135話 吸血鬼には聴こえない
「うーむ……」
テーブルの上に置かれたケイタイ伝話を見て、男性はうなっている。
「うーむ……」
白い眉のあいだに刻まれたシワは先ほどから深さを増す一方だ。
赤い瞳は細められ、ケイタイ伝話の画面に釘付けとなって動かない。
そんなタイミングで、部屋の扉が開かれる。
「おじさん、おはようございます!」
聖女の声だ。
男性はようやく来客用ローテーブルの上に置いたケイタイ伝話から視線を外した。
「おはよう聖女ちゃん。今朝は遅かったようだが、なにかあったのかね?」
「実は朝の訪問中に、いつも行くおうちのおばあちゃんからお漬け物をいただいたので、神の子院に届けてから来たんです」
「なるほど。君は私の家以外もずいぶん回っているのだったね」
「それが聖女のお役目ですから!」
「精力的で結構なことだ。……座りなさい。飲み物でも用意しよう」
「ありがとうございます。失礼します」
聖女が男性の正面に腰かける。
と、どこからともなく黒髪で片目を隠したメイド服の少女が現れ、透明な容器に入った冷たい紅茶を聖女と男性の前に置く。
メイド少女は一礼すると部屋の隅に移動した。
「……あの、眷族ちゃんも一緒にお茶とかしないんですか?」
「あれは基本的に水分は果物でとるからね」
「はあ、なるほど、色々あるんですね……あ、そうだおじさん、なにか難しい顔をされていたようですけど、どうされたんですか?」
「見られていたのか」
男性は口の端を上げる。
聖女が来てからは取り繕ったつもりだったが、取り繕う以前の一瞬をしっかり目撃されてしまったようだった。
めざとい聖女なのだ。
「いやなに、実はね、ドラゴンにすすめられて、歌を聴いていたのだよ」
「ドラゴンって、ワンちゃんの名前ですよね?」
「…………ああ、そうか。あいつはまだ君の中で犬なのだったね。まあ、君の言うところのワンちゃんがドラゴンで間違いはないが、アレも犬ではなく……」
「……」
「まあいい。気が向いたら本人に説明させよう。……それよりもだ。若者に流行しているという歌を聴いていたのだよ」
「どんな歌ですか?」
「ニンゲンが歌っていない歌だ」
「……ああ! 『仮想歌姫』の」
「そうそう。なにかこう、緑色の、空想上の歌手? というのかね。どうにも新しい概念が増えすぎていて、私としては概念取り入れがおっくうなのだが……」
「わかりますよ。仮想歌姫神音のミキですね」
「……とにかくそれだ。それの歌を聴いてみたのだ。なんでも『歌詞がエモい。貴様にエモいというものを感じ取る感性があればわかるであろう』と妙に挑発的なすすめかたをされて」
「すすめた方とは仲良しなんですね? ……そういえば、このお城にお友達が同居していらっしゃるんでしたっけ?」
「……そのあたりはややこしいので、今はおいておこう」
普段であれば男性は喜んで会話を横道に逸らすのだが……
今は新しい文化に触れていたせいで、疲れが強かった。
早いところ本題に移ってしまいたい気持ちなのである。
「……まあとにかく。まあまあとにかくだ。……その仮想歌姫の歌を聴いていたのだよ。エモさとかいうのを知るために。……ところがだ、問題が発生した」
「まあ、エモいっていうのはわからなくても別に……」
「そこではないのだ。……そこ以前というか……」
「以前?」
聖女が桃色の瞳を揺らして、不思議そうな顔になる。
男性は赤い瞳を伏せて、たっぷり十数秒もためらいがちに沈黙してから――
「……聞き取れないのだ」
「…………ええと、どういうことですか?」
「その仮想歌姫の歌声が、聞き取れない。歌詞がどうこういう以前の問題なのだ」
「……」
「特に高音域が聞こえない。基本的に高い音域で歌うので、半分ぐらい聞き取れないのだ」
「…………あの、おじさん、一般論ですが……」
「なんだね」
「年齢を重ねると、だんだんと高音域が聞き取りにくくなっていくようですよ」
「私は吸血鬼だ」
男性は吸血鬼である。
その姿は壮年ではあるものの、身体機能は一般壮年男性とは比べものにならない。
もちろん心肺機能、運動機能は言うまでもなく――
味覚、視覚、聴覚なども、老境にいたることによる感度の減衰はないのだ(あったという記録はない、という意味)。
「聖女ちゃん、今の世には『吸血鬼』だの『ドラゴン』だのがいないことになっているからわかりにくいかもしれないが……吸血鬼はね、老いないのだよ。私の見た目はなんというか……私の趣味でこうなっているだけで、身体機能ならば、若者よりも上なのだ」
「しかしおじさん、『老いた吸血鬼』のお知り合いは?」
「……昔はいた。しかし、衰えているという話は聞いたことがない」
「おじさん」
「なんだね」
「自分の衰えというのは、自分では気付けないし、認めたくないし、認めたとして他者には言いたくないものです」
「…………」
「その年上の吸血鬼さんも、本当は老いていたし、自覚もあったけれど、年下に『老いてる。最近運動した時に疲れがたまりやすい』とか言いたくなくって、おじさんの前では無理をしていた可能性はあるでしょう?」
