102話 ドラゴンは押してみたい
「ほう、これが、眷属の購入した『ファミレスのアレ』か……」
ローテーブルに設置されたボタンの周囲を、子犬がぐるぐる飛び回っている。
バサバサと背中の小さな翼をはためかせ、あらゆる角度から『ファミレスのアレ』をながめる様子には、『子犬とは空を飛んだだろうか?』と考えさせてくれる哲学的な趣があった。
けれどここで思考の深淵に入りかけた哲学者諸兄に詫びねばならぬだろう。
この生物は――子犬ではない。
ドラゴン。
そういう名前の幻想種――すなわち『お伽噺にしか登場しない、妄想の生物』なのである。
もっとも、赤いウロコで全身を覆った、毛のない、角と翼の生えた、亀に蛇を突き刺したようなデザインのそれを『犬』と呼べるかと言えば、呼べないだろう。
なぜこれが世間では犬扱いされるのか、世間の『犬』どもは現在どのような形状をしているのか、もしやウロコの生えた爬虫類の哺乳類が世界では主流なのか――
ヒキコモリで世間を知らない男性の疑問が尽きることはない。
「ドラゴンよ、先ほどから物珍しげにながめているようだが……それほど希少価値のあるものなのかね? 眷属の口ぶりだと、『ファミレス』とやらに行けば普通に見かけるもので、なおかつ『ファミレス』自体も希少性の高い施設ではなさそうなのだが……」
「たしかに、生産数自体は少なくなかろう。しかし一般家庭にあるものではないのだ、この『ファミレスのアレ』は」
「ふむ……つまり、インテリアとして浮いていると?」
「浮いているのは間違いないが、そもそもインテリアではなかろう」
ドラゴンは男性の声に応じつつも、ずっと『ファミレスのアレ』を見ている。
よほど興味があるらしい。
男性は無精ヒゲの生えたアゴを撫でる。
なんとなくソファの肘掛けを握りしめながら、しばし飛び回るドラゴンの様子をながめて――
「ひょっとして、押してみたいのかね?」
「!?」
ここで、ドラゴンが部屋に入ってから初めて男性を見た。
男性は「ふむ」とうなずき、
「押してみたいようだね」
「いや……いや、そのようなことはないぞ」
「……なぜ誤魔化す? いいではないか、押したいなら、素直にそう言えば……」
「まあ聞け吸血鬼よ」
「なんだね」
「我は己の欲望を否定したり、隠したり、誤魔化したりはせぬ」
「そうだねえ」
「『押したいか?』と聞かれれば、たしかにまあ、やぶさかではない」
「だろうねえ」
「しかし――我は賢いカワイイドラゴンなので、リスク管理ができるのだ」
「と、言うと?」
「この『ファミレスのアレ』は、眷属が貴様のために購入したものであろう?」
「そのようだね」
「そんなものを我が押してみろ。死ぬより酷い目に遭わされるぞ」
「…………君、眷属に嫌われていることを自覚できたのか!?」
おどろきである。
あの、『世間のすべては自分を好きであることに疑いの余地はない』と思いこんでいたドラゴンが、他者から自身への好感度を客観的に判断しているのだ。
男性は思わずソファから腰を浮かすほどおったまげた。
ドラゴンは――
中空に浮かんだまま、蛇みたいな口元をかすかに上げ、ニヒルに笑う。
「忘れたか、吸血鬼よ……我は学習能力によって今の世まで生きてきたドラゴンなるぞ。他の爬虫類頭のドラゴンどもが、おごり高ぶり、己を改めずに絶滅していった中、我だけが生き残ったのだ。『死』の気配には敏感よ」
「なるほど……」
「我の得意技は自己客観視なのだ」
「そうか、発動までに時間がかかるタイプの得意技なのだね」
「ゆえに我は、『こんなものには興味がない』と己に言い聞かせている。邪魔をしないでもらおうか」
「……」
ようするに、すごく押してみたいようだった。
命と引き替えにするほどではないようだが――
というか。
『押したら死ぬより酷い目に遭うボタン』扱い。
男性は目の前の『ファミレスのアレ』がなんだか怖ろしい装置に思えてきた。
「……まあ、なんだ、ドラゴンよ。それほど押したいならば、押してみたまえよ。誰が押したかなんてわからんだろう? 呼び出された眷属には、私からてきとうに用事を言いつけるから……」
