76話 ツボはそろそろ開けてほしい
朝起きたら腹の上にツボが乗っていた。
「…………ああ、そういえばあったな、こんなの」
男性はすっかりその存在を忘却していたもので、ぼんやりつぶやくだけだった。
これがただのニンゲンであれば『宝物庫にしまいこんだはずのツボが起きたら腹の上に!? アイエエエ!? ナンデ!?』となるかもしれないが……
男性は吸血鬼であった。
白い髪に白い肌、赤い瞳に優れた肩幅を持つスーパーナチュラルボーンイケおじである。
現在は『いない』とされる幻想存在であり――
つまり存在自体が世間一般からは怪異現象とされている。
なので多少の不可思議なできごとには耐性があった。
「ふーむ、なにかこう、我が家に来る連中は無言で訴えてくる者ばかりだね……」
のんびりつぶやきながら――
腹の上のツボを枕元に置き――
よっこいしょ、とベッドから出た。
「さて、今日はそろそろ、絵の仕上げをしてしまおうか」
うーん、と伸びをする。
それからクローゼットまでのんびり歩み、ツナギとベレー帽とフチの厚いメガネという絵描き三点セットに着替える。
手際よくイーゼルにキャンバスをセットし、椅子に腰かける。
ああ、そうだ、絵の具の用意もあった――そんな風に思い、腰を浮かせ、
ガタガタガタガタ。
必死に存在をアピールするツボを思い出した。
「ふーむ……そういえばあったな、こんなの……」
なんていうか――
頭が勝手に存在を忘れる。
男性はその理由に思いを馳せる。
そうだ、最近は忙しいのだ。
もうすぐ絵が仕上がる。
美文字検定のテキスト提出期限も近い。
ドラゴンは油断すると『遊んで遊んで』してくるし――
廊下で有酸素運動をしている妖精を見ると涙がこぼれそうになる。
ここ最近、急に忙しすぎる。
男性は怠惰ではない。
ただ怠惰なのは優雅ではないからだ。
が、なにかにせき立てられるように午睡にまどろむヒマもなくその日その日をあくせく生きるのは、それはそれで優雅ではない。
動かず、けれど動かなさすぎず――
そういうバランスが、最近崩れかけている。
バランスは大事だ。
以前は一日の半分を活動に費やし、もう半分を睡眠に費やすことでたもっていた。
しかし最近は一日の三分の一ぐらいしか睡眠できてない。
まあ、しかし、今あるタスクをすべて投げ捨てて寝るのもまた、優雅とは言えないだろう。
義務を果たしたうえで――己で己に課した義務を果たしたうえで、あくせくしすぎないで生きる。それこそが優雅というものだ。
「……まずは絵の仕上げか」
目の前にある約束を順番にこなすことに決めた。
男性は絵の具をとるため歩を進め――
ガタガタガタガタガタガタ。
そんなふうに必死に存在をアピールするツボを思い出した。
「うーむ」
男性は顎に手を当てて悩む。
そして、ベッドの枕元に置いたツボを持ち上げ――
「いいか、ツボよ」
ツボに話しかけた。
他者に見られてはいけない構図であった。
「貴様の中身がなにかは知らないし、貴様がこうしてかまってほしがるのはわかった。だがな、私は絵を描かねばならない。今、仕事を増やすのはよろしくないのだ」
「……」
「だからせめて、絵が仕上がるまでは大人しくしていなさい。さもなくば、かつてない仕事量に忙殺され優雅さを失った自分がどういう行動に出るか、私にもわからない」
そう――
男性は、他者に仕事を増やされるのが嫌いであった……!
自分からめんどうごとをしょいこむぶんにはかまわない。
だが、『今はやだ』と言っているのに、それでも押しつけられるめんどうごとは好きではないのだ。
そのへんもあって吸血鬼なりたてのころ、自分を吸血鬼にしたコミュニティを壊滅させたこともある。
「わかったら一度、わからないなら二度震えなさい」
ガタッ……
ツボは一回だけ震えた。
男性は微笑む。
「よし、いい子だ」
男性はツボをそっと床に置き――
「では、宝物庫で大人しくしていなさい。出られたのだから、入ることもできるだろう」
「……」
「宝物庫がイヤならばてきとうな客室でもいい。ともかく私を絵に集中させてくれ」
「…………」
ガタッ。
ツボは承諾を示すように一度震えた。
男性は微笑み、うなずく。
「よしよし。では、行け」
「……」
「大丈夫だ。いずれ迎えに行く」
――ガタッ。
「ああ。そうとも。私を信じて待っていなさい」
――ガタッ。
「ではな」
――ガタッ!
最後にひときわ強く震えると――
ツボは跳ねるようにして部屋から出て行った。
……そういえば部屋のドアが開いている。
宝物庫から出るツボなら部屋のドアぐらい開けられるのだろう。
「さて、絵を仕上げてしまうか」
男性は改めて絵の具を用意しに歩き出す。
そうして今日は昼まで絵に集中し――
――ツボのことはすっかり忘れた。




