107話 おっさん吸血鬼vs聖女
「……おじさん? どうしたんですか?」
男性はハッとする。
そうだ――とうに昼を迎えようとしている時刻、男性の部屋にはお客さんがいた。
桃色髪の、健康的な少女――聖女である。
だというのに――来客用のローテーブルを挟んですぐ目の前にお客様がいるというのに、自分がぼんやりしていたことに、男性は気付く。
「いや、なんだか急にぼんやりしてしまってね……寝ていたわけではないと思うのだが、なんだか意識がなかったのだよ」
「なるほど。わかります!」
「おや、君もあるのかね? なぜだか急にボーッとしてしまうことが」
「わたしはないですけど、神殿に礼拝にいらっしゃるおばあちゃんは、『気付いたらぼんやりしていることが増えた』と言っていますから、よくあることなんだと思います!」
ようするに年齢が原因のアレらしい。
この『唐突にぼんやりするアレ』の原因が脳年齢なのか肉体年齢なのかはわからないが、男性は愕然とした。
なぜならば、男性は吸血鬼である。
本来ならば老いることのない不思議生物だ。
現代では『いないもの』とされているから、現代っ子の聖女からはただのお年寄り扱いされているのだが――
男性はまだまだ肉体的にも脳的にも頑健なつもりでいる。
なので、普通にニンゲンのお年寄りみたいな『唐突にぼんやりするアレ』が自分の身に起こっているのは、並々ならぬ衝撃なのであった。
「ところでおじさん、『ばんぺーくん』はもうすぐできそうですね?」
「ん? あ、ああ……」
聖女に言われて、男性は初めて自分が『ばんぺーくん』を彫っていたことを思い出した。
たしかに完成は近い。
もっとも、『ばんぺーくん』はゆるキャラのくせに『歴戦の勇士』という設定もある。
そのせいで、鎧に傷やヘコミがあったりして、こだわりだすといつまでも完成しなさそうなのだが、そろそろこだわりのやめどころだろう。
「……まあ、そうだねえ。今日あたりで細かいデティールを整え終わろうか。このあとツヤ出し塗料などを塗ったりする作業はあるが……」
「そうしたらいよいよ手が空きますね」
「そうだねえ」
「……がんばってくださいね!」
「……なにをかね?」
「手が空いたらやるべきことを、です!」
「…………!」
なるほど。
男性は理解した――ようするに『就職しろ』と言われているのだと。
聖女が多くを語らないのは、男性自身が以前、『実は仕事を始めようと思っていて今はその準備中なんだよ』みたいなことを述べたからだろう。
実際は仕事を始める気なんかまったくない。
見栄を張っただけだが――そのせいで色々こじれている気がする。
そろそろ『働かないよ』と正直に打ち明けるべきだろう。
男性は咳払いをした。
「……聖女ちゃん、実はだね、君に言いたいことがあるのだよ」
「なんですか?」
「うむ、なんというかだね……ええと…………」
「?」
「…………」
『私は働かないのだよ』。
なぜだろう、以前は普通に言えたセリフが喉奧でひっかかって全然出てこない。
「おじさん、どうしたんですか?」
「聖女ちゃん、少し聞いてみたいことがあるのだが……」
「はい、なんでしょう?」
「働くとは、そんなに素晴らしいことかね?」
男性は、『働かない』と言い出すことができなかった。
だから――無理はせず、搦め手で行くことにした。
「聖女ちゃん、君に言われて、私も色々と考えてみたのだが……労働が素晴らしいこととは、とても思えないのだよ」
「なるほど」
「労働とは『生活に必要だから仕方なくするもの』だろう? 呼吸や脈動などと同じで、死なないためにしているものでしかない。それを『素晴らしい』と飾り立てるのは、いかがなものかと思うのだがね」
「おじさん、おっしゃる通りです。労働自体は素晴らしいものではない――そう思われる方がいらっしゃるのは、わかりますし、その思いを強く否定はしません」
「む?」
「素晴らしいのは、労働によって社会とつながることです」
「……いや、しかし、それならば、『労働』を経てつながる必要はないではないか。趣味でだって、他者とつながることができる――私は、そう思うよ」
