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 燦々と降り注ぐ朝の光が眩しい。会社に行くために家を出るのと、あまり変わらない時間帯だった。冬の訪れを告げ始める白い太陽に目を細めながら、藤野は待ち合わせ場所へと急ぐ。

 日曜日の早朝にも関わらず、駅へと続く道をたどる人の数は少なくない。よそ行きの服装や最新ファッションを纏う若者たち、スーツのサラリーマン、タンクトップに短パンで歩く異国の人。様々な装いに身を包んだ人々に紛れて、藤野はいまさらながらに、実際リオについていく必要はなかったのではないかと思い始めた。わざわざ藤野が行かなければいけない理由など、どこに存在していたというのか。

 藤野はそう思いつつも、しかし引き返すことをいつまでもためらっていた。昨日のリオの視線がとてつもなく怖かったからだ。「絶対に来てね」と言った時のリオの目は、そのまま人を射殺せそうなほど鋭かった。あれだけ怖い顔をしたリオを見たのは初めてだが、その分、真剣に考えていたのだろう。

 それに、帰るにしてももう既に遅かった。もう道のりの半分ほどまで来てしまっていた。今から引き返すのも悪くはないが、藤野が帰ったことを知らずに待ちぼうけするリオを想像すると、後ろ髪を引かれる思いでいっぱいになった。リオの携帯電話の番号はもらった名刺で知っていたが、藤野はリオに電話をしようとは思わなかった。

 なぜならあれこれ考えているうちに、とうとう待ち合わせ場所についてしまったからだ。

 待ち合わせ場所と時間を決めたいと言ったのはリオの方だ。どうせ同じ部屋で寝ているのだから、一緒に出た方がいいと思っていた。しかし発案者のリオ曰く、どうやらデート気分を味わいたいらしい。つまらないことをと思ったが、断る理由もなかったので付き合うことにした。リオは藤野が出る一時間前には、もう既に部屋を出ていた。

 待ち合わせ場所にしていたところまで来て、藤野はあたりを見渡す。新宿の目と言われる巨大なガラスを埋め込んだ壁は、薄暗い中で不気味な光を放っていた。長い間待ち合わせ場所に使われてきたそのオブジェは、ずいぶん慣れ親しんだとはいえ、時折禍々しいとさえ思う。シンのバーに灯る光とわずかに似ている輝きは、しかし早朝の駅で見かけるものとはどこかずれているような気がした。

 そのオブジェから数歩離れたところに、リオが立っていた。

 リオはパーカーの上にチェックのネルシャツを羽織っていた。下着だかワンピースだかよく分からなかったいつもの服とは違い、かなりラフな格好だ。よくいえばユニセックスでボーイッシュな服装だが、悪く言えば無頓着だ。それでもファッション誌のモデルのように着こなせてしまうのは、リオの容姿のおかげだろう。ハーフアップにした髪は、いつも下ろしっぱなしだった普段を見ていた藤野に、新鮮な印象を与えた。

 リオはうつむいている。視線の先で、携帯電話を持っていた。今どきのスマートフォンでなく、時代遅れの折り畳み式の携帯だ。画面を見ているせいで表情が良く見えない。しかしふと見えた唇の端は、微かに持ち上がっていた。

 客とのやり取りの後だろうか。藤野が来たことに気付かず、リオはくすりと笑っている。なにかいいことでもあったのかと思い、近付いた藤野は早速声をかけた。

「おい、リオ」

「ひゃっ」

 間抜けな悲鳴を上げて驚くリオに対し、藤野はなんだか複雑な思いだった。

 リオはなぜか携帯を隠す。そんなに楽しいものかと思い、邪魔したような気分になった。

「なんだ、今のは」

「ううん、なんでもない!」

「客か」

「えと……うん! そうだよ」

 リオはあくまで藤野に隠し通すつもりらしかった。まぁいいかと思い、藤野は気にしない振りをした。誰だって隠したいことの一つや二つはあるだろう。気に食わないのは、待ち合わせの間にリオがそれを見ていたことだが。

