143話 吸血鬼は岩
「おじさん、おはようございます!」
ガッシャアアア!
カーテンが引き開けられ、朝の日差しが室内に降り注ぐ。
男性は天蓋付きのベッドでむくりと上体を起こして言った。
「おはよう聖女ちゃん。今日は早いね」
そう言う男性の目がしょぼしょぼしているのは、日光で焼けたからだ。
男性は吸血鬼である。
陽光に弱く、変身能力を持ち、血を吸う鬼――すなわち怪異。
かつては夜の世界に君臨し、あまねく人々に恐れられた人型怪異の王たる存在であった。
しかし今、吸血鬼をはじめとする怪異は『いないこと』になっている。
なので男性が世間に出て『自分は吸血鬼だ!』と声高にうったえても、世間は『吸血鬼を名乗る謎のおじさん』を見る目を彼に向けるであろう。
まあ、そもそも――
男性はヒキコモリなので、外に出ない。
その昔はカーテンを開けることさえしなかったほど、外の世界と隔絶した暮らしを送っていたのだが……(たまに開けると遠足に来た子供に見られたりして居心地が悪いので)
聖女がこの城に通うようになってからというもの、男性の部屋には毎日のように新しいお日様の光が降り注ぎ、男性の体をリアルに焼くようになっていた。
夜型生活を送っていたのも今は昔、最近はかなり朝早く目覚めるようになっている。
なので聖女に起こされることもまれになっていたのだが……
「おじさん、今日はお寝坊さんですね」
聖女はカーテンを開けきると、陽光を背に男性へと振り返った。
輝くようなピンクブロンドの髪を持つ、元気そうな少女だ。
服装はやや厚ぼったいローブなのだけれど、不思議と快活そうな印象を損っていない。
髪と同じ桃色の瞳で男性を見て、聖女は首をかしげた。
「昨夜は遅かったんですか?」
「ああ、うむ……どうだったかな……昨夜はなにをしていたか、あまり記憶にない……」
「お酒でも飲まれたんですか?」
「いや、最近はめっきり飲酒もしていないはずだが……」
男性はベッドで上体を起こしたまま、額に手を当てた。
昨夜。
この、時間にして半日も経っていないはずの、ごく最近のことが、記憶にないのだ。
まるで何ヶ月も前のことを思い出そうとしているかのように、もやがかかる。
「……聖女ちゃん、私はね、なんというか……日々をつれづれなるままに生きているのだよ」
「はあ」
「君は朝からぎっしり予定が詰まっているようだが、私の一日はね、そういった、せわしなさとは無縁なのだ。そう、優雅……私は、優雅たらんと心がけ、日々を生きているからね」
「……はあ。なるほど。ようするに、寝る前に自分がなにをしていたか、全然思い出せなくて戸惑っていらっしゃるんですね」
「いや。思い出せないとかではなくてね……そう、私ぐらいの年齢になれば、生きることそのものが手癖のような感じというか……」
「おじさん」
「……なにかな」
「脳を止めて生きると、認知症が早まりますよ」
聖女の発言にはいつだってパワーがある。
突かれたくない部分をえぐってくる感じだ。
「認知症予防には細かい作業がいいと聞きます。幸いにも、おじさんは、ぬいぐるみ作り、木工、絵画、音楽にいたるまで多数の趣味があるようですから……」
「待ちたまえ。私が認知症をわずらいかけている前提で話を進めるのはやめなさい」
「おじさん」
「なんだね」
「人はみな、認知症になる可能性を秘めて日々を生きているんですよ。年齢は関係ありません。ふとした瞬間にわずらっていることがある……それが、認知症なのです」
「私は人ではない」
「おじさんは吸血鬼です」
聖女は真剣な顔で述べた。
そう、現代では『いないもの』扱いである吸血鬼の存在を、なんやかんやで認めさせることには成功したのだ。
現状、『吸血鬼だからどうした』という対応しかされていない感じだが……
「たしかにおじさんは、人とは違うのでしょう……」
「そうだとも」
「しかし、人ではないから、認知症をわずらわないというわけではないでしょう」
「いや……」
「おじさん、おじさんの寿命はまだまだ続くのでしょうね」
「そうだろうね」
「人よりはるかに長い人生を、認知症で過ごしたくはないでしょう?」
「…………そうだね」
「だから、『自分だけは大丈夫』などと思わずに、どうか、ご自愛ください。おじさんがもし、なんらかの病気になってしまったら、苦労するのは眷属ちゃんなのですよ」
「……」
反論の余地を探して、男性は押し黙る。
そして、口を開く。
「そうだね、言う通りだ」
「だから日々気を付けて生きていきましょう。さしあたっては、前日の夕食などを毎日思い出す訓練をして……」
「食べていないのだが……」
男性は小食であった。
嗜好品としてお茶を飲みデザートを食べることはあるが、主なエネルギー源はニワトリの血である。
それも毎日摂取しなければいけないということはなく、最近はもう月に一度ぐらいのペースで事足りる。
「おじさん、食が細くなるのは、運動不足が原因だと思います」
「まあ、運動は不足していると思うがね」
「一時間以上座りっぱなしでいたりしませんか?」
「いるね」
「よくないですよ。最近はケイタイ伝話にも『座りすぎ警告機能』が備わっていまして……そういった細かなことを積み重ねて、健やかな人生を長く……」
「聖女ちゃん、君の言うことはまあ、もっともだと思うよ」
「ありがとうございます」