「おっしゃる通りです」
「だろう?」
「しかしおじさん、趣味というものは、飽きる場合があります」
「……そうかもしれないが」
「そういった時、趣味でつながった仲間と、顔を合わせにくい時もあるでしょう。だからこそ趣味ではないもので結ばれた絆――労働で結ばれた『仕事仲間』の存在が必要なのです」
「…………いや……いやっ! 趣味はなにも、一人に一つしか許されぬものではない! 一つの趣味に飽きたならば、ほかの趣味を! その趣味にも飽きたならば、またほかの趣味を! そうやって社会とつながり続けることもできるはずだ!」
「けれど、それは綱渡りのような人生ですよ」
「……」
「人には地面が必要なのです。『飽きた』『気が向かない』――悲しいかな、人は己のモチベーションをコントロールできぬもの。そういった時に、無理矢理にでも所属していなければならないコミュニティが一つあると、たとえすべてに『飽きた』としても、社会とのつながりが断たれることは、ないのです」
「……」
「だからこそ、労働による社会とのつながりは、大事なんですよ」
男性は己の右足が後ろに下がろうとしているのを感じ取った。
気圧されているのだ――聖女のあまりのスキのなさに、不利を感じているのだ。
ここで燃えあがるのが、男性の反骨心である。
聖女の言葉は正しい――どれほど理解を拒んでも、心はそれを認めてしまっている。
――だが、相手が正しければ正しいほど、『認めてはならぬ』と男性の魂が叫ぶのだ。
そうだ――男性は吸血鬼。
現代においてその存在を抹消された――人類の歴史に消された、体制にまつろわぬもの!
「聖女ちゃん、君の言う通りかもしれぬ! たしかに強制的に所属していなければいけないコミュニティも大事かもしれぬ!」
「でしょう?」
「だが、それが『労働』である必要はないはずだ! たとえば『趣味』だって、飽きても無理矢理にでも所属していれば、社会とのつながりが断たれることはないはずだ!」
「たしかにそうですね」
「だろう!?」
「けれどおじさん、それはもはや『趣味』とは言えないのでは?」
「…………なんだと?」
「『飽きた趣味のコミュニティに、社会とのつながりを断たれないためだけに、無理矢理所属する』。それはもはや義務であり――給料が発生しない『労働』ではありませんか?」
「………………」
「そんな無理をするなら、お給料、ほしくありませんか?」
男性は想像してしまった。
趣味をよすがに集った人々。
みんなが楽しげに話しているのに、ちっとも興味がわかなくて、ただコミュニティからのけものにされないためだけに作り笑いをして話を聞いているふりをしている自分。
――なんのためにここにいるのだろう?
笑った顔の下、空っぽな胸の奥で、その問いがいつまでもいつまでもこだまする。
たしかにそれは――
給料がほしい!
「……ぬうう……」
男性はついになんにも言えなくなった。
もっと冷静になれば反論も思いつくかもしれないが、今日これ以上話を続けても、どんどん不利になっていくばかりだろう。
「……たしかに、そうだ。働くことは素晴らしくない――その主張は揺るがないが、『素晴らしくないことでもする意味はある』のは、認めよう」
「よかった。けれどですね、おじさん、わたしは労働自体も素晴らしいものだと思っているんですよ」
「しかし、労働とは、やめていいなら、しないものだろう?」
「おじさん。わたしは、仕事で聖女をしているんですよ?」
「……まあ、そうなのだろうが……」
「でも、このお仕事のお陰でおじさんと出会えたんです。ね? 労働って、素晴らしいものでしょう? こんなにも色々な出会いをくれるんですから」
聖女は笑った。
男性は――一瞬、ぽかんとした顔になったあと、
「……ああ、今日は、私の負けだな」
おじさんは、若い女の子の笑顔に弱い――
『具体的な仕事の話を避ける』というもくろみをまんまと達成しながら、男性は心地よい敗北に頬をゆるませるのだった。




