100話 吸血鬼は老いを受け入れる
「うーむ……」
「どうした吸血鬼よ、寝起きから難しい顔をして」
地の底から響くような声であった。
難しくもなろう――目を開けたら、自分の顔の上で子犬が飛んでいたのだから。
『犬が寝ている男性の寝室に勝手に入っていた』。
こう表記したならば、それは微笑ましい朝のワンシーンとして他者に伝わるかもしれない。
だが――実際は違う。
この犬は、しゃべる。
この犬は、赤い。
この犬には体表を覆うウロコがあって、小さいながらも日常生活には充分な飛行能力(そもそも日常生活に飛行能力はいらない)があって、犬にしては明らかに太い尻尾があって、首は蛇を思わせる長さで、頭には角があった。
そして、おじいさんのような声でしゃべるのだ。
おわかりだろう――これは、犬ではない。
ドラゴンだ。
ところが世間では子犬に見えるらしい。
それというのも、『吸血鬼』や『ドラゴン』といった生物が、『お伽噺の中にしか登場しないもの』となってしまったのが理由として大きい。
どうやら世間のニンゲンたちは、ドラゴンをドラゴンと認識できないようなのだ。
なにかの病気なのではないかと男性は疑っている。
そう、男性は、きちんと、ドラゴンがドラゴンに見えるのだ。
なにせ――男性は吸血鬼である。
世間では『自称吸血鬼の国有財産不法占有無職職歴なしおじさん』だと思われていても、実際に本当に疑いようもなく吸血鬼なのである。
だから、『犬が寝ている男性の寝室に勝手に入っていた』としか思われない光景も、男性から見ると――
『部屋を貸し与えているおじいさんが、寝ている自分の部屋に勝手に入っていた』となる。
自分の意識がないあいだに、いい年齢の同性が自分の枕元に飛んで自分を見下ろしているというのは、なかなかおぞましい。
が、聖女や眷属や妖精などが睡眠中に部屋に入っていてもおとがめなしなのに、ドラゴンだけ怒るというわけにもいかない。
男性は紳士であり女性を大事にするが、同性の友人にだって同量の敬意を払うのだ――相手が敬意に値する者かはおいておいて。
「……まあ、私のことはいい。それよりドラゴンよ――今朝はなんの用事かね? 君は用事がないと私の部屋に入らないだろう?」
「いやなに、我がこの城に来てから、ずいぶん長い時間が経ったと思ってな……」
「……まあ経ったかもしれないが……我らの人生の長さと比すれば、まばたきほどの時間ではないか」
「馬鹿者。そうやって漫然と時を過ごしてはならんぞ。一年一年を、しっかりと意識し、無駄のない時の使い方をせねばならん」
その言葉はヒキコモリ無職に効く。
男性は胸をおさえた。
「どうした吸血鬼よ、年齢による狭心症か?」
「いや。……それでなんだ、君の話は最近、本題に移るまでが長くてね。君がこの城に来てからずいぶんな時間が経った――それはまあ、いいとして、だから、なんなのだね?」
「そろそろいい頃合いではないかと思ってな」
「なにがだね」
「そろそろ――この家に伝話回線を通してもいい頃合いだと思うのだ」
ドラゴンの声はあくまで重苦しかった。
男性はうまく話が呑み込めない――ヒキコモリゆえに、世間の文化に疎いのだ。
「なんだね『伝話回線』とは? ケイタイ伝話ならうちにあるが……それとは違うのかね?」
「似て非なるものである。ケイタイ伝話は、魔力波をアンテナから飛ばし、基地局を通じて……」
「………………?」
「……『ケイタイ伝話』が小飛竜なら、『伝話回線』がドラゴンのようなものである」
「なるほど、つまり、同じ系統で、よりすごいもの、なのか」
「雑な理解もはなはだしいが、そうだ。というわけで、この家に『伝話回線』を通したいのだ」
「勝手にやりたまえ」
「しかし、伝話回線を通すには、金と工事が必要でな……それゆえに、貴様の許可が必要なのだ」
「工事とはおだやかではないね……ケイタイ伝話では駄目なのかな?」
「回線の速度がまったく違う」
「回線の速度とは」
「今まではケイタイ伝話で動画を見るたび、動画を始めるまで『待ち時間』があったであろう?」
「あったね」
「それが、なくなるのだ」
「ふむ。……待てないのかね? 我らには大量の時間があるだろう……そんな、せいぜい数十分程度、待ったらいい」
「貴様には先ほど時間の大切さを教えたばかりであろうが」
