134話 吸血鬼は理想郷を描く
「ふむ……なるほど」
男性は一冊の書物を読み終え、パタンと閉じた。
しばしその内容を反芻するかのように目を閉じ、座っているソファにゆったりと背中をあずける。
「おじさん、おはようございます!」
しばらく静かな時間を過ごしていると、ドアが開かれ、聖女が姿を現した。
男性は「入りなさい」と招き入れ、対面の来客用ソファをすすめる。
聖女は「失礼します」と言い、男性の正面に腰かけ……
「おじさん、本日もずいぶん早起きですね?」
「ああ。実は昨日の夜、眠る前に読んだ本の続きが気になってね。徹夜してもよかったのだが……」
「それはいけません! 体を大事にしてください!」
「……そう言われると思って、やめたのだよ」
男性は犬歯と呼ぶにはあまりに鋭い歯をのぞかせ、笑う。
男性は吸血鬼である。
その生物は『いないもの』扱いされてはいるが、お伽噺の登場キャラクターとしてはあまりに有名だ。
再生能力、吸血能力。
ニンニクや流水などの弱点も物語には残っているが……そちらは、男性ほどの力があると大して弱点とは呼べない(というかニンニクはそもそも弱点でもない)。
そして見た目こそ壮年から老年といった男性だけれど、その体力はなみの若者をはるかにしのぐ。
いかな睡眠を必要とする種族であろうとも、一徹ぐらいなんともないというのが正直なところだったし――
聖女だって、今は男性が吸血鬼であると認めているはずなのだが、
「『徹夜してまで約束のぬいぐるみを仕上げた』と思われるのが癪だったからね。……君から依頼されたぬいぐるみは、余裕をもって、優雅に仕上げている」
言いながら、男性は来客用ローテーブルの上にあった、『ベルの描かれた短い円柱形の物体』……『ファミレスのアレ』を押した。
すぐに城内には人工的な呼び出し音が鳴り響き、ほぼ同時、男性の部屋の扉がノックされ、開かれた。
現れたのはメイド服をまとった少女だ。
その黒髪で片目を隠したこだわりヘアの女の子は、男性の眷族――血を分け与えた従僕である。
その従僕は両腕をいっぱいに使って、巨大なぬいぐるみを抱えていた。
『骨だけでできた竜』としか形容できないデザインのぬいぐるみだ。
「アレが、君の依頼で私が手ずから作製したものだ。さあ、受け取りたまえ」
眷族が、聖女にぬいぐるみを突き出す。
聖女は、
「ありがとうございます、おじさん! よ、予想よりだいぶ大きいですね……!?」
「なに、君に見せられた映像にあったこのキャラクターは、巨体を誇る生物のようだったからね。これだけ大きければ、幼児視点では『実物大』の迫力を感じることであろう」
「わたし視点でも実物大の迫力がありますよ! ……あ、でも、受け取る前に一ついいでしょうか?」
「なんだね?」
「ぬいぐるみを抱えた眷族ちゃんを撮っても?」
「……『撮る』? 動画にするのかね?」
「いえ静画ですけど」
「……まあなんだかよくわからないが、私ではなく眷族の許可を――」
男性が眷族の顔に視線を向ければ、そこには鼻の頭にシワを寄せ、唇を突き出し、目を半眼にした表情があった。
クソみたいにイヤそうな顔だった。
「――許可はまあ、とれなさそうだが、いちおう、意見を聞いてみなさい」
「眷族ちゃん、写真、いい?」
眷族は無言のまま、ぬいぐるみを聖女に押しつけて去って行った。
聖女は苦笑を浮かべ、
「……恥ずかしがり屋ですね、相変わらず」
「アレは恥ずかしがり屋とは少し違う気もするがねぇ。……なににせよ、依頼は果たした。ご満足いただけたかね?」
「もちろんです! 重ね重ね、ありがとうございます! おじさんのプレゼント、きっと渡す子も喜びますよ! これを機におじさんも、外に出て色々な人と――」
「しかし、働くとはいいものだね。私もこれを機に、もっと他者と接してみようという気になってきたよ」
「!?」
聖女は固まった。
それはそうだろう――ヒキコモリであることに誇りさえ抱いているような男性が、いきなりこんなことを言ったのだから。
「お、おじさん? 突然どうしたんですか……!?」
「なにをおどろくね? 君は、以前から、私が外に出たくなるよう仕向けていたではないか。それが実を結び始めた――そういうことと思えばいい」
と、言いながら、男性は先ほどテーブルの上に置いた本を、さりげなく自分の背に隠した。
ちなみにその本のタイトルはこのようなものである。
『逆転の心理学 ~引いてダメならすごく押せ~』
「君の語る『外』は、いつでも温かいきらめきにあふれていた。……そこには夢と希望があふれ、人と人が支え合い……そして、優しさに満ち、『仲間外れ』など存在しないのだろう」
「……おじさん」
「素晴らしい世界ではないか。……ああ、認めよう。私は恐れていたのだ。五百年、世俗とかかわらずに過ごしてきた私は、外に出たところで誰にも受け入れられないのではないかと……だけれど君の語る『外』は、こんな私でも受け入れてくれそうな気がする。そう思えたのだ」
「……」
「こんな私でも……やる気がなく、義務を課せられることをなにより嫌い、他者のためになろうという意思はみじんも抱かず、協調性などありえず、他者の努力する姿を傍観し、時にあざわらい、それを至上の喜びとし、技能はあれどもそれを世間に役立てるつもりなど一切なく、独学を好み、若輩の者に教えを請うことを屈辱としか思えず、『誰からも好かれる者』を苦手に思い、他者との和を不愉快に思い、かかわりをおっくうに感じ、そのくせふとしたことで傷つきやすい繊細な心を持つ私でも! 完璧に完全に受け入れてくれる場所はきっと外にあるのだと! 私は、君の話を聞いて確信するにいたったのだ!」
不自然なまでの『希望』。そして自己卑下。
そう、男性は、狙っている……!
