85話 眷属の笑顔
「なんだか近頃、不機嫌ではないかね?」
男性は思わず問いかけた。
その発言に、眷属は持っていたティーカップ(中身入り)を落としかける。
しかし、すさまじい反射神経と挙動により、落としかけたティーカップは液体の一滴さえこぼすことなく宙で再び眷属の手に取られる。
人間業ではない。
そもそも――ニンゲンではない。
吸血鬼とその眷属である。
今ではすっかり『いないもの』という意味で『幻想種』呼ばわりされている両者ではあるが、こうして古城の中で穏やかに暮らしているのであった。
そうだ、長い暮らしだ――男性は思う。
ヒキコモリ歴五百年。
その多くの時を眷属とともに過ごしてきた。
目を閉じれば思い出す――翼がいつのまにか腕に変化し、飛べなくなったコウモリが、二本の腕で歩行しているあの光景。
めっちゃ怖かった。
そんな変化も飲み込みつつ、同じ城でずっと二人きりで生きてきたのだ。
一個の人格を認め、『他者』として接するようになったのはごく最近だが――いや、だからこそ、だろうか。男性は眷属の細かな変化に気付くことができた。
眷属の様子に、パッと見てわかるような変化はない。
片目を前髪で隠す髪型。
ロングスカートのメイド服。
『愛想』という概念とは無縁の無表情。
いつも通りのその様子から――
男性はなんとなしに、眷属の不機嫌さを感じ取ったのである。
「お前の忠告を振り切ってミミックを解放したことを怒っているのかね?」
「……」
眷属は語らない。
しゃべるのが嫌いなのだ。
だけれど――
首を横に振った。
「違うのか。では、なんだね?」
「……」
眷属は持っていたティーカップを男性の目の前――来客用ローテーブルの上に置く。
それから、『右手はなにかをつまむようなかたちにして、左手の上でくるくるする』というジェスチャーをした。
たぶん『書くものをよこせ』ということだろう。
男性はローテーブルの上のメモ帳とペンを渡した。
『いい機会なので申し上げますが』
「……なんだか改まった感じだね」
男性は姿勢を正す。
眷属はさらさらと美しい文字をつむぎ、
『主はペットを増やしすぎではないでしょうか』
「……ミミックと……あとは、なんだね」
『ドラゴンと』
「あいつは……まあ、あいつはなんだ、自らペットポジションにおさまろうと画策しているだけで、別にペットのつもりで接してはいないが」
『あと、私』
「『私』ぃ!?」
男性の声は裏返った。
衝撃の事実である。
「お前……! 眷属、お前! 自分をペットだと思っていたのか!?」
『眷属を現代風に言うならば、そうでしょう』
「いや、そうかもしれんが……うーん、ペット……ペットか……」
『オオカミを、飼っていた、と表現するならば、私も、飼っている、と表現されるべきです』
「……ああ! 聖女ちゃんがドラゴンを家に持ち込んだ時の会話か! お前はずいぶん細かいことを覚えているのだね……」
『あの二匹は主に従順ではない……先輩ペットとして、許せぬことです』
「そうか。では筆談はめんどうなので、声を出して会話してくれるかね?」
「……」
眷属は眉根を寄せて唇をとがらせた。
従順とは。
ともあれ――
男性は眷属の間違いを訂正することにした。
「眷属よ、よく聞け」
「……」
「私は――お前をペットだとは思っていない」
「!?」
「そこはおどろくところではないのだ……いいか、たしかに、今さら他者に『我らは吸血鬼とその眷属である』と言ってもさっぱり伝わらんであろう。だが……いいではないか」
「……?」
「時代は変わり、吸血鬼は滅び、我らの関係を正確に理解する者は消え去った。だが、我らだけが覚えていればいい……そうは思わんか?」
「……」
「なにに影響されたか知らんが、関係性の呼称をいちいち当世の者にわかりやすく改める必要などない。我らは我らだ。それ以上でもそれ以下でもない。それでいいではないか」
「…………」
「それに、ドラゴンはペットではないのだ。いちおう、私の客分として扱っている。それに――ミミックとて、ペットではない。さっきはペットと言ったかもしれんが、まあ、言葉のあやだ。アレも客分だろう。知能は妖精と同じぐらいだろうし……いや、妖精より高いか……」
「……つまり」
眷属がぽそっとつぶやく。
彼女が自らの意思で声を発するのは非常に珍しいので、男性は黙って耳をかたむけた。
「わたしは、ぽじしょんをとられる、しんぱいを、しなくていい……?」
「そんな心配をしていたのか……ああ、心配はないとも。お前と私の関係性は、他の誰にとって代われるものではない」
「どらごんを、いびる、ひつようが、ない……?」
いびっていたのか。
できたら知りたくなかった眷属の一面である。
「まあ、そうだな。ドラゴンは色々失礼な存在なので、過剰に優しくしてやる必要はないが……いびらなくてもいい。アレとお前とは別枠だ」
「べつわく」
「そうだ。……聖女ちゃんの言葉ではないがな、お前は私にとって、孫か娘のようなものだ」
「でも、わたしが、おおきければ、わたしが、おかあさん?」
「お前のことを色々知ることができたが、お前にとって『身長』がどういう意味を持つファクターなのかだけが、さっぱりわからん」
「……?」
眷属が首をかしげた。
『なぜわからないと言われるのかわからない』とでも言いたげな態度である。
身長とは。
「……とにかく、ドラゴンはお前のポジションをおびやかす存在ではないのだ。これからはもう少し優しくしてやりなさい」
『しかし』
「従順な眷属よ、なんだね?」
『私は、私より大きい生き物が嫌いなのです』
「……」
『ドラゴンはもともと私より大きいので、嫌いです』
「眷属よ」
「……?」
「では、私はどうなる?」
男性は苦笑しながらたずねた。
眷属は笑った。
言う必要はないとでも述べるかのように、笑った。
滅多に笑わないくせに、笑った。




