72話 吸血鬼は最近世間体が気になる
「おじさん、おはようございま――ああ、とどいたんですね!」
朝。
男性がベッドに座って大きめの冊子を読んでいると――
――聖女が来た。
部屋はすでにカーテンが開け放たれており、明るい。
朝日に照らされ、ゴシック&アンティークな家具が空間を意識し配置された室内が浮かび上がっている。
その中央、天蓋付ベッド――
そこに座った男性は、読んでいた冊子から視線をあげ、
「やあ、いらっしゃい、聖女ちゃん」
「はい、おはようございます! それでおじさん、どの資格をとることになさったんですか?」
「いっぱいあったので、とりあえず課題がそう負担にならなさそうな『美文字検定』というのをやってみることにしたのだけれどね」
「絵画や日用大工だけでなく、文字まで書けるんですか!?」
「……まあ、書けるが……」
「あ、その、『お上手なんですか』って意味ですよ!?」
「そうだろうというのも、わかっていたよ」
「おじさん、芸達者ですよね」
「しかしだね聖女ちゃん、美文字というのはなにも、才能がいるものでもなかろう。ザッとこのテキストブックとやらを読んだ限りだと、どうにも手本を見ながら書いていくだけのようではないか。こんなものならば、誰にでもできよう」
「いえ、意外と個人差が出るんですよ……」
「そういうものか」
「そうなんです」
妙にしみじみと言われてしまった。
ひょっとしたら聖女は字が汚いのかもしれない。
そのあたり触れないのがエチケットだろうと男性は判断した。
「……まあしかし、このテキストブックの手順にさえ従えば、きっとある程度は誰でもうまくなるだろう。美文字検定を選んだのはただの偶然だが――字を練習させたい者もいるし、そいつと一緒にやってみようと思うよ」
「へえ。眷属ちゃんですか? たしかに運動でも勉強でも、眷属ちゃんぐらいの年齢がものを始めるには適してるとか聞いたことがあります」
「いや、眷属ではない」
「ええっ!? おじさんに、眷属ちゃんとわたし以外に、直接接触する知り合いが!?」
「……」
意外かもしれないが……
おどろきすぎだった。
「どこのどなたですか!? 年齢は!? 性別は!? お名前は!?」
結婚適齢期にさしかかったのに恋人の影さえ見えない息子に女性の影がチラついた時の母親みたいな質問責めだった。
よほど興味があるらしい。
ちなみに妖精のことである。
妖精の文字が綺麗ならば起こらなかった悲劇というのも、あるのだ。
なので、ここで『君が以前人形と称して連れて来た妖精だよ』と回答してもいいのだが――
現在、『妖精』というのは『お伽噺にしか存在しないもの』とされている。
『吸血鬼』やその『眷属』、『ドラゴン』なんかも同列の扱いだが――
ここで男性が素直に『いや、妖精に文字を練習させようと思ってね』と言った場合、どうなるだろうか?
男性は聖女の対応を想像してみた。
『妖精さんに文字を練習させたい?』
『おじさん……………………………………』
『…………そうですね』
想像上の聖女はまぶしい笑顔を浮かべていた。
この世の慈愛すべてを集めたような、それはそれは神々しい笑顔だった。
――絶対に『妖精』だなんて言ってはならない。
幻想種の存在を隠す気はないし、『でもおじさん、吸血鬼じゃなくて普通のおじさんですよね?』みたいなことを言われたら全力で抵抗するつもりはあるが――
今じゃない。
全力で幻想種実在アピールをすべき時は、きっと、今ではない。
「あー、うーん、えー……実はそう、眷属なのだ。眷属に文字の練習をさせようと」
「でも眷属ちゃんじゃないって……」
「眷属ではないと思っていたが、やっぱり眷属だったのだ」
「もう、おじさん、お友達がいるなら隠さないで紹介してくださいよ! あ、ひょっとして女性なんですか?」
「まあ……ああいや、その、なんだ……」
「女性なんですか!? 年齢は近いんですか? どういうご関係で!? まさか恋人!?」
「ええと……」
ラブロマンスの気配に食いつく若い女の子のパワーはすごいな、と男性は思った。
なにがそれほどまでに若い女の子を駆り立てるのかさっぱり理解ができない。
