なぜ、私の胸に蜜を塗っているかを聞きたいのだ」
「妖精さんは、蜜が好きなのです」
「君の好みは聞いていない。なぜ、私の胸に蜜を塗っているかを知りたいのだ」
「妖精さんは、蜜を好きだからなのです」
「いや……」
「…………?」
妖精が『質問には答えたのになんでこの人は同じことを聞くのだろう』みたいな顔をしている。
どうやら彼女は必要充分な回答をしたつもりらしい。
「吸血鬼さん、スクワットするです?」
「私の知能が低い感じでアドバイスをするのはやめたまえ。君の答え方がなっていないのだ」
「そんな!? 妖精さんはどうしたらいいですか!? 蜜を塗るです!」
「塗るんじゃない! 塗るんじゃあないッ! 私の胸をなんだと思っているんだ!」
「筋肉!」
「違う! 私の胸は筋肉である前に、私の胸だ! 私の許可なく勝手に蜜を塗っていいところではない!」
「あ、そうだったのです……ごめんなさい。蜜を塗っても?」
「いいわけがないだろう」
「お邪魔にならないようやるです」
「そういう問題ではない」
「こっそり蜜を塗るです」
「やめろ! 『こっそり蜜を塗るです』と宣言しながら蜜を塗るんじゃない! こっそりできていないし、こっそりできていてもやめろ!」
「わかってるー」
「わかってないから、まずは蜜を塗るのをやめろ!」
「じゃあ、どうしたら蜜を塗る許可をいただけるです!?」
妖精が叫んだ。
叫びたいのは男性の方だった。
どのような懇切丁寧な説明をされても、『胸に蜜を塗りたい? かまわないよ』となる未来は見えないのである。
どうしたら蜜を塗る許可を出せるのか、男性の方が逆に聞きたいぐらいである。
が、そのあたりを妖精にわかるように説明するのは困難であろう。
妖精の知能は悲しいほど低いのだ。
だから男性は、ひとつひとつ質問していくことにする。
「まず、なぜ、私の胸に蜜を塗ろうと思ったのだね?」
「それは妖精さんが蜜を好きだからです」
「……この質問はハズレのようだね。えーっと……私の胸に蜜を塗ると、どうなるのかね?」
「妖精さんが来るです」
「蜜を塗りに来るのか」
「蜜を求めて来るです」
だんだんと会話が暗号解読めいてきた。
妖精と話すのはいい知能トレーニングになりそうだ。
「……ああ、なるほど。私の胸に、君が、蜜を塗ると、君以外の妖精が、私の胸まで、蜜を求めて来ると、そういうことかね?」
「そう言ってるのです」
はい。
妖精は以前から、このように、突発的に仲間を求めて行動を起こすことがあった。
だいたいそういう時は、『仲間の声を聞いた』とか『仲間の痕跡を発見した』というようなきっかけがあった。
まあ、その『仲間』も、動画に映った己自身だったりしたので、妖精以外の妖精が実在する感じではないのだけれど……
「……つまり、また近くで『仲間の気配』でも感じたのか?」
「そうなのです」
「妖精よ、今度はどうしたのだね? 寝ている時に仲間の声がしたのかね? それとも枕元に身に覚えのないメモでもあったのかね?」
「!? どうしてわかったです!? そうなのです! 妖精さんが筋トレをして寝オチをしたら、仲間の声がして……」
「そのネタは前にやった!」
「……? なんの話です? 仲間の声が聞こえたのは、このお城に来てから初めてです」
「ま、まさか君、覚えていないのか……?」
「起こっていないことを覚えておくことはできないのです。ふっ……頭のいい物言いをしてしまったのです……」
「……!」
そうなのだ。
妖精には――記憶力が、ない。
しかも最近はボディビルポーズにより知能を短期的かつ爆発的に引き上げるスキルを身につけた影響か、知能平均値が下がっている傾向さえある。
そんな前のこと――覚えておけるはずが、ないのだ。
「……くっ」
男性は思わず目頭をおさえた。
――また繰り返されるのか。
何度も何度も、仲間を求め、その気配を感じ、しかしそれが勘違いであったと――そんな残酷なことを、幾度繰り返せばいいのか?
世界はなぜ、こんなにも残酷なのか。
ただ、頭が悪いだけで――
どうしてこれほど、悲しみに包まれなければならないのか?
「吸血鬼さんが目を閉じているです。こっそり蜜を塗るです!」
「……ちなみに妖精よ、なぜ私の胸なのだ? 蜜を塗るなら、他の場所でもよかろう」
「寝オチ中に聞こえてきた妖精さんも、筋トレをしていたのです。だからきっと、近くにいる仲間も筋肉が知能に違いがないのです。だから妖精さんは筋肉に蜜を塗るのです。頭がいい!」
「……くっ!」
だから……!
それっ、動画……!
動画に映った己の姿……!
確定だった。
また自分の映った動画を見ながら筋トレをして寝オチし、停止されぬまま流れ続けた動画の音声を夢うつつで聞いて、それを仲間の声と勘違いしたのだ。
ヒタヒタヒタヒタ。
胸に冷たさとくすぐったさ。
ねっとりとした粘性のものが、男性の胸に塗られている。
正直言って不快だが――
男性は、もう、妖精のその行為を止めようとは思わなかった。
「……わかった。妖精よ。気の済むまで私の胸に蜜を塗るといい」
「会話により許可を得たのです! 知能的! 蜜を塗るです!」
「……仲間が来るといいな」
「来るといいのです!」
男性は目を閉じ、眠ることにした。
胸をハケがなでる感触は無視しがたいほどくすぐったかったけれど、それにもいつか慣れるだろう。
男性は――記憶力があるから、『慣れる』ことができる。
でも、妖精は、記憶力がないから、同じ悲しみを永遠に繰り返す。
言いようのない悲しみを抱えた男性の胸の上を、蜜をたっぷりつけられたハケが往復する。
時折聞こえる力の抜けるような歌声を子守歌に、男性は就寝に成功し――
――朝、蜜まみれの男性の胸で寝オチする妖精を発見した眷属が超おどろくことになるのであった。