「うーん、その『待ち時間』に絵を描くなどして時間をつぶせると思うのだけれどね……ああ、そうそう、最近ね、陶芸に興味が湧いたもので、ちょっと調査をしているのだが――」
「やめろ! 貴様の趣味に付き合っていたら我まで老けていくわ!」
「認めたまえよ。君は私より年上なのだ……私をおっさん扱いする時、君は自分自身をもまたおっさん扱いしているのだよ」
「……貴様、言うようになったではないか……普段ならば、ここで困った顔をして黙り込むだけだったはず……」
「言われっぱなしも優雅ではないのでね」
男性は微笑を浮かべる。
ドラゴンは「ぐぬぬ」とうなった。
「ともかく、吸血鬼よ、伝話回線を入れるのだ」
「うーん、しかし、ことが工事にまで及ぶのだろう? それを聞いてしまうとねえ……」
「年寄りはいつもこうだ! 新しい物事を始める時、コストばかり気にする! 変化を受け入れよ! 時流に流されよ! それこそが若さだ!」
「若さ、か」
男性はフッと笑った。
若さ――そんなものを気にしていた時期も、あった。
おじさん扱いされるたびに心を痛めていた、そういう時も、たしかにあったのだ。
今でもドラゴンから一方的に年寄り扱いされるのは気に入らないが……
それでも、今の男性はすでに悟っている。
「ドラゴンよ――『若さ』はそれほど大事か?」
「大事だとも!」
「そうか。ならば、君はそれでいい。しかし、私はそうは思わない」
「なぜだ!? 若さとは、得がたきもの……若さとは、失われていく資源……若さとは、すべてを可能にする情熱そのもの! 若さが大事でない者など、いるはずがない!」
「まあ、たしかに若さは君の言う通り、大事だよ。それは疑わない――けれどね、こうは考えられないかな? 我らは若さを失った。だが、代わりに『老い』を手に入れたのだと」
「……!?」
「『老い』は悪いことかな?」
「悪いに決まっていよう! 老いれば、体が動かぬようになる! 老いるたび、『今日は調子がいいな』と思える日が減っていく! かつてできていたことが、ある日できなくなる――それが『老い』だ!」
「おやおや。これはこれは」
「なにがおかしい!?」
「いや、なに……君は充分に若いと思ってね。自分の認められないことは、全力で認めない――それも、『若さ』の一つの要素なのだよ」
「くっ」
「『若さ』は美点のみではないし、『老い』も欠点ばかりでもない。老いにより私は、君の考えを認められるし、自分の考えも認められる。多種多様なものに対し『理解は示せる』というこの余裕は、『老い』の美点だとは思わんかね?」
「貴様、なにがあった……? これほど貴様から主張されるなど、今までになかったぞ……」
「なに、練習したのさ」
「練習?」
「そうだ。自分らしくもない『理想の自分』に近付こうともがくよりも、流れるままに『己らしくなおかつ格好いい自分』を目指すことにした――つまり私は、『老い』を嫌い恐怖するのではなく、『老い』と共存することを決めたのだよ」
それこそが、心の自由――
あくせくとなにかを目指してもがく日々は、とっくに終えたのだ。
老いていくのは当たり前だ。だから、『老い』を受け入れる――
一種の悟りである。
男性はだから、慈愛ある笑みを浮かべ、ドラゴンを見ることができた。
いつもは傲慢で生意気で気に入らぬばかりの同居人だが――
彼は自分らしく生きているだけだ。
ならば、それでいい――そのように受け入れる心を手に入れているのであった。
「ぬうう……! 吸血鬼がやたらと手強い!」
「いや、私もまだまだ未熟さ……『自分らしさとは』『自由とは』、そう悩む日もまだまだあるだろう。完全に『老い』を手に入れるまでは、まだ数百年はかかるだろうね」
「攻略の糸口が見当たらぬ……! 仕方がない。今日はあきらめるが……我は伝話回線をあきらめぬぞ! 覚えていろ! 貴様が『若さ』をうらやんだその時、我はその心の間隙を突くであろう!」
「いつでも来たまえ。なに、人生は長い。多少の刺激は必要であろう」
ドラゴンがピココココーンと足音を立てて部屋から出て行く。
男性は笑い、目を閉じた。
今の会話は、ささやかだが、たしかな勝利であり――
その優越感を抱いてまどろむ欲求に抗えるほど、男性はまだ『老いて』はいないようであった。