「……い、いや、しかし……吸血鬼なのだが……」
「でも実際、高音域が聞こえなかったわけでしょう?」
「……」
反論の余地もなかった。
こう――『様々な音が重なったハーモニーの中で歌詞を述べているであろう高音域の音だけ聞こえない』という状態なのは、たしかなのだ。
たぶん大サビの大事な歌詞なのだけれど、聴覚から消えてしまって、追えないのだ。
「……い、いや……いや、まあ、なんだ……私は老いを認めるよ。認めるがね? それはあくまで精神の老いであって、身体能力の方は衰えてなどいないはずで……」
「わたしとおじさんのあいだに信頼関係があると思ったうえで、述べさせていただきますが……」
「……なんだね」
「事実、高音域が聞き取れないのに、それを認めないのは、あまりよろしくありませんよ」
「……しかしだね? ……そう、相性! 仮想歌姫の歌声と、私の聴覚との相性があまりよくないだけかもしれないではないか。ヒトとは少し違った声だものな」
「おじさん、自分がなにかをできない時、『できない原因』をすぐ相手に求めてはいけません」
「……」
「高音域が聞こえないのは、別に悪いことではないんですよ。恥ずかしいことでも、ないんです。普通のことなんです」
「しかし『年齢を重ねれば高音域が聞こえなくなる』のはニンゲンの普通だろう?」
「たしかに吸血鬼の生態は存じませんが、聞こえない事実は、事実として受け止めましょう。大事なのは『そんな事実はない』と意地を張ることではなくて、事実を認めた上で対策をすることなのです。……高音域を聞こえない程度で、誰もおじさんを責めたりバカにしたりはしません。少なくとも、わたしは、しません」
「……むう」
言われていることは正しいのだけれど、腑に落ちない。
いや、これは腑に落ちないのではなく――
「……なんということだ。私は、認めたくないのか……?」
愕然とした。
そう、論理的な根拠はなにもないのだ。
ただ『老いて高音域が聞き取れなくなった』という事実を、感情が拒否しているだけなのだ。
優雅たれ――男性はそう己に言い聞かせて生きてきた。
優雅とはなにか?
それは、『余裕を失わないこと』だ。
ところがどうだ、今の自分は!
根拠もない、ただの意地を、こんなにも必死に貫き通そうとしている!
聖女の『加齢による衰えでは?』という仮説を、なんら論理的ではない感情で否定しようとしている!
この振る舞いようは、とても優雅とは言えない。
男性は三度、深い呼吸をして、己を落ち着かせる。
「……すまなかった。取り乱したようだ」
「いえ。この手の問題は、みなさん最初は認めたがらないものです。わたしの方でも、もう少しやんわりと諭すことができればいいのですけれど……みなさん『若者に歳を指摘された』というシチュエーションの時点でかたくなになってしまわれるようで、こればかりは年齢を重ねないとどうにもならないみたいなんですよね……」
「なるほど」
たしかに、と男性はうなずく。
『男性が、若い女性に老いを指摘される』――このシチュエーションで冷静に己の老いを指摘通りに認めるのは、なかなかに難しいのではないかというのは(筋道たてて他者に説明するのは難しいが)心情的には理解できる。
「……なるほど、世界には『どうしようもないこと』があふれているようだね。老い然り、そのほかの……まあ、色々だ。それだけヒトや我らが知的に発達した生物であるという証左とも言えるのだろうが」
「これが『高音域が聞こえない』ぐらいならいいんですけど、耳がほとんど聞こえないのに認めたがらない方とかもいらっしゃいまして……できればわたしも指摘はしたくないんですが、災害などの時に、そういう事実を神殿側も本人側も、本人のご家族も知っておかないと、手遅れになってしまう場合がありますからね……」
「なるほど。指摘される側はもちろん、指摘する君の側もストレスがかかるだろうね……」
「でも、神殿はみなさんの安全と健康的な生活のためにありますから。『人が人として健やかに生き、暮らすことのできる社会の実現』は神殿の目的の一つなんですよ。……いざという時のためにも『己を正しく認識すること』は大事ですから」
「なるほど」
己を知る。
……それは不可能なことなのかもしれない。生きれば生きただけ色々な『己』が顔をのぞかせるし、そのすべてが自分のようでいて、そのすべてが自分ではないようでもある。
男性は六百年を生きた。
だが、どうだ、己を知ることができているかどうか、自信はない。
今とて聖女との会話を経て、知らなかった己の一面を明らかにされたばかりなのだ。
ただ一つ。
己の中でたしかなことがあるとすれば、それは――
「――意地、プライド、羞恥……ヒトの感情がうずまけば、それだけ物事が複雑化する。ロジックだけでは解決できないことも増えるのだろうな」
「はい。仰るとおりです」
「うむ」
男性は笑いながら、思うのだ。
ああ――
やっぱり、そんな感情のうずまく社会に出るのはやめた方がいいな、と――
――吸血鬼は、六百年生きて、一つの真理を得た。
ヒキコモリは、最強だ。




