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111話 おっさん吸血鬼と聖女

「聖女ちゃん、私は働かないよ」



 男性は開口一番に社会復帰を放棄した。

 なぜならば、最初に言っておかないとまたいつまでも言えなくなる予感がしたからだ。


『私は働かない』。

 世間にはこの文言を『言うだけなら簡単だ』と思う者もいるかもしれない。

 しかし、男性にとっては、言うだけで覚悟を要する言葉である――そういう言葉になってしまったのである。


 なぜならば、歴史があるから。

 目の前で、革張りのソファにちょこんと座り、『なにを言われているのかわからない』みたいな顔でキョトンとする、桃色髪の少女――聖女と男性のあいだには、口が裂けても『働かない』などとは言えないような歴史が、積み重なっているのである。


 案の定――

 聖女はようやく発言の意味を理解したのか、悲しそうな笑みを浮かべた。



「おじさん、どうしたんですか……? せっかく働くことに前向きになって、やりたい仕事まで見つかったはずじゃないですか……? なのに、どうして……」

「嘘なのだよ。私はやりたい仕事など見つけていないし――そもそも、働く必要もない」



 男性は笑った。

 あるいはその笑みは、今にも日和りそうな己を鼓舞するための虚勢かもしれなかったが……



「君、何度も言うが――そのたび君は信じなかったが、私はね、吸血鬼なのだよ」

「おじさん、それは……」

「妄想ではない。本当に、吸血鬼なのだ。私は五百年をこの城で引きこもり、ニンゲンを外側から観察してきた。そしてその立ち位置は、今後も変わらない」

「……」

「遠足などで城の前で騒ぐ子供たちあらば、たまに窓から顔をのぞかせ見守り、散歩で城の前を通りがかるお年寄りあらば、彼らの『老いたものだ』と己を嘆く姿を見て、その若さに微笑んできた」



 そうだ。

 男性は、ニンゲンを見つめてきた。


 吸血鬼だから。

 ヒトならざる人外――今の時代、『お伽噺の中にしかいない』とその存在を抹消された幻想種だから、ヒトを外からながめてきたのだ。……『自分とは違うもの』として。



「私はね、君たちニンゲンを好ましく思っているのだよ」

「おじさん……」

「だけれどやはり……いや、好ましく思うからこそ、君たちの社会にまじわる気はないのだ。今一度、真剣に聞いてみてくれたまえよ。私は吸血鬼で、私はニンゲンではない。だから、働く必要はないのだ」



 男性はそこで、いったん言葉を切った。

 聖女は、思い悩むように目を伏せていた。


 だが、それも一瞬のことだ。

 すぐに彼女は瞳を男性に向ける。

 その目には、決意があった。



「わかりました。おじさんを吸血鬼だと、信じることにします」



 それは――敗北宣言と、受け取ってもいいだろう。

 今までかたくなに『吸血鬼』を信じなかった聖女が、ようやく男性を吸血鬼と信じたのだ。


 男性は息をつき、ソファに深く背中をあずける。

 長い――長い戦いだった。

 ここまでの苦戦は、男性の生涯の中で初めてであり、きっと、二度とないだろう。


 勝利したあとに、思わず崩れ落ちる――そこまでの緊張感、それほどの疲労感。

『優雅であること』を行動の基本方針としている男性は、どのような苦戦であれ『勝った途端に今まで戦っていた相手の前で息をつく』などという無様はさらしたことがなかった。