「ところで、本当に大丈夫なの?」

「なにがだ? 俺の妻は実家の長野にいるから大丈夫だ、バレることはない」

「ううん……それもあるけど、ぼく、よく考えたら藤野さんのこと、全然考えてなかったなって。浮かれてて忘れてたけど、藤野さん、本当は来たくなかったらどうしようかなって、待ってる間ずっと気になってて……」

「あ、そう」

 それで、客とのやり取りに花を咲かせて笑ってたってわけか。

「いまさらな話だろう。それにな、本当に来たくなかったら、こんなところにわざわざ来るか」

「藤野さん……!」

 リオが目を潤ませる。面倒くさいことを言ってしまったかと思い、藤野は慌てて付け足した。

「帰っても良かったんだぞ? 別に、行かなくても俺は困らないからな」

「わぁ、私服の藤野さんもかっこいいね」

「人の話を聞け」

 かっこいいと言われて、思わず戸惑う。しかしそれを誤魔化すようにリオの頭を軽く小突いて、藤野は行くぞと催促した。早く行かなければ、上映時間に間に合わなくなってしまう。公開されて二日目だから、きっと混むに違いない。人混みには慣れているが、やはり好きなものではない。

 足早に歩き出した藤野の後ろで、リオはとことことついてきた。

 周りからは一体どんな風に見えているのか、藤野はなんとなく気になった。


  映画館に入った人の影は、藤野の予想以上だった。反響はよほど大きいのか、館内は人でごった返している。早めに来たおかげで長蛇の列に巻き込まれることはなかったが、それでも苦手なものは苦手だ。藤野は思わず唇を曲げる。そうしてさっさと席を探そうと、はぐれないようにリオの手を引いた。リオは楽しそうに笑っていた。

 映画が始まった。

 スクリーンに映った映像に、藤野はあくびを噛み殺す。ストーリーは既に佳境へと差し掛かっていた。しかし藤野には、この映画のどこが面白いのかさっぱり分からなかった。あたかも砂時計を見ているような気持ちになる。うつむく少女に、微笑む少年。少女の視線はどこを見ているのだろう。少年はなぜ微笑むのだろう。綺麗に仕立て上げられたストーリーの意味も、好きだと告白してしまう原理も、藤野には分からなかった。そもそも共感ができない。物語のように綺麗なものなんて、どこにもないのに。

 一方、右隣のリオは食い入るようにスクリーンを見つめていた。薄暗い劇場の中、光に照らされたリオの表情が浮かび上がる。真一文字に引き結ばれた唇は微動だにせず、見つめる瞳は真っ直ぐにスクリーンへと注がれている。

 見つめるリオの瞳は真剣だった。藤野の視線に全く気付かないほどに。開かれた目を覆う水面の上で、少女と少年が永遠の別れを告げている。つややかで澄んだ瞳に藤野が息を吸った瞬間、その水面は静かに割れた。

 ぽろりと零れた雫が、陶器のような頬を滑り落ちる。リオの目から生まれた涙はどこまでも透き通っていて、水晶にも似たそれに藤野は思わず呼吸を忘れた。

 綺麗だった。

 一瞬ぞくりとする。いつからこんなことを平気で思うようになったのだろうか。知らず知らずのうちに抱いた感情に、薄ら寒さを覚える。けれど、どうしても視線を逸らすことができなかった。

 大粒の涙を音もなく生み出すその目は、どんな世界を見てきたのだろう。風俗嬢という立場にありながらも、リオをこんなにも透明にしたのはなんだろう。時折滲む暗い陰は、どこから差すのだろう。

 映画の展開よりも、藤野はそのことばかりが気になった。一度浮かんだ疑問たちは、頭の中で堂々巡りを繰り返す。一方通行でこのまま止まることのないように思われた思考は、しかしすぐに途切れてしまった。

 リオが鼻をすすって目を閉じた瞬間、藤野にかかっていた魔法は解けた。はっとして、張り詰めていた息を吐き出す。自分が一体何を考えていたのか。問いかけてみるも、答えは既に怪しかった。

