51話 腕立て中に寝落ちした妖精は筋肉の夢を見るか?
――妖精よ。
真っ白な空間だった。
妖精はそこでキョロキョロとあたりを見回している。
しかし、彼女の視界内には誰もいなかったし、なにもなかった。
上下左右さえわからないようなそこには、妖精しかいない。
――妖精よ。
だというのに、声が響き続ける。
それは聞き覚えのあるような、ないような、男性の声だった。
「妖精さんです!」
――妖精よ、貴様の呼び声に応え、私は来た。
「それはそれは遠いところからわざわざ……」
――別に遠いところではない。私は貴様の中にいる者だ。
「……まさか!?」
――なにか思い当たったのかね?
「あなたは――妖精さんの筋肉なのです!?」
――よくわかったな、貴様……
響く声があきれたような響きを帯びる。
妖精は拳を握りしめた。
「当然なのです。妖精さんは常に筋肉の声に耳を澄ませていたのです」
――そ、そうか……
「ついに妖精さんも筋肉の声を聞けるまでになったのです。あなたは僧帽筋なのです? それとも三角筋? ハッ、スクワットをがんばっているから、ハムストリングスなのでは!?」
――そういう具体的なものではない。私は、もっとぼんやり、貴様の全体的な筋肉だ。
「全身の筋肉が叫んでいる!? まさか――筋肉痛なのです!?」
――話を進めても大丈夫かね?
「先にストレッチをするのです。筋肉痛は怖いのです」
なにもない空間、妖精は羽根を動かして浮かびながらストレッチを開始した。
足を肩幅に開いて、腰を曲げ、股のあいだから背後を見るような姿勢になった。
――貴様、案外柔軟だな……
「妖精さんは肉体と対話することにより柔軟性を手に入れたのです」
――そうか。話を進めてもいいかね?
「あなたは誰なのです?」
――私は筋肉だ。いいか、覚えておけ。名乗るのは二回目だ。
「筋肉!? 筋肉が妖精さんに話しかけてきているのです!? まさか、そんなことが!?」
――さっきは一瞬で気付いたではないか……
「さっき?」
――貴様との会話がめんどうになってきたので、さらばだ。
「ああああ! お待ちを! 妖精さんは筋肉さんとお話をしたいのです!」
――そうか。私は筋肉だ。この名乗りは恥ずかしいので、二度と聞くな。
「覚えておくのです!」
――いいか、一度しか言わないからよく聞け。
「一度しか言わない!」
――貴様の動画についていたコメントによれば、有酸素運動は脳を活性化させるらしい。
「?」
――つまり、運動すれば、頭はよくなる。
「!?」
――なぜおどろくのだ。頭をよくしたくて筋肉を鍛えていたのではないのか?
「そうだったのです!? 妖精さんは頭をよくしたかった!?」
――よくしたかったのだ。
「……そういえば、最近はなんで妖精さんは筋トレをしているのかわからなくなる瞬間があったのです。そう、頭をよくしたかったからなのですね……! やはり筋肉さんは頭がいいのです!」
――ただし無酸素運動ではなく、有酸素運動が有効という話だ。
「ゆーさんそうんどー!」
――呪文ではない。あとついでに言うが、『プロテイン』も呪文ではない。
「プロテインはタンパク質のことなのですよ? 妖精さんでも知っているのです。呪文なわけがないのです。呪文だと思う人は頭がよくないのです」
――……
「筋肉さん!? パンプアップが足りなくてしゃべれないのです!?」
――いや。私は筋肉だが、少し悲しくてな。
「あわわわ……筋肉の悲しみにはどのビタミンがきくのです?」
――ともかく、マラソンをしたり、ウォーキングをしたり、長い時間をかけてじっくりとできる運動を行うのだ。そうすれば……
「そうすれば?」
――貴様の頭は、きっとよくなる。
「!」
――今よりは。
「今よりは!」
――だからこれからは、腕立てやスクワットよりも、歩いたり走ったりするのだ。
「わかったのです! 妖精さんは歩いたり走ったりするのです!」
――頭がぼんやりしたらスクワットをすると効果があるらしいから、それは続けてもいいぞ。
「スクワット!」
――ではな。よき有酸素運動を。
「ああ、筋肉さん! 筋肉さん、行ってしまうのです!?」
――私は貴様の筋肉だ。しゃべることができなくても、貴様のもとにずっといるさ。
「筋肉さん……!」
――貴様が困った時、また私が貴様にアドバイスをするかもしれ……ええ……またやるのかね、これ?
「筋肉さん?」
――まあ、なんだ。困ったらまたしゃべるが、それまではがんばりたまえ。
「がんばるのです!」
――続ければ貴様の努力はいずれ報われる。自分を信じろ。
「信じる!」
――いつも貴様の骨を支える、筋肉の提供でお送りした。
「筋肉!」
▼
妖精が目覚めると、場所は吸血鬼の部屋に戻っていた。
応接用テーブルの上で、どうやら腕立て中に眠ってしまったらしい。
そばにはソファに座って木製の歯車を削る、メガネをかけた吸血鬼と――
いつも優しくしてくれる、片目を黒髪で隠したメイド服姿の少女、眷属がいた。
「……きゅ、吸血鬼さん! 妖精さんは筋肉なのです!」
「そうか」
吸血鬼は静かにうなずく。
すべて見通しているような穏やかな目だった。
妖精もなんとなく力強くうなずく。
そして、立ち上がった。
「筋肉の声を聞いた妖精さんはウォーキングをしてくるのです。ゆーさんそうんどー!」
「そうか」
「さよならなのです! ゆーさんそうんどー!」
妖精が歩いていく。
テーブルを歩いて降りようとしたものだから自然落下しかけたが、途中で羽ばたいて事なきを得た。
そしてカーペットの上に立つとまたウォーキングを開始し、
「ゆーさんそうんどー!」
高らかに叫んで、部屋を出て行った。
吸血鬼は妖精が通り抜けたあと、ペット用扉がパタンと閉じたのを確認する。
そして、ため息をついた。
「……すごいな、本当に筋肉の声を聞いたと思っているようだ。お前の言う通りだったようだね」
「…………」
男性の横で眷属がうなずく。
男性はもう一度、大きな息をついた。
「これで私の罪の意識も、どうにかぬぐえたよ。いや、お前に相談してよかった。『筋肉のフリをする』という作戦は、私の頭では出てこないからね。妖精も満足そうだし、なにより、よく妖精の動画についたコメントに気付いたね?」
「…………いつも、みてる、です。どうが」
「あいつのがんばりが的を外しても方向性は合っていたことがわかって、私もホッとしたよ。よかった、運動で頭はよくなるんだ」
「…………きおくりょくが、どうとか」
「……まあ、運動がまったく知能に関係がないわけではないという説があるだけでも、救われるよ。心がね。実際にどうかは――重要ではないな。うん」
「……」
眷属は静かに微笑んだ。
そして――
「…………やくどうする、にく。がんばれ、にく」
「……食べてはいけないからね?」
「…………」
眷属は何度も何度もうなずいた。
男性は『監視の強化が必要だな』と静かに思った。




