105話 妖精と幻想的な一夜
「吸血鬼さん、吸血鬼さん、起きてください」
涼やかな少女の声がした。
男性はまぶたを開ける。
部屋は暗い。どうやらまだまだ夜のようだ。
しかし、視界に困ることはない。
なぜならば男性は吸血鬼である。
太陽の光に弱い特性を持つこの生き物は――現代では『いないもの』とされているこの生き物は、必然的にその活動時間が夜なのだ。
夜に視界に困るようでは、吸血鬼はつとまらない。
……だが、仮に男性がニンゲンであっても、この夜ならば視界に困らなかっただろう。
なぜならば、カーテンの隙間からは、まばゆいばかりの銀色の月光が差しこんでいて――
その光を受けて輝く、小さな――手のひらに乗ってしまいそうなほどの、本当に小さな少女が、宙を舞っているのだ。
妖精。
銀色の燐光を放ちながら飛ぶ、美しい少女が――
「夜分遅くに申し訳ありません」
――にこやかに、知的な笑みを浮かべていた。
男性はベッドで上体だけ起こしてはみたものの、まだ現実感を抱けないでいる。
差しこむ月光。
銀色の光を散らしながら舞う美しい少女。
幻想的な光景――なのだが、それ以上に。
目の前の生物が知的な笑みを浮かべているというその一点が、なによりも現実感がない。
「どうした妖精よ……? 君にしてはなんというか……その……」
さすがに『頭がよさそうだが大丈夫か?』とは口にはできなかった。
妖精はかすかに笑う。
「無理もありません……普段のわたくしをご存じであれば、おどろかれることでしょう」
「……いや……その、なんだ……君は、普段、私の城で寝泊まりしているあの妖精で間違いがないのかね?」
「はい。普段お世話になっております、あの妖精です」
男性の質問に、妖精は答えた。
それは質問の内容を正しく把握し、回答を導き出し、他者に伝わるよう言語化できたということに他ならない。
異常事態である――普段の妖精を知る者ならば、その知性的な言動に己の正気を疑うこと請け合いであろう。
「吸血鬼さん、今宵は月が銀色に輝く夜――季節の変わる、妖精の踊る夜なのです。そう、それはまさしく現実の片隅で幻想の息づく、一夜限りの幻想……幻想的です」
「う、うむ……」
妖精は知性と一緒にポエム力も上がっているようだった。
普段は他者(主にドラゴン)からポエムな物言いをすると言われる男性も一瞬引いてしまうような吟詠ぶりだ。
「我ら妖精も今宵ばかりは戒めを解かれ、ヒトのように物を考え、ヒトのように大事な誰かと話をすることが許されるのです。神の与えし…………幻想の…………幻想的な……幻想です」
知能は上がっているようだが、限度はあるらしい。
だが、元を考えれば飛躍的な上昇と言えた。
「それで妖精よ、そのような、なんだ、幻想的な夜に、なぜ私をたずねたのだね?」
「一度、あなたには頭がまともに働く時にお礼を申し上げておかねばと思いまして」
「ふむ……君を城に住まわせていることについてかね? それは別に、お礼を言われるほどのことではないが」
「いえ、ここであなたに媚びを売っておけと、わたくしの幻想的な知能がささやくのです……これぞエリート妖精の処世術。戒めを解かれし知能から導き出される一夜限りのおべっか……そう、ファンタジーヨイショ」
「そうか……」
処世術とかおべっかとかは、おべっかを使う相手の目の前で言わない方がいいと思われた。
どれほど知能が上がっても、やはり彼女の知性には悲しみが伴う。
なんというか――いつでも非常に半端なのだ。
「思えば吸血鬼さんは素晴らしいお方です」
唐突な賞賛である。
その涼やかで優しい声で発せられる賛辞は、最初に『おべっか』と言われていなければ、心地よくなったかもしれない。
「そう、なんというか……素晴らしい……ええ、素晴らしい……幻想的に素晴らしい……」
「無理はしない方がいいと思うのだが」
「しかし頭が回る時に強者の好感度を稼いでおかねば、弱い妖精は生き残れないのです。かつてこの幻想的な一夜限りの知能は、ニンゲンの権力者に向けて使われました」
「ほう」
「そのお陰で今の社会をごらんください。妖精と言えば『かわいい』『ニンゲンの味方』みたいな風潮が広まっているでしょう? 愚かですね、ニンゲンは……ちょっと賛辞をささやかれたぐらいで妖精に対する好感度が天井知らず……妖精より馬鹿なのではないでしょうか……」
「……」
「吸血鬼さんは、本当に素晴らしいお方……」
話題運びがへたくそなのにもほどがあった。
今の流れから褒められて嬉しい者は、そういないだろう。
「吸血鬼さんの素晴らしさを語りたいのに、世界には言葉が少なすぎます。ただ素晴らしいとしか言えぬ……言語とはなぜ、こんなにも不自由なのでしょう……」
「不自由なのは君の頭のように思われるのだが」
「そうかもしれません……ですが妖精が素晴らしいのは事実……あっ間違えた……吸血鬼さんが素晴らしいのは事実……幻想です……いえ、幻想ではなく……幻想的に素晴らしい……」
「会話の内容が薄っぺらすぎて疲れてきたのだが……」
「普段からそんなに中身のある会話はされておりません……あっ、妖精の身で差し出がましいことを……事実ですが気を悪くされませぬよう……殺さないで……殺さないで……」
「……」
知能が上がった妖精は――
ちょいちょいイラッとする。
「ああ、月が陰ってしまう……知性が、知性の戒めが幻想的に幻想に……」
「『幻想』とはなんなのかわからなくなってきた」
「言葉の意味の説明をして差し上げたいのに時間がもうない……」
「いい。そちらはあとで辞書を引く」
「さすが吸血鬼さんです……辞書を引くだなんて知性的な行動、そうはできません……」
「……知性のあるうちに言い残すことはそれだけかね?」
「最後には処世術やおべっかを抜きにして、妖精たるわたくしが普段感じていることを素直に言語化してお伝えするのがしきたりなのです……普段は感情を上手に言葉にできませんから」
「たしかにそうかもしれないね」
「わたくしが、普段から言いたくても言えないこと、それは――」
――カーテンの隙間から差しこんでいた月明かりが、途絶えた。
妖精のまわりをほのかに照らしていた銀色の燐光も消える。
妖精はしばらく宙に浮かんだまま目を閉じていたが――
ゆったりと、男性の眠るベッドの上に落ちた。
「…………ここは」
「妖精よ、正気に戻ったか?」
さりげなく男性は今までの状態を『正気ではない』と断じた。
妖精は首をかしげ――
「……妖精さんの部屋に吸血鬼さんが?」
「逆だ。私の部屋に、君がいるのだ。……その様子だと、今までのことは覚えていないようだね」
「今までのこと?」
「……いや、いい。部屋に戻りなさい。もう、月も陰ってしまった」
男性は笑う。
妖精はよくわかっていないような顔で飛び上がり、部屋を去ろうとして――
「――ありがとうございます」
「……なんだね、妖精よ、突然」
「…………? 妖精さんがどうしたです?」
「……いや、なんでもない」
男性は手振りで妖精を出て行かせる。
ペット用ドアが開き、閉じた。
男性はカーテンの隙間から空を見る。
真っ暗で、雲のかかった空。
「……幻想か」
終わってみれば、それこそ幻のようにつかみどころのない時間だった。
しかし――なんだか妙に、明るすぎる銀色の月光が、まぶたの裏に焼き付いている気がした。