 聖女は――現代の聖女は、男性が己の基本方針を一瞬忘れるほどの強敵であったのだ。


 ――だから。

 聖女の次の言葉は、死体から放たれた不意打ちも同然であった。



「でも、『吸血鬼だから』っていうのは、働かない理由にはなりませんよね?」



 男性は、一瞬、固まる。

 だが、その発言は想定されたものだと、すぐさま思い出した。


 いつかの会話――相手はドラゴンだったか――を思い出す。

『あの聖女なら吸血鬼だと認めたうえで働けと言ってきそう』というのは、わかっていたことであった。


 だから男性は落ち着き、口元にニヒルな笑みを浮かべる。

 そして――



「しかしね聖女ちゃん、私は吸血鬼なのだよ」

「はい」

「……まあ、吸血鬼だから、ほら、ね?」

「日光で燃えるんですか?」

「そうだね」

「血液が主食なんですか?」

「そうだね」

「他にも、影を操ったり、『どうぞ』と言われないとドアから入れなかったり、流水で溶けたりするんですか?」

「まあ、一部そうでもないが、おおむね、そのような感じだね」

「なるほど。でも――それらは別に、働けない理由ではありませんよね?」

「…………」



 この問答は想定されたものである。

 聖女ならそれでも、男性に仕事をすすめてくるというのは、わかっていたことだ。


 わかっていたことだが――

 特に対策はできなかった。


 だってそうだろう。

『吸血鬼なんだよ。日光に弱いんだよ。流水で溶けるんだよ。主食は血液なんだよ』。

 そこまで言ってもなお『働け』と言ってくる相手に、これ以上なにを言えばいいのか、想像などつくわけがない。



「おじさん、私がおじさんに仕事をすすめる理由は、『金銭』だけが理由ではありません」

「……」

「以前から申し上げているとおり、『社会とのつながり』こそが、仕事をする理由のうちでもっとも大きなものです」

「しかし私は、吸血鬼だからね……ヒトとまじわる気はない」

「でも、人間を好ましく思っているんでしょう?」

「……まあ、そうかな」

「好きな相手とかかわれないなんて、そんなのは悲しいじゃないですか」



 必ずしも、そうとは言えないだろう。

『見守る』という想いのカタチはあるだろうし、『かかわらない』という愛情だってあると男性は思う。


 だけれど。

 男性は――



「…………そうかもしれないがね」



 ――ここで、『かかわらないでいい』と、聖女の言葉を切り捨てられなかった。

 歴史があるから。


 聖女や、彼女の知り合いたちとかかわってきた歴史がある。

 それで己が変化していった思い出がある。


 ……なんという、ていたらくなのだろう。

 ようするに――


 今まで孤独を楽しんでいた人外は。

 ほだされて、『孤独でない暮らし』を――その楽しさを知ってしまったということなのだ。



「……しかしどうするね? 私は吸血鬼だ。たとえ君が未だ『信じるという方針でいる』だけであろうとも、『私が人外である』という動かしがたい事実はたしかにあるのだ。生物として違うことは、必ずや軋轢を生むだろう」

「でも、おじさんはいい人です」

「……それは、君が見ている私の一面にすぎない」

「一面だっていいんです。そういう一面を私に見せられるなら、他の人にだって見せられるはずですから」

「……」

「それに、軋轢なんて誰と誰のあいだにだって起こり得ます。人と人のあいだにだって、普通に軋轢は起こるものなんです」

「君と誰かのあいだにも、起こるのかね?」

「しょっちゅうですよ」



 聖女はおかしそうに笑った。

 そして――



「私は聖女ですけど、聖女は仕事でやってますから。お伽噺の中の『聖女』ではありません。私はケンカだってしますし、言い争うことだってあります。だって生きてますから」

「……まあ、そうなのだろうがね。普段の君を見ていると、どうにも想像がつかないのだが」

「それはおじさんが、優しいいい人だからです」

「……君は私を褒めるがね、私はどうにも、そのような賛辞を受け取るのがうまくない。賛辞には裏を疑ってしまうし、賞賛にはなにか手痛い一撃が潜んでいるのではないかと思ってしまうのだよ、私はね」

