89話 眷属は妖精を直したい
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「わかったわかった。用件を述べなさい」
どっこらしょ――
そんな優雅ならざる声をあげつつ、男性はベッドで上体を起こした。
カーテンの閉ざされた真っ暗な室内。
しかし視界に困るものではない――なにせ男性は吸血鬼である。暗闇を見通す機能は標準装備なのであった。
もっとも世間はもう吸血鬼なんか実在を信じていないので、現代っ子が来るとすぐにカーテンを開けられ、部屋に明かりを入れられてしまうのだけれど……
しかし、今はそんな心配はしなくてもよさそうだった。
なにせ男性のそばにいるのは、『吸血鬼の眷属』なのだ。
もともとはコウモリなので、そもそも目で景色を捉えているかどうかも怪しい――以前、喉の調子が悪くてものとの距離感をはかれず、壁にぶつかって気絶したこともあったぐらいだ。
「……」
眷属はいつものような片目を前髪で隠した無表情のまま、なにかを突き出した。
男性は眷属が片手で握ったものに焦点を合わせる。
それは――
「妖精か?」
四枚羽根を生やした、手のひらサイズの女の子――妖精である。
無駄に美しい容姿に哀しき知性を秘めた哀愁漂う生き物だ。
いちおう会話などはできるが、記憶力と理解力に乏しいので、会話が成り立つ相手と言えるかどうかは議論の余地があるだろう。
その生物を指して、眷属は言う。
「……こわれて、なおらない」
ちなみに、眷属はしゃべるのが大嫌いだ。
その彼女が声に出して言うぐらいだから、大変なことなのだろうと男性は思った。
「壊れたとは……」
「……」
眷属は黙ったまま、手に握った妖精を男性の顔の目の前へ突き出す。
妖精は握りしめられながら、首をかしげ、言う。
「きゅーけつき! きゅーけつき? しろ、あか……あか!」
知能が壊れていた。
普段はもう少し、知性があるかのようなしゃべり方をするのだ。
「まあしかし眷属よ、妖精の知能が定期的に落ちるのはいつものことではないか? またぞろ筋トレでもしすぎて、知能が下降したのだろうよ。そう気にすることでもないと思うが……」
「ねて、おきても、これだった……」
「……そうか」
「なおして」
「いや……」
「なおしてください、ませ」
「いやいや……」
「とけいとか、なおす、かんじで……」
「いやいやいやいや……」
男性には数多の趣味があり、その中には精密機械を修理できるようなものもある。
だが――妖精を『直す』のに役立ちそうなものはなかった。
「お前が珍しく深刻な顔をしているところ申し訳ないが……妖精を直すのに役立ちそうな技能は、さすがにないね……」
「たたいたら、なおったり……」
「死んでしまうのでやめなさい」
「……」
「……まあ、できうる限り試してみようではないか」
「!」
眷属が目を丸くした。
男性は苦笑する。
「お前がそれほど熱心に、私になにかを頼み込むというのも、珍しい……よほど妖精のことが心配なのだね。なにか大事なものができるというのは、いいことだ」
「だいじな、おもちゃ……」
「……大事なものができるというのは、いいことだ」
男性は眷属の発言を一部スルーした。
情操教育の必要性だけ頭の片隅においておいて――
「しかし、先ほども言ったように、私は妖精など直したことがない。そこで、まずはどうしたら直るか、ともに考えてみようではないか」
「あけて、しらべる?」
「うーん……一度開けてしまうと閉じるのが難しいので、なるべく非破壊の方向でいこうか」
「さいごの、しゅだん……」
「参考までに聞いておきたいが、お前は妖精をなんだと思っているのかね?」
「……ようせいは、ようせい、では……?」
「そうなのだが……」
「あけたら、だめな、やつ?」
「ダメなやつだね」
「あるじは、ものしり……」
眷属が感動したように見上げてくる。
五百年さしたる会話もなかったことが、彼女の常識や教養の面でよからぬ影響を及ぼしているかもしれないと男性は思った。