「けれどね、『健やかに長く』だけが、本当に、いい人生かな?」
「……どういうことですか?」
「いやなに、人には、己の一生をどう使うか選択する権利があると思うのだよ。……君たち若い世代はあまりピンと来ないかもしれないが、私は、吸血鬼だ。吸血鬼というのはね、本来、人類の敵なのだよ」
「……」
「その私にとり、『運動』というのは、すなわち、『人を襲う』ことを指す……わかるかね」
「そんな、おじさんは……」
「いや、偽らざる事実だ。まあ聞きなさい。……私は、私の意思で、人を襲うことを――『運動』をやめた。それが原因で不健康になろうとも、それは、私の選択した『人生』だ。後悔はないさ」
「いえ、おじさん……あのですね、」
「いやいや。いいんだ。いいんだよ聖女ちゃん。……なにかを得るために、なにかを捨てなければならない。ならば私は、信念により得るものを選ぶ。その結果でなにかを失ったとして、後悔はしない。それは、『健やかで長い』人生につながる選択ではないかもしれないが、それでもだ」
「ですがおじさん、」
「朝から長い話をしてしまったね。まだお茶も振る舞っていない。さあ、ソファへおかけなさい。今、眷属に持ってこさせよう」
「おじさん、あの、そんな大それたことではなく、ストレッチでも習慣にしてくださいというお話なのですが」
そう言われそうな気がしたから言葉を遮っていたのだが……
男性は『話を振る』というスキルが低く、話題が思いつかなくなった間隙をぬわれてしまった。
「……聖女ちゃん、正直に話そう」
「はい……?」
「君たち若者はね、新しいことを次々始める。しかし――私ぐらいの年齢になると、『習慣を増やす』というのが、とてつもない難易度になるのだよ」
「……」
「物事を始めるには『情熱』が必要だ。続けるにもまた、必要となる。ところがね、情熱は歳とともに上限が減り、増えることはない」
「……以前に似たようなお話はうかがいましたが……え、えっと、そんなに大変なことをしろと申し上げてるわけではないんですよ? 日に五分ぐらい、ストレッチしていただけたらなって、その程度で……」
「五分か」
男性は口の端を上げて笑う。
白い無精ヒゲの生えた顎に、妙なシワができた。
「『日に五分』『日に三分』――広大なネットの海には、そのようなうたい文句が数限りなく転がっている。私はケイタイ伝話でその海を航海し、浮島のように散らばるそれら情報にアクセスした」
「使いこなしてますね……」
「なるほど、一日という時間と比較すれば、たった五分というのは、いかにも短い時間に思える。まして私は日々を優雅に過ごしている……分刻みのスケジュールというわけではなく、なんらかの〆切を抱えているわけでもない。五分程度の時間、いかようにも捻出できるだろう」
「はい、そうだと思って……」
「しかし君は、知らないようだね」
「……なにをですか?」
「新しい物事を始める時――たった五分の習慣を始める時、『よし、始めるぞ』という覚悟をかためるのに、数日から数週間かかるのだ」
「えええええ!? た、たった五分の習慣を始めるのに、なんでそんな覚悟が……!?」
「年齢を重ねた者の腰の重さは、おそらく、君の想像をはるかに超える」
「……」
「君らの心は綿だ」
「……わた?」
「吹けば飛ぶ。落とせばしばらく宙を舞う。風に合わせて、あちらにゆらゆら、こちらにゆらゆら……そういうしなやかさと、軽さがある。それに比すれば、我らは岩だ。いや、金属かもしれない。長年地面にあり続け、土にめりこみ、押されてもなかなか動かない、重々しい大岩なのだ」
「……」
「君らが『ちょっとだけ右に動こう』と思えば、それはまあ、綿なのだから、ほんの一息吹かれるだけでいいだろう。ところが我ら岩は、そうはいかない。動かすのに、人々に呼びかけ、音頭をとり、覚悟と協力をもってあたらねばならない」
「……」
「今のは『たとえ話』だが……君たちと、我らと、『新しい習慣を始める初動』にかける熱量には、そのぐらいの差異があると思ってほしい。そして、その『熱量』――『情熱』の上限は、年齢とともに目減りしていくのだ」
「……な、なるほど……わかるような、わからないような……」
「わかるかね。君たちが言う『たった五分』は、我らにとって、『数週間の覚悟の末の五分』なのだ。軽々に始められるものではない……」
男性は切なげに視線を落とした。
「……だがね聖女ちゃん。たまに、不思議なことが起こるのだ」
「不思議なこととは……」
「心が燃え上がる瞬間、というものがある」
「なんですか、それは?」
「うむ。直前までなんの興味もなかったことに対し、いきなり興味が出て、『初動にようする覚悟』などすっ飛ばして、いきなり始めてしまうことが、ありうるのだ」
「そうなんですか?」
「うむ。これが不思議なものでね……その状態になれば、我らの心は羽となるのだ。綿ほどには軽くないかもしれないが、それでもどうにか、風をつかみ、軽く舞う、羽になる」
「じゃあ、ストレッチも、その……羽? の心で挑んでいただければ……どうしたら羽になりますか?」
聖女が身を乗りだしてたずねてくる。
男性はベッドの天蓋に視線を上げてから、フッと息をついて、
「それがわかれば、苦労はしないんだがねぇ」
男性は笑う。
そう、心の重さは、制御不能……
己にさえ予想もつかぬものなのだった――