「わからんと思うか?」
「いや、わからんだろう……?」
「眷属であるぞ」
ドラゴンの声にはかつてない重みがあった。
たしかに――根拠はないが、誰が押したか把握しそう。
これが、かつてドラゴンが言っていた『眷属だぞという一言で黙らせられる心境なのか』と男性は理解した。
「うーむ……あっ、そうだ、ドラゴンよ。ならば事情を説明して押させてもらえばいいではないか。あらかじめ『押す』とわかっていれば、アレも怒るまい……まあ、そもそも君が押したからと言って、眷属の怒る姿が想像つかないのだけれど」
「貴様は眷属のことをわかっておらん」
「いや、私の眷属なのだが」
「貴様はずっと部屋にいたゆえに、眷属がかいがいしく城中にスピーカーを設置する姿を見ておらんから、そんなことが言えるのだ」
「自分で設置したのか……」
「貴様、業者が来たら感知するであろう?」
「まあたしかに。眷属の動作以外はなんとなくわかるね」
「そうだ。貴様が寝静まったタイミングを見計らい、ドリルで壁に穴を空け、配線を通し、魔力炉に己の魔力を注ぎ込んでスピーカーを起動実験し、時には爆音で妖精の動画を流してみたりした眷属の苦労を、貴様は目の当たりにしておらんのだ」
「私が寝ているあいだに、爆音で……」
「貴様は一度眠るとなかなか起きぬからな」
「まあそれは、私個人というより、吸血鬼の生態のようなものだからね……」
同族の中には、『寝ているあいだに棺桶ごと外に引きずり出されて太陽におはようされて死』という最期を迎えた者も、少なくない。
吸血鬼はそれだけ眠りが深いのだ――男性は城への侵入者には敏感だが、最近はお客さんが増えたせいで慣れてきて、その感覚もにぶりつつある。
ヤバイ。
「ともあれ――吸血鬼よ。我は知っているのだ。眷属の努力を……そして、その努力が、すべて貴様のために向けられてきたことを」
「……」
「それを我が横からかっさらったら、死ぬより酷い目に遭わされるのは自明の理であろう?」
「まあ、死ぬより酷い目に遭わされるのが自明の理かはおいておくにしても、たしかに機嫌を損ねはするだろうね」
「で、あろう? そう思えばこそ、絶対に押せぬのだ」
「そうか……君がそう判断するならば、私としては尊重するより他にないね」
「わかればよい。そう、絶対に押せぬのだ」
「うむ」
「絶対に……」
「……ドラゴン?」
「…………」
ドラゴンがローテーブルの上に着地する。
そして、『ファミレスのアレ』を右前脚で押した。
――ピーン、ポーン。
「ドラゴーン!?」
「…………ハッ!? しまった!? 『絶対に押してはいけない』と思ったら、押さずにはいられなく……!?」
「なぜそうなる!?」
「我は……我は……他者の都合で自分が我慢するのが大嫌いなのだ! 眷属の努力!? 眷属の想い!? さぞかし押されたら嫌であろうなあ! ――とか思ったら、押したくてたまらなくなり!」
「たしかに君はそういうヤツだがね!」
おっさん二人がわめいていると――
扉の向こうから近付いてくる、足音があった。
「あわわわわあわわわわわあわわわ……ワンッ! ワンッ! ニャー!」
「落ち着きたまえ」
「わ、我はいけるぞ……大丈夫だ。我は冷静さを欠いたことがない『雲突く賢者』と呼ばれし伝説の犬だワン!」
「ドラゴンよ、深呼吸をしなさい」
「人生最期の呼吸を楽しめというはからいか!? 粋ではないか吸血鬼よ!」
なにを言ってもダメそうだ。
そうこうしているうちに、部屋の扉がノックされ、眷属が入って来た。
眷属は一礼し――
男性のいる来客用テーブルセットまで来て――
慌てふためくドラゴンの首根っこをつかんで持ち上げ――
一礼して退室した。
「…………」
流れるように優雅な動作に唖然とする。
男性はドラゴンのいなくなったローテーブルを見つめ――
「……まあ、注意だけでもするか」
どっこらしょ――
思えば久々になる、『部屋から出る』という決断をするのだった。




