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3:2

 午前中に作成した資料をまとめ終えた後、藤野が弁当を食べようと席を立った時のことだった。

「藤野さん」

 前方でシャープな声が響く。顔を上げると一人の女子社員がいた。藤野の部下、寺内美咲だった。高い位置で作ったポニーテールが目先で揺れる。どこもかしこも引き締まった容姿は、彼女の厳格な性格をそっくりそのまま表していた。入社三年目にしてカリスマ性を発揮し、言われずとも的確に仕事をこなす彼女は社内での信頼も厚く、藤野も一目置いていた。

「寺内か。どうした」

「恐れ入ります」

 藤野の部下、寺内は藤野に歩み寄る。それから寺内は鋭い目つきで藤野をまっすぐに見ながら、手の中にあった二枚の紙をすっと突き出した。

「……なんだ、これは」

 藤野は千円札ほどの大きさをした紙をしげしげと見つめる。

 差し出されたのは映画の前売り券だった。どうやら恋愛映画のようだ。「ロストメモリーと狼少年の告白」というタイトルに視線を寄せる。日にちを見ると、公開は来週の土曜日かららしい。

 藤野は寺内の顔に視線を移した。寺内は口を開くと、冷たく言い放つ。

「もらってくれませんか。無料で構いませんので」

「どうしたんだ急に」

 唐突な相談に、藤野はうろたえた。こんな代物をもらってどうしろというのだ。

「先日彼氏に振られてしまいました。友達にあげても良かったのですか、気まずいからと断られてしまい」

 ああ、と納得する。詳しいことはよく知らないが、寺内は外見と裏腹に恋多き女性であった。

「同僚の中井や春日は?」

「彼らに交際相手はいませんので」

 藤野の提案に対して淡々と答えた寺内に、藤野は苦笑する。

「手厳しいな。それで、俺のところに回ってきたのか」

「ええ。奥様とお二人で行かれてはいかがでしょうか」

「あいにくこのような物に興味はないのだが」

 チケットを見下ろす。最近話題らしい、名前の分からない若手人気女優とアイドル俳優が向き合って微笑んでいた。

「大人でも楽しめる内容ですよ」

「ふむ。寺内、意外とロマンチストなのだな?」

「いえ、彼の趣味でした」

 寺内の言葉は過去形だった。振られたにしては意外とあっさりしている寺内の様子に、藤野は唇をわずかに曲げる。

「お願いします、もったいないのでもらってくれないでしょうか。使わないならそれでも構いません」

 藤野は寺内の目を見た。二人で行かないのなら寺内だけで行けばいいのにと思うが、寺内だって女性だ。別れてしまった相手への思いを断ち切れないような、繊細さを抱えているのだろうか。よくは分からないが藤野はそんなことを思う。

 寺内は藤野にチケットを突き出したまま固まっていた。こういう時の寺内の頑固さはフライパンの油汚れよりもしつこい。

 やがて寺内に引き下がるつもりがないと分かった藤野は、ゆっくりと息をつく。

「分かった。そこまで言うなら俺がもらおう。ありがとう」

 そうしてチケットを手に取る。寺内が微かに笑った。ような気がした。

「いえ、礼を言うのはこちらの方です。ありがとうございます」

 仏頂面でそう礼をして、寺内は踵を返す。単なる業務に過ぎないと言わんばかりに去っていく背中を、藤野は無言で見送った。

 受け取ったチケットを見下ろす藤野の気持ちは、かなり複雑だった。

 映画など久しぶりだった。学生時代に戦争映画を見て以来ではないのだろうか。それを、いい大人になってから恋愛映画など……。恵美とのデートでだって行ったことはない。映画のフォントやプリントされているシーンからすると、若い世代を狙ったものだとすぐに分かる。どうせ、少女漫画だか携帯小説がヒットしたのを映画にしたものだろう。それを、三十路を半ばも過ぎた自分が行ってもいいものだろうか。

 そもそも、自分が恋愛映画など見たところで楽しめるのだろうか。

 藤野は自分が行くか行かないかということよりも、行ったところでどうなのだろうかということで悩んでいた。

「ところで」

 藤野がもらったチケットを見つめていると、いつの間にか戻ってきた寺内が藤野の前にいた。驚いて固まった藤野は取り落としかけたチケットを拾いながら、生来の無表情を向ける。

