滅ぶべし異世界召喚よ!
「もしもわたしが別の世界に行っちゃったら、どうする?」
隣を歩く友人にそう言ってから、わたしは少しだけ後悔した。さすがに、これはちょっと唐突過ぎたかもしれない。
渡君は、わたしと趣味の合うただ一人の友人だ。一言で言えば、オタク友達と言えるかもしれない。
高校生にもなると、少しずつ子供っぽい物を卒業する人が増えてくる。元々わたしは引っ込み思案で友達が少なく、市内でも有名な進学校に入ってからというものは、趣味の合う人も見つからなくなってしまった。
その中で唯一見つかったのが、ワタル君だった。とても本人に言うことはできないが、彼はわたし以上にクラスに馴染めない人間だった。休み時間は本を読み、昼休みには一人でお弁当を食べる。彼が誰かと会話をしているところなんて数えるほどしか見たことがなかった。
ある日彼が本を読んでいるのを、後ろから覗き見た。それは、わたしも全巻そろえているライトノベルだった。主人公がある日事故に遭って死んでしまい、異世界で転生し、人生をやり直すといったストーリーだ。今ではありきたりで陳腐な、使い古されたジャンルではあるけれど、その先駆者ともいえる小説。
「あっ。ヒロインが死んじゃうところだ」
わたしは無意識にそうつぶやいていた。
気が付くと、ワタル君はわたしを上目遣いで睨んでいた。それはそうだ。ネタバレしてしまったのだから。わたしは乏しいコミュニケーション能力を駆使して、どうにか謝罪した。そして
「ワタル君と友達になるから許して!」
なぜだか、そんなことを口にしてしまった。自分で自分の発言に驚いたけれど、おそらくそれ以上にワタル君は驚いていた。彼の手から、カバーを残して本がパサッと床に落ちた。
「何だよ自由。急に、そんな変なこと言って」
「あっ、ごめんなさい。ちょっと、自分も異世界に行ってみたいなーって、そんなこと妄想しちゃっただけ」
「本当に? 実は、何か嫌なことがあったんじゃない?」
図星だった。ワタル君は誰かと言葉を交わすことは少ないけれど、その代わり、人を良く見ている。わたしが少し機嫌が悪かったり、何かいいことがあったり、体調が悪かったりすると、それがどんなに些細なことでも敏感に感じ取っていた。
こんなこと、クラスの皆は知らないはずだ。わたしだけの、ちょっとした秘密。
「……ほんと、ワタル君に隠し事するのって難しいね。うん。実は、アニメやラノベ好きなのをちょっとからかわれただけ」
「なんだよ、それ。今時中年のおじさんだってアニメやラノベ好きは珍しくないのに。高校生ならフツーだろ」ワタル君は口を尖らせながら吐き捨てた。そのしぐさが子供みたいで、同級生というより弟のようにほほえましい。
「大丈夫、大丈夫。全然気にしてないし! 二次元最高! 三次元の男の子も女の子も興味ないですし―!」
「えっ、それって僕のことも――」
「ワタル君は同志だから、ギリギリ例外かな?」
「いや、100%例外にしてよ……」
「それじゃあ、また明日ね」
「うん。じゃあね」
別れの挨拶をして、わたしは再び一人になった。
また明日……か。
鞄を持っていない方の手で、自分の頬をつまんでみる。ワタル君に悟られていなかっただろうかと、ほんの数分間の会話を振り返ってみる。大丈夫、彼に勘繰られたのは、ほんの一部だけのはずだ。
正直に言えば、ギリギリだった。
今の高校に入学してから一年と少し。入学したばかりのころは、五人ほど友達がいた。しかしわたしと趣味が合わないと感じると、彼女たちは一人、また一人とわたしの元から去っていった。そうして半年経つ頃には、わたしは一人ぼっちになっていた。だけど、寂しさに押しつぶされることは無かった。わたしには、本の世界があったから。平穏な日常があったから。
だけど、それは二年生になって突如壊された。クラスのヒロイン的な女子とその手下のような女子数名が、わたしを標的にしたのだ。何をされたのかは、思い出したくない。例えれば、突如日本に超大型の台風が上陸し、しかもそれが、わたしの住む家の真上だった気分だ。心構えも何も無しに災害に放り込まれたのだ。
学生や社会人が行き交う大通りを歩いていると、ファストフード店の中で、例の災害たちがハンバーガーやシェイクを前に談笑しているのが見えた。こちらには気づいていないようだ。
わたしは一度小道に入り、裏通りを通り、そのお店を通り越してから大通りに戻る。ちょうど、カタカナの「コ」の字を描くように移動したわけだ。
「何やってんだろうな、わたし……」
つい、そんな愚痴が唇の隙間から漏れる。