 リオは綺麗な涙を拭うことなく、未だ銀幕を見つめている。ふと大波のように押し寄せた衝動に、藤野は迷わずリオに手を伸ばした。指先が頬に触れた瞬間、初めてリオがこちらを向く。きょとんとした顔は、やがてすぐに羞恥の色で赤く染まる。無言のうちに戸惑いを見せたリオの顔の上で、藤野は流れる涙を掬った。

「不細工だな」

 藤野はリオの耳に唇を近付けながら、小声で囁く。リオは「うるさい」と頬を膨らませるが、泣き顔で怒られても全然迫力なんてなかった。藤野は笑う。そしてしとどに濡れてしまった目元を、リオが好きだと言った指で拭ってやる。リオはずっと顔を真っ赤にさせていたが、抗うこともせずに藤野の指を受け入れていた。

 一連の仕草を一体どう見られたのか、突如藤野は後ろからこつんと椅子を蹴られてしまった。


「あ、おいしい」

 適当に入った中華料理屋で、リオはラーメンを一口すすってからそう零した。さっきまでぐずっていたのが嘘のように、今度は元気に「おいしいよ、藤野さん!」と笑いかけている。

「ここに着くまでずっと泣いてたくせに」

 からかってやるつもりで、笑いながらそう言う。リオはふてくされたように口を尖らせた。

「だってあの映画、本当に悲しかったんだもん」

 そう言われればそうだったかと、藤野はさきほどまでの光景を思い出す。よほどの悲恋ものだったのか、観客の何人かもリオと同じように泣き跡の残る顔で退場していった。

「藤野さんもそう思ったでしょ?」

「覚えてないな」

 リオの顔を、ずっと見ていたから。

 決して口には出さずに、その一言を心の中で添える。直後恥ずかしくなって、藤野はリオから視線を逸らした。不満げに「えー」と漏らしたリオに、恥ずかしさをごまかすついでに「ああそういえば」と口を開く。

「一つだけ覚えてるぞ。あの主演女優、お前に似てたな」

「……そう?」

 はっと息を呑んで、リオが目を瞬かせる。藤野は「ああ」と頷いた。

 似ていると思ったのは事実だ。柔らかな雰囲気や優しげな目付きなどは本当にそっくりで、姉妹ではないかと何度も思ったほどだ。そう伝えればリオが喜ぶだろうと思ったが、実際はどうやらそうでもないようだった。

 リオは眉を垂れ下げて、自信なさげにうつむいた。

「ぼくはあんなに綺麗じゃないよ」

 それきりリオは黙ってしまった。地雷を踏んだような気がして、藤野は額に手を当てる。葬式のような雰囲気で食事をするのも嫌だ。そう思った藤野は、とっさに「そうか?」と投げかけた。リオが顔を上げる。

「お前が泣いてたところ、なんとなくだが主人公に似てると思ったぞ」

 こちらは真っ赤な嘘だった。主演女優の演技は大したものだったが、涙を流すシーンだけは食品サンプルのように、取って付けたような違和感が拭えなかった。リオの方がもっと綺麗に泣く。

「それって褒めてるの」

「一応な」

「もう、そんなこと言ったら、彼氏役の俳優なんて藤野さんとは比べものにならないよ?」

「……どういう意味だ」

「藤野さんの方が、何倍もかっこいい」

 直後、リオは食べかけだったラーメンへと向き直る。真っ赤になった顔を見せないようにうつむいて、彼女はもやしの山を切り崩す作業を再開した。

 藤野は唇を歪ませる。自分こそ、あのアイドル俳優に勝るところはないのに。あるとすれば年齢か。

 にしても趣味が悪いぞ、お前。

 リオに顔を向ける。昼食が中華料理屋のラーメンなんて、デートのつもりで来たといった割にはいささか品がないような気もする。しかし、それもそれで悪くはなかった。

 自然と、藤野の口元が小さな笑みの形になる。

「いただきます」

 小さな口で一生懸命に麺を啜る彼女を横目に、藤野は伸び始めているラーメンに箸を付けた。

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