「ともあれ――妖精の知能を支えるものがなにか、これはもう明白だろう。そう、筋肉だ」
「きんにく!」
同意するように妖精が鳴いた。
男性はうなずき――
「そういうわけで、妖精には筋肉にいいことをやらせればよかろう」
「あるじ」
「なんだね眷属よ」
「きんにくと、ちのうには、きほん、かんけいが、ないです」
「……」
「そんな、たわごと、ほんきにしたら、だめ。あるじは、ようせいに、だまされている」
真顔で言われてしまった。
なぜだろう、男性は優しい気持ちになった。
「まあ、たしかに関係がなかろうよ。しかしだね、我らは、妖精が筋肉の刺激によって知能を復活させたり向上させたりするシーンを幾度となく目撃しているではないか」
「……している」
「そもそも、我らは不思議な生き物だ。たしかに筋肉と知能のあいだに明確な関係はない。それは私も思っているが――実際、妖精は筋トレや有酸素運動を始めてから、知能の最高値が上がったのは認めるところだろう。つまり、ニンゲンや我らには関係なくとも、妖精には関係がある可能性は否定できまい?」
「……なるほど、さすが、あるじ。ふかい、おかんがえ、です」
眷属が感銘を受けた顔をしていた。
なんだろう、かつてないぐらい絶賛されている――かつてないほど、しゃべっている。
よほど妖精のことで心を痛めているに違いない。
「だから妖精の知性を戻すならば、筋肉をどうにかするべきと私は考えるのだ。刺激を与えるなどすれば、知能も戻るかもしれない」
「それなら、のうを、いじるのは……? はなしが、はやそう」
「危ないので素人がやってはいけない」
「がんばっても、だめ?」
「まあ六、七年も必死に学べば大丈夫かもしれんが……」
「……」
不満そうな顔をされても。
ともあれ、男性と眷属は、妖精の筋肉に刺激を与えることにした。
色々なことが行われた。
ミミック式マッサージやら、プロテインの強制接種やら、手足を拘束して無理矢理スクワットさせてみたりもした。
しかし妖精の知能が戻ることはなかった。
「……ようせい」
眷属の声は深い悲しみに包まれていた。
その視線は、ローテーブルの上に設置されたベッドで眠る妖精に注がれている。
男性はなんと言っていいかわからず、眷属の小さな背中をながめるしかできない。
「……また、いっしょに、せをのばす、こと、やりたい……また、おはなし、したい……ようせい……」
悲しみに暮れる眷属。
――その時、彼女の目から一筋のしずくがこぼれた。
そのしずくは、ベッドで眠る妖精の腹部あたりに落ちて――
「うぅ!?」といううめき声――妖精の貧弱な肉体には、涙の一滴さえ重いのだ――とともに、妖精が目覚める。
妖精は、上体を起こすとキョロキョロとあたりを見回した。
そして自分をのぞきこむ眷属の姿を見つけ――
「眷属さん? ここは妖精さんの部屋なのです?」
――知性を感じる言葉遣いであった。
眷属はテーブルそばにしゃがみこんで、妖精と視線の高さを合わせる。
「ようせい……! けんぞくが、わかるの?」
「眷属さんならわかるのです。なにせ、妖精さんは賢いのですから……」
「ようせい……!」
眷属は妖精の眠るベッドごと、妖精を抱きしめた。
妖精は困惑していたが、状況を理解することをあきらめたのだろう、「わかるー」と言いながらされるがままになっていた。
「……よかったな、我が眷属よ」
男性はそれだけつぶやいて、部屋の外に出ることにした。
二人のあいだを邪魔するのも野暮だと思ったのだろう。
廊下に出て、部屋の扉を閉めると、不意に視界の端を横切る生き物がいた。
子犬である。
「……どうしたのだ吸血鬼よ、なにやら今日は騒がしかったようだが……」
ドラゴンが不思議そうに聞いてくる。
男性はフッとかすかに笑い――
「なに。一つの――想いが起こした奇跡があったまでさ」
「本当にどうしたのだ、このポエム吸血鬼は……」
なにを言われても気にならない。
なぜならば、今、男性の胸には優しい気持ちがあふれているのだから――