何とはなしに、わたしは車道に視線を移した。忙しくも、生き生きとした車たちが景気よく前から走ってきて、後ろに走り去っていく。人は社会の歯車と揶揄するかもしれないが、わたしは、その歯車にすらなれないかもしれない。
心の中で自嘲していると、どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がした。少し視線を落とすと、そこにはふさふさとした毛並みの黒猫が座っていた。気持ちよさそうに大あくびをしている。
あ、可愛い。わたしはその黒猫を撫でようと、招かれるように引き寄せられてしまった。
しかしわたしが近づいた途端、黒猫は警戒心をあらわにして、ぷいと背を向けて走り去ってしまった。なんだ、ケチ。と心の中で悪態をついた。
しかし猫は、わたしの目の前で別の人にも撫でられようとしていた。化粧の濃い女で、黒猫を見るその眼はまるで肉食獣のようだった。さすがのクールな黒猫も恐れをなしたのか、サッとその場から跳び退いた。
そこは車道だった。加えて、前方からはトラックが迫っていた。
「あっ、危ない」
そうつぶやいた時には、わたしは車道に飛び出し、黒猫を抱えていた。
嘘みたいに静かだった、トラックのブレーキ音も、猫の鳴き声も、女性の悲鳴も、何も聞こえない。録画した映画を一時停止したように、時間が凍り付いていた。
「ああ、なるほど」わたしはなぜだか、笑みを浮かべていた。「これが、死ぬ前の景色なんだね」
淡い光が瞼の奥からぼんやりと伝わってくる。硬い、石のような物の上に寝そべっているのに、体がほのかに暖かい。
「ん……」貼り付いていた瞼を開く。それと同時に、少しずつ手足に生きている感覚が戻ってくる。試しに力を入れれば、痺れが少し残っているが、五体満足であることが確認できた。
「ようこそお越しくださいました。異世界の勇者よ――」
頭上から低い男性の声が落ちてくる。
ぼやける視線が徐々に明瞭になってくる。回復した視力で周囲を見れば、自分が白い長衣を纏った三人の男に囲まれていることが分かった。手には子供の身長ほどある赤褐色のつやつやとした杖を持ち、その先には正八面体の水晶のような輝く石が浮かんでいる。こんなものが、現実に存在するとは思えない。
混乱の中で、「これはまさか、異世界に召喚されたのでは?」そんな期待が首をもたげた。足元には、いかにもな光を放つ魔法陣。それを囲むように立つ、濃い皺を刻んだ魔法使い。それに何より、たった今「異世界の勇者」といわれたではないか――!
そうなれば、いつまでも床の上で横になっているわけにはいかない。ぼんやり痺れる体を奮い立たせ、その場にすっくと立ちあがる。自信満々に三人の男の顔を見上げた。わたしと目を合わせた男三人は、柔らかい笑みを浮かべる。
「おい、誰か! 勇者様のご案内だ!」
三人のうち、最も年長と思われる男が木製のドアの向こうに向けて声を張った。
ギィィと軋む音を立てて、そのドアが開いた。
そこから現れたのは、筋肉質で、体中に大量の傷をこさえた大男だった。衣服の素材はそれなりに質が良さそうだったが、あまりにも汚れ、ボロボロになっている。目の前の魔法使い達と比べると、浮浪者としか言いようがない姿でつい眉をひそめてしまう。
「おお! あなたが新しい勇者様か!」
男は愛嬌のある豪快な声を発した。見かけによらず、なかなかフレンドリーな男だなと思った。
しかし、一つ気にかかることがあった。「新しい勇者」とは、どういうことか。他にも自分と同じように異世界から召喚された勇者がいるということか? 自分だけが特別ではないと突き付けられたようで、静かにショックを受けた。
「さて、勇者様。ご案内させていただく前に、一度両手を前に出していただけませんか?」
案内人の男は、だしぬけにそんなことを言い出した。
両手を前に出す……少し悩んで、わたしは両の手の平を上にして、揃えて前に出した。ちょうど、物を受け取るようなポーズだ。
「はい、結構です。そいじゃ――」
男の手が素早く動く。その動きに嫌な予感がして、無意識に引っ込めようとした。しかし男の手はそれより早かった。
ガチャン
「えっ?」それは手錠だった。刑事ドラマや漫画で見るような手錠が、今、自分の手首を捕まえている。試しに外そうと力を入れても、ガチャガチャと冷たい音を立てるだけでビクともしない。背中に嫌な汗が流れ始める。
「無駄ですよ、勇者様ぁ。その手錠には呪いが掛かっていましてね、どんなに怪力でも壊せやしませんよ」男は豹変したように、ねっとりとした声を上げた。