「まだなにかあるのか」

「いえ。最近話していた猫ちゃんはどうなのだろうかと思いまして。その、藤野さんの家によく出没すると仰っていた」

 藤野は息を詰まらせた。

 猫とはリオのことだった。

 以前、リオについて考えているうちに小さなミスをしてしまった藤野を気遣ってか、寺内が「なにかあったのですか」と、相談に乗ってきたことがあったのだ。

 しかし「家をなくした風俗嬢が自宅に出入りしている」など、口が裂けても言えない。それで話をごまかすために思いついたのが猫の話なのである。

 しかし寺内についた小さな嘘は、時たまこうして藤野を抉るようになった。最近の寺内は、その猫の写真が見たいと迫る始末だ。今のところ、写真は藤野の携帯嫌いが幸いしてかごまかせているが。

 だから藤野は、寺内の疑問になんと答えようか迷った。やがて考えあぐねた藤野はおもむろに口を開く。

「……うむ。相変わらず元気にしているぞ」

 そう言うやいなやくるりと椅子を反転させて背を向けた藤野を、寺内が怪しがったのは言うまでもない。

 藤野の頭の中には、幸せそうに笑う彼女がいた。


 マンションの前で待っていたリオに声をかけて、また二人で中に入る。すれ違う近隣住民の目は相変わらず白々しかったが、もう慣れてしまった。最近では馴染みの主婦さえ視線を逸らしてしまう。そんな時、リオは決まって藤野の後ろで眉を垂れ下げていた。

 それでも部屋に上がり込む時は嬉しそうに笑うリオに、藤野はよくも飽きないものだと感心する。味気ない部屋、味気ない話、味気ない自分。こんな空間にいて、一体なにが楽しいのだろうかと逆に不思議に思う。

 今夜もまたシャツに着替えたリオをベッドに放り込んで、藤野は隣に入った。

 布団を被って闇の中にいても、睡魔はすぐに訪れはしない。慣れた温もりを隣に置いて、藤野は海面に漂うくらげのように意識をさまよわせていた。

「ねぇ、藤野さん」

 藤野が起きていることに気付いていたのか、リオが話しかける。優しい声で名前を呼ぶ時は、寝るまで雑談がしたいという証だった。藤野が短く「なんだ」と応えると、リオは向こう側から声を投げかけた。

「藤野さんってさ、休日はなにしてるの?」

「……特になにもしない」

 リオの好奇心から出た問いに、雑に答える。

「どこかにでかけたりしないの? 買い物とか」

「別に。……ああ、そうだ」

 でかけたりはしないのかと問われて、藤野は寺内からもらった映画の前売り券を思い出した。どうしようかとずっと処理に悩んでいたが、リオならちょうどいい。藤野は体を起こしてベッドから抜け出ると、消していた電気をつけた。そした財布を探し当てると、中にしまっていたチケットを取り出す。

「なに、これ?」

 リオに差し出すと、リオは布団から手を伸ばしてチケットを手に取る。瞬間、リオの目が見開かれた。

「やる」

 がばっと体を起こしたリオにそう言う。ふと、リオはチケットから顔を上げて藤野を見た。

「どうしたの、これ」

「部下からもらった。お前、友達と行ってこい」

 リオは顔をしかめた。ばたりとベッドに伏せたリオに、「どうした」と声をかける。

「藤野さん、行ってくれないの?」

 枕に顔を埋めて、リオは落胆したように言った。くぐもった声に藤野は息をつく。

「お前と行く義理もないだろう」

「むぅ」

 リオが拗ねる。そんなリオに、藤野は納得させようと言葉を紡ぐ。

「好きな人とでも行けばいいだろう。それか、馴染みの客とか。いるんだろう、そういうの」

「そうだけど……でも……」

 うつ伏せのまま、リオはベッドの上で伸びる。だらしなく突っ伏したリオは、やがてごろりとひっくり返った。めくれた布団からリオの細い肢体が突き出る。短パンから見える下着を見ないようにして、藤野は仰向けのリオに視線をやる。

 リオは口を開いた。

「お得意さんはいるけど、基本的にそういうことはしないし、ぼくに友だちはいないもん」

「なんだ、友だちもいないのか?」

 リオは特に恥ずかしがる様子もなく頷いた。藤野は気まずそうに立ち尽くす。

「お店の同僚は、ぼくのことをいっつも仲間外れにするんだ。多分、ぼくが化粧とかお洋服に興味ないからなのかな。それか、ぼくがあの娘たちよりも多くお客さんをとるから、妬ましいのかもね」

 無邪気な顔で爽やかにそう言って、リオはぺろりと舌を出した。小悪魔みたいな仕草なのに嫌味ったらしく感じないのは、リオに悪意がないからだろう。本気でそんなことを考えているのではなく、単なる冗談と思っているようだ。

