110話 吸血鬼、振り出しに戻る
「このままではいけない気がするのだ」
男性はソファに浅く腰かけ、組んだ手の上に顎を乗せてつぶやいていた。
暗い部屋だ。
すでに夜も深いというのに、明かりの一つもない。
それでも男性には部屋の状況が手に取るようにわかった。
自室だから――そういう当たり前の理由ももちろんあるだろうが、そればかりではない。
男性は吸血鬼である。
様々な能力――『闇夜を見通す目』など――を持った、ヒトならざるモノ。
現代では『お伽噺にしか登場しない』とされる、幻想生物なのである。
その幻想生物は、今――
――仕事に就くことを強く求められていた。
「ドラゴンだったか、眷属だったか……誰かも言っていたが、私はたしかに『社会性』を手に入れ始めているのだろう。それがいいか悪いかはおいておくにしても、眷属と二人ただ目的もなく引きこもっていた時期からは、間違いなく変化している」
男性は誰かに語りかけているような口調で話す。
けれど、ローテーブルを挟んだ対面のソファに誰かが座っているわけではない。
男性の視線は、ローテーブルにそそがれていた。
正確には――そこに乗る、ツボに。
「ミミックよ」
――……
ツボは語らない。
当たり前だ、ツボが語ってたまるか。もしそんなことがあれば怪奇現象だろう――第三者がいれば、そういうまともな突っこみをするかもしれない。
だが、男性だって、ツボがしゃべらないことぐらいわかっている。
語りかけている相手は、ツボの中にいるのだ。
「すまないね、いい年齢の男が、このようにうじうじと悩んで……しかし、この城に住まう者で、こんなことを言える相手は、君ぐらいしかいないのだよ」
――……
「君にとってはつまらない相談かもしれないが、まあ、しばし聞いてくれ」
――ウネッ。
ツボの中から、オレンジ色の触手の束のような、冒涜的でおぞましい生き物が、少しだけ姿をのぞかせる。
これこそが『ミミック』と呼ばれる、『存在しないはずの化け物』――ようするに現代で言うところの『幻想種』である。
このミミック、『他者をおどろかせる』という生態を持っている。
なので通常、ツボから出る時は、勢いよく飛び出してくるのだが……
知能が高く、空気を読んでいるのだろう。
『いいぜ、相談に乗るよ。俺でよければな』とばかりに、静かにその姿をさらし、相手の言葉を待つように黙ってウネウネするのみであった(もともとしゃべることはできない)。
「ヒキコモリを決意してからというもの、私は自然の一部だった」
――……
「ああ、もちろん、ドラゴンがかつて罹患したような『自然派だった』という意味ではない。なんというか……世にかかわらず、世にかかわられず、ただそこに在るのみだった……とでも言うのかな。生命としては死んでいないだけ、生きているだけの、人外だったのだ」
――……
「波風のない暮らしは、平穏だった。けれど退屈を覚えたことはなかったよ。……もとより私は、集団の一部でいるよりも、独りでいる方が性に合っているのだ。様々なことをやるともなくやり、趣味を増やし、絵を描き、日用品を作り……いい余生を送っていたと思う」
――ウネ。
「その生活が変わったのは、やはり聖女ちゃんが来てからかな。……今でも彼女の第一声を覚えているよ。私の部屋に入って、私を見た彼女はこう言ったんだ。『うわ、本当に人が住んでる!? こんなところに!?』」
――……
「何者かが侵入してきたことは、彼女が部屋に来る前からわかっていたが……私はね、どうするつもりもなかったのだよ。ただ『流れに任せてみるか』と、そんな気持ちだった。相手が攻撃をしてくるなら攻撃で返すし、対話を試みるならば、対話をしようとね……だが、聖女ちゃんの発言は私の予想だにしないものだった」
――……ウネ?