「年上ですか!? 年下ですか!?」
「いや、まあ……」
「年下ですか! 年齢はかなり離れている? それほどでもない?」
「ええと、その……」
「そこそこ離れてる感じですね! 男性ですか!? 女性ですか!?」
「……」
「やっぱり女性なんですね!」
なぜわかる。
断じてなにも言っていないのだが、質問を二択にしてからの聖女の正答率がものすごい。
もう聖女の好意的解釈に任せて『妖精なんだ』とカミングアウトしてしまうか。
妖精がいる的なことは以前勢い任せで明かしたことがあるし……
『なにを言っているんだお前は』的対応だったが……
男性は間違いなく人生最大の窮地に立たされていた(人ではないが)。
このままでは『妖精の実在アピールをして頭の中に妖精がいるおじさん扱いされる』か、『いもしない恋人的女性の知り合いをいるということにして痛いおじさんになるか』しかないかと思われた。
その時。
部屋の外から、福音にも等しい声が響く。
「おーい吸血鬼よ、手が空いたら我の部屋に来い。ゲームの続きをやるのだ」
地の底から響き渡るような、重く低い声――
男性は、座っていたベッドから立ち上がった。
「あいつだ! そう、私が一緒に字の練習をしようと言ったのは、あいつなのだ!」
そう言った瞬間――
聖女がダッシュで部屋のドアを開けた。
そして顔を廊下に出してキョロキョロし――
男性を、振り返る。
「おじさん、わんちゃんしかいません!」
「ん、んー……なんというか、そう! 実は昔からの知り合いが今、ちょうど城をたずねてきていてね……しかしそいつは極度に恥ずかしがり屋なので、私以外の前には姿を現さないのだ」
言いながら男性は思った。
なにか、違う気がする。
そうだ、対応を間違えたとかではなく――対応が正しすぎる気がするのだ。
昔の自分であれば、『その犬が今の声の主で、犬ではなくそいつはドラゴンだ!』と全力アピールをしていたはずだった。
それがなんだ、このひよった対応は?
男性は己がスラスラそれっぽい人物をでっちあげるのをどこか他人事のように聞いていた。
「……というわけで、そいつと字の練習でもしてみようかと思ってね」
「なるほど……女性じゃなかったんですね……早とちりをしちゃいました」
聖女が恥ずかしそうにはにかむ。
男性は胸の痛みを覚えた。
「じゃあえっと、字の練習のお邪魔をしても悪いですし、今日はここでおいとましますね。また明日!」
聖女はそう言って、最後に廊下にいる『犬』をなでてから、去って行く。
しばし男性は笑顔で聖女を見送り――
完全に聖女の気配が遠ざかると、ガックリと地面に両手をついて倒れこんだ。
最近、眷属、妖精、自分、と持ち回りでこのポーズをしている。
男性がガックリしていると――
常に四つん這い状態の赤い生き物が、ピコピコ足音を立てつつ部屋に入ってきた。
「ものすごい勢いで聖女が出て来おったな……さっきまで寝ていたから気付かんかったわ」
あっぶな――
生き残るため聖女には犬だと思わせ続ける必要のあるドラゴンは、冷や汗をぬぐう動作をした。
「……」
「吸血鬼よどうした? そんなところで我をまねているヒマがあるのならば、我とゲームしよう」
「…………」
「吸血鬼よ」
「……私は……」
「?」
「私は今、妖精や君の存在を聖女ちゃんに隠した……!」
「……」
「しかも、いかにもな『普通の知り合い』をでっちあげてまで……! 昔は違った! 昔の私はもっと堂々と吸血鬼を、ドラゴンを、妖精を、アピールしていたのに!」
「……」
「ふと、急に、世間体を気にしたのだ……! 聖女ちゃんに変なおじさんだと思われるのがイヤで、私は……! 私は美学を曲げた……!」
「吸血鬼よ」
ピコピコ近付いてきたドラゴンが、そっと前足を男性の手に乗せた。
同性の老人に優しくそっと手を触れられるのはなかなか気色悪い。
ドラゴンは縦瞳孔の目を男性に向け、鎌首をかしげる。
そして、低く渋い声で言う。
「貴様の葛藤などどうでもいいから、ゲームをやろう」
「……」
ぶん投げてやろうか、このボール状の生物。