「これ、どういうことですか! 何で急に、こんなこと!」
「――やれやれ。毎回毎回、これを説明するのは面倒ですなぁ。いっそ、そのあたりの壁に案内でも貼っておいちゃどうですかねぇ」
男は頭をボリボリと掻くと、鋭い視線でわたしの目を射抜いた。
「勇者様とか、何を寝ぼけてんだよ。お嬢ちゃん――いや、この国に召喚された連中は、ただの奴隷よ。この国の法律は、国民を守るために存在している。外国人が入国した場合には、この国の法律に従うことになる。
しかし、異世界から来た人間はどうかね? 根無し草のお前たちを、一体誰が守ってくれる? この世界に召喚された連中など、人間だろうが牛や豚だろうが、皆等しく家畜なんだよ!」
男の唾が飛び、顔にかかりそうになって顔をそむける。
わたしの目は開いている。間違いなく。それなのに、暗転するように視界が黒く染まっていく。現実感があまりにも希薄で、自分が立っているのか座っているのかもわからない。
手錠を掛けられた腕が乱暴に引っ張られる。男の背中から漂う体臭を嗅がされながら、引きずられるように連行されていく。
檻の中。わたしが見たのは、同じように連中に召喚され、未来を奪われた“勇者たち”だった。
信じられなかった。だって、そうだろう? 昨日の下校まで一緒にいたミユが、死んだっていうんだから。
その日はひたすらに空虚だった。僕は確かに、学校に登校し、授業を受け、弁当を食べ、掃除をして、帰りのホームルームを迎えたはずだ。しかしこうして今日という日を振り返ってみると、自分が何をしていたのかほとんど思い出せない。スマートフォンをいじりながら夜のドラマを見て、気づいたら一時間経っていたような。そんな気分だった。
三日経った。当然、ミユは帰ってこない。大好きなラノベを読んでいても、心はどこかに浮いてしまっている。振り返っても、彼女の姿はどこにもない。頭の中には、開いているページの文章ではなく、彼女がネタバレをした場面の文章だけが踊っていた。
この日の下校は、なんとなく寄り道をする気分になった。一度、ミユに付き添う形で彼女の下校ルートを歩いたことがある。その道筋を思い出しながら、重い一歩を踏み出していた。
人気のファストフード店を越え、事故現場に辿り着く。そういえば、テレビで事故現場が放送される時は、道路に残った血の跡が映されることもあるよな。それを思い出したせいで、視線を足元に落とすことができない。
「おい、そこの坊主」
明らかに、自分に向かってそんな声が発せられた。しかも、よりにもよって下の方から。よほど小さい子供か、それとも座り込んでいるのか。とにかく、自分の視線よりかなり低い場所から少年のような声が聞こえる。
社交性の欠片も無い自分が、こんなところで見知らぬ相手に声を掛けられる道理が無い。無視して、視線を前に向けたまま歩き出そうとした。
「ぐぎゃっ!」
靴の先から、何か柔らかい物がぶつかった感触が伝わる。それと同時に、先ほどの少年らしき声の悲鳴が聞こえた。
「えっ、ご、ごめん?」
反射的に謝り、とうとう視線を足元に落としてしまった。血痕があるかもと思い出し、咄嗟に目を逸らしそうになる。
「――えっ?」
そこにあったのは、ミユの赤黒い血痕――ではなく、黒い猫だった。お腹を苦しそうに押さえているのは、僕が立った今蹴ってしまったせいだろう。
いや、それはおかしい。そうなると、僕は“人語を話す猫”を蹴ってしまったことになるのではないか? 周りを見回しても、それらしき少年少女は見当たらない。
「まさか、君が、今の声の主?」僕は半信半疑で、むしろ九割方“疑”の気分で黒猫に話しかけた。いよいよ、自分は現実とファンタジーの区別がつかなくなったのかと苦笑しそうになる。
「ああ、俺だよ! 無視した上に蹴るとか、どういうつもりだ!」
黒猫は目と口をいっぱいに剥いて怒りを露わにする。
「ヒィッ?」とにかく驚いた。驚いて、その猫を抱きかかえてその場から走り去った。
走りながら、僕は信じられない話を猫から聞かされ続けた。
ミユがトラックに撥ねられ命を落とし、その魂を利用して別の世界で召喚されたこと。
そこは、異世界から召喚した人間たちを奴隷にしていること。
自分――クロと呼ばれているらしい――は、それに巻き込まれる形でその国の実態を垣間見たこと。
異世界とこの世界を往復する間に、不思議な力を授かったこと。
ミユの匂いを感じ取って、僕に接近してきたこと。
ファンタジーというものに小さいころから慣れ親しんできた僕にとっても、それはあまりにも受け入れがたい内容だった。しかし実際に、腕の中にいる黒猫は人語を話している。立ち止まったらこの黒猫のペースに誘い込まれるぞと感じ、ひたすら当てもなく走り続けた。