『外』に対して過度な希望や期待を語ることで、聖女から『いや、そこまで素晴らしいところでは』という発言を引き出そうと、狙っているのだ……!
そうして聖女がひるんだところで、『君は外の世界を素晴らしいところと語ったのに、そうか、そこまで素晴らしくはないのか……』とショックを受けたふりをし、それ以上『外に出ろ』と言われない雰囲気を作る計画なのだ。
それはあまりにも姑息な心理戦。
六百年を生きた老獪なる生物が、二十年も生きていないような娘に仕掛けるには、あまりにも卑怯卑劣な行為。
しかし――男性は、長き戦いによって学習したのだ。
聖女を格下と見るのは間違いである。
こと『交渉』『舌戦』において、あちらが強者で、こちらが弱者だ。
優雅さをたもてるのは、強者のみ。
弱者が強者に勝たんとすれば、それは泥臭く相手をゆさぶり、隙を突くことさえ厭うてはならない!
さあ、聖女よ、あきらめろ!
いかに素敵な場所であろうと言おうと、ここまでダメなおじさんを受け入れられるような場所ではないと――
『外の世界』は、そこまで甘い場所ではないと!
男性は精一杯キラキラした瞳をしつつ、聖女の反応を待った。
彼女は、少しだけ、沈黙していたが――
「おじさんのおっしゃる通りです」
「……なんだと?」
「外はすべてを受け入れます。おじさんだって、安心して生きていける素晴らしい世界が広がっているのです」
「……」
まさかの全肯定。
現実的にありえないほどの理想郷を語ったつもりだったのだが、聖女は『外は素晴らしい』とそれでも肯定した。
……だが、それも織り込み済み。
聖女から『否定』が出ない可能性など、付き合いの長い男性はとうに想定していた。
「君は本当に、『外』をそこまでの理想郷だと語るのだね?」
「もちろんです。素晴らしいことがいっぱいあります」
「すべてを受け入れる、素晴らしい世界だと! 傷つく者など一人もいない場所だと、肯定するのだね?」
「いいえ」
「……なに?」
「理想郷であることと、『傷つく者がいること』は、矛盾しません」
「……」
「傷つくことはあるでしょう。誰かを傷つけることだって、きっとあります」
「ならばそれは、私の語った理想郷ではない」
「いいえ。重要なのは、つけられた傷が癒えるかどうかであり、誰かを傷つけた人が反省し、他者を思いやれるようになれるかどうかです」
「……」
「たとえば外で一日過ごしただけで、『傷つかない、傷つけない世界』を体験することはできません。……おじさんのヒキコモリは長期にわたりますから、ジェネレーションギャップにより、恥ずかしい思いをしたりすることは、皆無ではないでしょう」
「そうだろう」
「でも、慣れることができます。一日過ごして傷ついても、一年過ごすころには、社会はきっとおじさんを受け入れます」
「……」
「わたしはおじさんに、変化をしてほしい。そして、おじさんを受け入れた社会を、おじさんを受け入れられるように変化していかせます。そのためには、外に出ることが必要なのです。社会に入らなければ、おじさんのカタチを社会にあてはめることができません」
「……」
「社会とは――ちょうどこのぬいぐるみのようなものです。押せばヘコむ、柔らかで、大きな生き物……最初、飛び込んだ時、社会はおじさんを跳ね返そうとするでしょう。けれど、ずっとかかわり続ければ、いずれおじさんの重さとカタチに社会がなじみます」
「……」
「少しずつカタチを変えて、現在まで存続しているものこそが、社会なのです。……ですから、私はおじさんに、社会とかかわってほしいのです。少しずつでも社会に触れ、社会のよさを理解して……ゆっくりでいいから、傷ついていることを感じないぐらいに傷つきながら、社会という生き物に、おじさんのカタチを覚えさせてほしいと願っています」
「……」
「最初は――性急でしたけど。……おじさん、わたしも、おじさんとの付き合いで、色々と学んでいるんですよ。おじさんのペースに――寿命の長いあなたの感覚に合わせて、ゆっくり進むことを、覚えたんですよ」
聖女は微笑む。
男性は、言葉を聞き終え――
「……フッ」
かすかに、笑った。
「……ああ、反省したよ。君に心理戦を仕掛けたのは、愚かな判断だった。交渉ごとで君に及ばないと知りながら、奇策を弄し……結果として君をあなどるようなことをしてしまったね。すまない」
「いいえ。……でもおじさん、さすがに不自然すぎますよ。いきなりあんな……わたし、知ってるんですからね」
「なにをだね?」
「おじさんが、頑固なこと」
「……フッ……ハッハッハッハ!」
男性は笑う。
これだけ気持ちよく笑ったのはいつぶりかわからないほど、大きく笑い――
「君の寿命でどこまで私を変えられるのか、俄然、楽しみになってきたよ」
「はい。わたしが死ぬまでに、おじさんを社会に出してみせます」
「君は、美しく老いそうだね」
おそらくそれは、ヒトに対する最上級の賞賛。
男性は何度目かの『胸のすくような敗北』を体験し、心が満ち足りていくのを感じた――(外には出ないけれど)