「それに、ぼくの好きな人は藤野さんだからさ」

 頬を赤らめるリオ。それから心臓の在り処を確かめるように、胸に手を置いた。祈るような仕草はまるで、高鳴る鼓動を抑えようとしているみたいだった。

「だから、行くのなら藤野さんと行きたいなぁ、なんて」

 率直な言葉に、藤野は唇を曲げる。リオはにこにこと笑顔を浮かべながら藤野の返事を待つ。

 しかしその表情は、突如翳りを見せる。

「ねぇ、藤野さんは、誰か一緒に行く人はいないの?」

「え?」

「彼女とか、奥さんとか」

 藤野は言葉を失う。不安げな瞳で藤野を見つめて、リオは唇をわずかに開いていた。

 気まずさにうつむく。白状するのは罪悪感があった。なぜこんな後ろめたい気持ちになったのかは、分かりきっている。

「妻がいる」

 藤野はリオの目を見なかった。目の前で驚いたような、短い声が上がる。しかしすぐに衣擦れの音がした。

 なにかと思って見ると、リオはめくれた布団をかけ直しているところだった。布団を整えながらも頭まで引き上げて、リオは全身をすっぽりと被ってしまう。殻に閉じこもるかたつむりみたいたった。

「そっか、奥さん、いたんだ」

 そんな声が、中から小さく聞こえた。藤野はリオのそばに歩み寄り、ベッドの縁に腰掛ける。もっと驚いた反応を見せるのかと思っていた藤野は、微妙な空気の中で口を切った。

「あまり仲良くはないがな。二人ででかけたこともない。子供が欲しいとも」

「それなのに夫婦なの?」

 藤野は首肯する。それから、そっと頭を出したリオを撫でた。柔らかな髪が指に絡みつく。しかしリオは藤野の手から逃れるように、身を捩った。

「じゃあ、その映画こそは奥さんと行きなよ。ほら、二人の初めて記念!」

 リオは笑う。しかし隠すのが下手くそな彼女の真意を、藤野は見抜いていた。

「お前、まさか貰い物のチケットで相手をもてなせと言うのか?」

「うえっ? そ、そんなつもりじゃないよ……。でも、藤野さんは奥さんと行った方がいいと思う。ぼくがもらってももったいないからさ」

 その気持ちはきっと本心なのだろう。屈託のない笑顔は、しかし途端に藤野の中にあった罪悪感を引きずり出した。

 きっと聞きたいこともたくさんあるはずだ。今まで、妻の存在を隠していたから。それなのに何も言わないのは、リオの中に思うことがあるからに違いない。

 拭えない違和感。

 どうすれば振り払えるのだろうかと考えて、やがて藤野はリオの布団を引き剥がした。はっと目を見開いたリオを引き寄せて、藤野はささやく。

「妻と行くつもりはない。誘えないさ、長い間疎遠だったから。だからこのチケットは、俺が貰うものじゃない」

「……でも、そういうものだよ。藤野さんには決まった人がいるんだから、ぼくなんかが一緒に行くなんて……」

 顔を逸らされる。リオはふてくされているようだった。藤野が行ってくれそうにないことに拗ねているのか。いずれにせよ、藤野は戸惑っていた。自分には妻があるが行く予定はなく、だから好きな人か友人とでも行けと言っただけなのだ。拗ねられるのがこんなにももどかしいものだとは思わなかった藤野は頭を掻くと、覆い被さる形でリオの顔を覗き込んだ。

「おい、リオ」

「ん?」

「ついていってもいいぞ」

「……」

 しばしの間が空く。藤野の言葉に、リオはなにかを考えているようだ。きょとんとした顔で見上げるリオを見下ろしていると、いきなり抱き着かれた。

「藤野さん!」

「ぐぇ」

 二人揃ってベッドに沈む。きつく抱き締められて、苦しくなった藤野はとっさに顔を上げた。頬を染めて嬉しそうに笑うリオを引き剥がしながら、藤野は改めて釘を刺す。

「いいか、一緒に行くんじゃないぞ。俺はついていってもいいと言っただけだ。お前が行かないからといって売り飛ばすのも申し訳ないし、他の誰かを誘うのも面倒くさい。妻を誘うこともしたくない。だから、そんな俺にお前が行きたいと誘うなら、ついて行ってやらんこともない。それだけだ、分かったか?」

「もう、ロマンチックじゃないなぁ。藤野さんは素直じゃないし……」

「嫌か?」

「ううん、全然。ありがとう!」

 藤野の首に手をかけながら、にこにこと笑うリオ。「今度の日曜日ね! 藤野さん、約束だからね!」と下から微笑むリオに、なぜか少しだけ心が晴れたような気がした。

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