「うむ、そうだな……彼女が私に続けてかけた言葉は、『おじさん、昼からこんなところでどうしたんですか? お仕事は?』だったのだ」
――………………
「私は長いこと生きてきたし、様々なタイプのニンゲンの相手をしてきた自負がある。だが、だがね、職業をたずねられたのは、初めての経験だったのだ……」
――ウネウネ……
「正直、おもしろいと思った。……このあたりだろうな、ドラゴンに『吸血鬼はすぐ舐めプをする』と言われるところは……おもしろいことを言う子だと思って、しばらくは……聖女ちゃんの寿命が尽きるぐらいまでは、ちょっと彼女に合わせてみようと考えたのだ」
――ウネ~……
「そして、流れに任せ、流れ続けて――今にいたる」
――……
「白状しよう。私は今、長い生の中で初めて『舐めプ』したことを後悔している」
――ウネン。
「聖女ちゃんは――強い。今まで経験したことのない強さで、気付くのが遅れたが、間違いなく強敵だ。かつてないほどの……なにせ私は、彼女に変えられかけている」
――ウン。
「……君、今、『うん』と言わなかったかね?」
ミミックはオレンジ色の触手の束みたいな体を、ぷるぷると震わせた。
否定しているような感じだ。
「……まあいい。ともかく――私は彼女との対話を『勝負』と位置づけていたが、どうやら今、負けそうになっているらしいと、自覚した」
――ウネン。
「負けるのは――優雅ではないね?」
――……
「相手を甘く見て、相手のしたいようにさせて、それでいて、最後には勝つからこそ、優雅なのだ。…………だがね、なんというか……正直、最近は、『外で働くのも悪くないかもなあ』と思う自分もいる。彼女があれだけ熱心に語る『外の世界』に、一抹の興味が生じていることも、また事実なのだ」
――…………
「ミミックよ、前置きが長くなってしまったが……私はどうすればいいと思う? 『これも時代の流れ』と受け入れ、外に出て働くべきか……あるいは、聖女ちゃんとの勝負にこだわり、ヒキコモリを続けるべきか……今の私には、どちらがいいのか、判断ができないのだ」
――……
「だから君の意見を聞きたい……眷属には情けなくて話せないし、ドラゴンに話したら絶対にバカにされるし、妖精はまあ…………わかるだろう? 消去法ですまないが、君しかいないのだよ。頼む」
――ウネ~
ミミックは悩むようにゆらゆらした。
ここで『実は今までタイミングよく揺れてただけで、本当は言語を理解できていない』というオチだったら悲惨すぎるなと男性は思った。
が。
ミミックが、ツボの中からなにかを取り出す。
――ウネッ!
「……それは、君の元の飼い主の日記かね?」
粘液まみれでテラテラと輝くその古びた本は、そういう代物のはずだった。
綺麗に粘液を取り除いて城の書庫に入れたはずだが、いつの間にかミミックが回収していたようだった。
そして――
ミミックは、日記の中の、とあるページを開き、男性に示していた。
男性は少しだけ日記から顔を遠ざけつつ(老眼ではなく粘液が飛び散るのを避けるためだ)、示されたページを読む。
だが――
そのページは。
「……白紙の、ページだね」
――ウネ。
「君は――そうか、君は、なにも言ってはくれないのだね」
男性は軽く口元をゆがませる。
その顔は、悲しむような――笑顔だった。
「……そうだね。その通りだ。私は――なにかを言ってほしくて、君に相談していたのではないのかもしれない」
――答えは、出ていた。
男性は吸血鬼である。
そして――ヒキコモリであった。
「己を曲げないと、私はすでに、そう結論していたはずではないか。……ああ、そうだ。結論は本当にもう、とっくの昔に出ていた。それでもこうして、君にうじうじと相談をしていたのは……結論に向けて歩み出すだけの、勇気や熱量が欠けていたから、なのだろうね」
己の信ずることのために邁進できるのは、若者の特権だ。
ヒトを動かす熱量は有限であり、年齢とともにだんだんとその総量が減っていく。
……ひどい話だ。積み重ねたものが多いほど新しい一歩を踏み出すのに熱が必要となるのに、積み重ねれば積み重ねるほどに、だんだんと心に火が熾りにくくなっていくのだ。
歳はとりたくない――『若さ』も『老い』もただの『個性』だということを頭で理解しながら、しかし男性はそう思わざるを得なかった。
そうだ、熱はまだまだ足りない。
聖女という強大な敵に立ち向かうのは大変なことで、この老いた心にどれほど薪をくべたところで、きっと必要な熱量に達することはないのだろう。
ならば、熱のないこの心は、なににより進んでいくのか?
「私は、五百年、ヒキコモリを続けてきた。だから――今さら外に出るわけにはいかない」
――積み重ねたモノがある。
若者が新たなるモノを求め順応することを得意とするならば――
――老人はこれまで積み上げたものを守ることを得意とする。
歴史がある。
物語がある。
だから、熱量なんかなくっても、この重みが、歩み続けたヒキコモリ人生が、男性の背中を押してくれるのだ。
「明日、言うよ」
――ウネン?
「明日、聖女ちゃんが来たら、言うよ。正直に、ハッキリと、私は働く意思なんかないし、この城を出る気もない。なぜなら、この城は私の持ち物で――」
男性は笑う。
静かな、しかし不敵な笑みで――
「――私は吸血鬼だからねと、言うよ」
嗤われることを畏れることなかれ。
――余人には積み重ねた歴史がわからぬだけだ。
不審がられることを恐怖することなかれ。
――出会って少しの相手よりも、己がこれまで一心に歩み続けた道にこそ恥じぬ行動をとるべきなのだ。
信ずるものを、見失うことなかれ。
――男性は吸血鬼である。
たとえ世界が忘れようとも――
男性は、覚えている。
吸血鬼として積み上げた、過去があるから。
「私は、吸血鬼だからね」
男性はもう一度つぶやく。
真っ直ぐに前を見据えて、そこにまだいない聖女に向けるかのように、少しだけ格好つけた表情で――
「私は、働かない」