「坊主――体力無いな」
インドア派なものだから、結局二分も走り続けただけでバテてしまった。空き地の土管の上で、黒猫があきれた様子で見下ろして来る。こんなに走ったのは、小学生の頃にいじめっ子に追いかけられた時以来だ。息も絶え絶えで、心臓がドックンドックンとやかましく鼓動する。
「……本当なのか?」クロに話しかける。これが幻聴なら、もう、とことん付き合ってやろうという気分になっていた。
「ああ、本当だとも。色々と信じられない気持ちなのはわかるが、本当だとしか俺には言えない。俺は猫だから、難しい嘘はつけない」
「お前の目的は、何なんだよ。僕に近づいて、いったい何が目的なんだ?」
「彼女を助けたい」
あまりにもくっきりとした一言に、一瞬聞き逃しそうになった。
「助けたい?」
「坊主は知らんだろうが、俺は彼女に命を助けられた。誇り高い野良猫が人に借りを作るなど、ありえない。この借りは即刻返さなければ、俺の猫生に関わるのだ」
「猫生?」
「“猫の人生”だ」
クロは自分の手を舐めると、さらに鋭い視線で僕を見下ろした。
「坊主はどうなのだ?」
「えっ?」
「あの娘が好きだから、わざわざやってきたのだろう? む、違うのか?」
「そ、そんな! 好きとかじゃなくて、僕はただ……」
僕はただ……その後の言葉が出てこなかった。
ミユは、僕にとってどんな女の子だったのだろう。好きか嫌いかで言えば、きっと好きに分類される。しかし恋愛感情を抱いていたわけではない。彼女と付き合う自分というものを想像したことが無かった。
きっと、世間で言うところの友達なのだ。
「ミユは……友達だよ」
「ほう、あの娘はミユというのか。しかし――なんだ、ただの友達か」
「そう、友達なんだけれど」少し間を空けて、もう一度口を開いた。「大事な友達なんだ。僕を、空っぽの世界から救い出してくれた。僕、昔から友達いなくて、それに――」
「わかったわかった!」クロは右足の肉球をこちらに向けた。「友達と聞いた時は『なんだ、つまらん』と思ったが、なるほど、そういう関係も悪くはないか」
クロは満足そうににやりと笑う。猫がそんな人間臭い表情を浮かべるのを初めて見た。
するとクロは、土管の上からひらりと跳ぶと、頭の上に着地した。爪が若干頭皮に食い込んで痛い。
「よし、それなら行くぞ」
「え? 行くって、その世界に? どうやって?」
「落ち着け落ち着け。俺たち二人が飛び込んだって、何もできずに返り討ちだ。まずは異世界を旅し、勇者兼奴隷となった連中の関係者を当たる。要は、坊主のような連中を集めて仲間にするわけだ。異世界に飛ぶ方法は、何となく本能で行けるから心配するな。猫の本能は、人間とは比較にならんぞ」
「えっ! いやいや、心配だよ!」
「それと、俺の言うことにいちいち口を出すな。事態は一刻を争う。『親に挨拶をしたい』とか『やっぱり心の準備が……』とか、そういうのは全部却下! この旅のリーダーは俺だからな。俺がミユ殿と、その他大勢をついでに助け出す」
突如、足元から光が湧き上がってくる。いつの間にか、地面に魔法陣のようなものが浮かび上がっている。一瞬、自分が夢見たファンタジーの世界に入り込んだことに呆けそうになるが、冷静に考えれば恐ろしく危険なことが始まろうとしているのではないか?
「いや、やっぱり心の準備が――」
「ハイッ、俺言ったよね? 口答えは一切禁止! もたもたしていたら、ミユ殿があんな目やこんな目に――ああ、そうなったら俺は野良猫失格よぉ……!」
魔法陣の光が徐々に強まる。既に、魔法陣の外の景色が白く霞掛かっている。いよいよ異世界に行くのだと想像すると、結局のところ不安の方が勝っている。海外旅行すら経験したことがないのに、いきなり異世界だなんて飛躍し過ぎじゃないだろうか!
「さあ行くぞ坊主――おっ、そういえば坊主の名前を聞いていなかったな」
「ぼっぼぼぼっ……僕は渡ですっ!」
「ワタル……異世界を渡る……なんだ、ちょうどいい名前じゃないか」
「ちょうどいい名前ってなんだよ! ああ、僕の街が……僕の世界が……」
「どうせ空っぽの世界なんだろ? ここは一発、異世界ドリームをつかむ気持ちで臨めっての、少年よ」
「いぃ~~~~やぁ~~~~…………!」
視界が光に包まれていく。何も見えない。それどころか足が地面に着いていない。巨人に投げ飛ばされたように、竜巻に放り込まれたように、世界と世界の間を流れる奔流に翻弄される木の葉になっていた。