「違います。賛辞じゃないんです。『いい人』は、『都合がいい人』なんです」

「……」

「話してて楽しかったり、一緒にいてくつろげたり、私にとってそういう、『都合のいい相手』が、おじさんなんですよ」

「……一緒にいてくつろげる相手を『都合のいい人』と表現するのかね? それは少し、なんというか……もうちょっといい表現もあるだろうに」

「そういうことを言ってくれるから、おじさんはきっと、社会でも人に好かれる人だと、私は思うんですよ」

「どういうことかね?」

「『一緒にいて楽しい人』を『都合のいい人』と呼ぶのは、別に間違いではありません」

「……いやあ、だからそれは」

「言葉のうえで、間違いではないんです。でも、ニュアンスが間違って聞こえるんです」

「……そうだね」

「そういう『ニュアンス』に気を配れる人は、人とうまくやれる人だと、私は思っています。だって気遣いができるし――他者を『都合がいい』と表現することに違和感を覚えるなら、他者を大切にできると思うから」

「……細かいところを見ているのだね、君は」

「人付き合いは、『信念』とか『主張』とかよりも、細かいところばっかりで成り立っているものですから。『社会に出てほしい』とすすめる以上、適性があるかどうかを見るのには、やっぱり細かいところを見るのが一番いいんです」



 聖女は当然のことのように言った。

 ……やはりというかなんというか、『コミュニケーション』というスキルにおいて、聖女は男性よりかなり高みにいるようだ。



「おじさんは吸血鬼です」

「…………そうだね」

「だから、他者と違いますが、他者と違うところは誰にだってあります。差異が大きければ配慮が必要になりますが、反対に言えば、配慮をする程度で人とかかわることができます」

「そうは言うがね……」

「配慮を受けるのは、特別なことでも、恥ずかしいことでもありません。『配慮とは認識しにくいように配慮されている』だけで、生きているだけで誰かに気は遣われています」

「……たしかに、そうかもしれないが」

「だから、おじさんは、吸血鬼でも――日光で燃えても、流水に触れられなくっても、働いて社会とつながることはできるんです」

「うむ……」

「だから働きましょう。働くために、教えてください、吸血鬼のことを。あらゆる長所と短所を見つめたうえで、おじさんにもっとも適した『社会とのつながり方』を提示してみせます」

「…………」



『聖女は男性のことを吸血鬼だと認めたところで働けと言ってくる』――想定していたが、想定以上だった。

 男性はせいぜい『吸血鬼? それはいいから働こう』的なごり押しを受けると思っていた。


 今のもまあ、ごり押しはごり押しなのだが……

 想像よりもきちんと向き合われてしまっている。


 男性は吸血鬼である。

 ならば、それが『他者とどういう差異があるのか』を見つめたうえで、社会とかかわらせようとしてくるのだ。



「……私が城の外で活動していたころ、『聖女』と言えば、『神の敵を殺す者』だったのだがねえ。いいのかな? 我ら『幻想種』は、『神が生み出したという記述のない、存在してはならない生物』と、君たちの教義ではなっていないのかね?」

「神様だってメモを忘れることはあるでしょう」

「……」

「それに、神様は『昔の人』なので。現代を生きる我々は、その都度その都度、現実に合わせた対応をしていかなければいけません。おじさんを吸血鬼だと信じるということは、吸血鬼がいるという、神様の記さなかった現実に対応していくということです」

「……ハッハッハ」



 男性は笑うしかなかった。

 色々な感慨が胸中にはうずまいている。

 それら全部を一言でまとめると、ようするに――



「時代は変わったものだねえ」



 久々に煙管(タバコ)を吸いたい気分だった。

 なるほど、歳をとったものだ――男性は思う。


 そして、歳をとったという実感をして、まったく悪い気分ではない。

 それどころか、いい気分だ。



「おじさん、そういうわけですから、吸血鬼でもできる仕事を探しましょう」

「……ハッハッハ」



 笑うしかなかった。

 男性は改めて、頭を働かせる。

 だって、吸血鬼だと認められたうえで、ここまで真摯に向き合われるとは思っていなかったから。

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