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「お前、とんだ理性の塊だな」

 グラスを磨いていたシンが言った。そして藤野に視線を向ける。絶滅危惧種でも見るような目をしていた。

 シンはグラスをテーブルに置くと、がりがりと髪を乱暴にかきむしる。以前に見た赤色とは打って変わって、今度は右と左で色が分かれた妙な髪色をしていた。右は黒檀のように暗いブラウンで、左は朽木のようなアッシュゴールド。生と死の両方の色を備えた髪だ。

「どういうことだ」

 藤野が顔を上げる。やれやれと言いながら、シンはグラスを持ち上げて明かりに翳す。

「あんなことやこんなことされてよく我慢できるよな。それに、すごく懐かれてるじゃんか、話を聞く限り」

「付きまとわれてるの間違いだ。大体な、お前があの時俺に押し付けなければ……」

「すごく羨ましいんだけど。いいな、俺もリオちゃんといちゃいちゃしたい」

「頼むから俺の話を聞いてくれ」

「まぁでも藤野も悪いじゃん?」

 突然方向を変えて向けられた言葉に、藤野はぐうの音も出なくなる。

 確かにシンの言う通りだった。こうなってしまったのは、リオを振り切れなかった自分にも原因がある。ただそれを持ち出されては、話は一向に進まないわけで。

 藤野はシンに鋭い視線を送る。しかし対するシンは、取り合おうとはしなかった。

「今のところ被害はないんだろ? じゃあいいじゃん」

「被害はないが俺が困る。リオは俺に好きだとか平気で宣ったんだぞ。こんなサラリーマンなんぞ、あんな年端もいかない娘が相手にする必要があるのか」

「好きになったら年齢関係ないじゃん。それにリオちゃんかわいいし、いい子だよ?」

「馬鹿か、俺はお前とは違う」

 焦りを顕にした表情で噛み付くように言って、藤野は目の前にあったグラスを引っつかむ。それからスコッチをゆっくり口に含んだ。一気に呷るなどという馬鹿な真似はしない。けれど藤野は今にも牙を剥き出しそうな勢いで、グラスの中身を減らしていった。

 シンが唖然とする。

「藤野、怒ってるの?」

「ああ。あいつに振り回される自分自身に一番な」

「あー、断れないタイプだな。お前、そのさりげない優しさが女を勘違いさせてるって知らなかったのか?」

「今回で身を以て知った」

「やっぱりお前が悪いじゃん……」

 シンは呆れたように息を吐いた。

「藤野がこんなにいらいらしてるの、久しぶりだな」

 二つに分かれた髪色を透き通った表面に微かに映して、シンはまたグラスを翳す。藤野はグラスを乱暴に置いた。

「俺には分からない。愛とか好きとか、そんな抽象的なものなんて」

「……そういって藤野、高校時代に一度きりの告白をぶち壊したよな」

 あぁ、と藤野は息を吐いた。

 思い出したくもない記憶だ。なのに頭の中では記憶のフィルムが勝手に回る。もうどうにでもなれと、藤野は素面のまま吐き捨てた。

 高校卒業式の日、藤野は一人の女子生徒から告白を受けた。

 人生で初めてのイベントだった。その同級生だった女子生徒はクラスでそれなりに人気者で、容姿もよかった。引く手あまただったとシンや周りから噂には聞いていたが、今となってはその噂も実在していたかどうか。

 とにかく、彼女が校舎裏で藤野を呼び出して思いを告げた時、藤野の対応は後にその高校の伝説になった。

 藤野は軽蔑の目で彼女を見るなり、「気持ち悪い」と吐き捨てたのだ。たちまち彼女は泣き出してしまい、それを見た藤野はかなり動揺したのを覚えている。けれどその動揺さえも、なぜ彼女が泣き出したのか理解できないという理由によるものだった。

 結局そのまま彼女を放ったらかしにして帰ったのだが、後から話を聞いたシンの剣幕は凄まじいものだった。なぜシンがそんなに怒るのかも、藤野にはよく分からなかった。付き合ってくれと言われても、藤野には理由も熱意もないし、彼女にそこまでする値打ちもない。だから思ったことを正直に話しただけだと正直に話したら、シンに殴られた。どうやらシンは彼女に下心があったらしい。

 今でこそあの時のように尖ったことは言わないが、それにしても、と思う。なぜ人を好きになるのか。どこからが好きの線引きなのか。どうして異性との間でそれが成り立つのか。藤野には毛ほども理解出来ない。ライクとラブだって同じではないのか。どこからその感情が沸き起こるのか。ひたすら不思議でならなかった。

 とはいえ、当の藤野がそんなことなど知ろうとしたことは一度もないのだが。

 頭が痛くなってきた。藤野は額に手を当てた状態で肘をつく。見ていたシンが口を開いた。

「あの後、校舎裏の桜の木の下で告白をする人は失敗するって噂が流れたよな」

「ああ」

「今でも残っているらしい」

 藤野はもう一つの手も額に添えた。心苦しさに、ため息すら途切れてしまう。このままではいけないと藤野は顔を上げるが、その矢先にシンが問うた。

「お前、なんでそんな女嫌いになったんだっけ」

「さあな」

 藤野が素っ気なく答えると、シンは藤野の真似でもするように唇を曲げた。気付いた藤野は注意しようとしたが、その途中でやめた。

 実際のところ、藤野も覚えていないのだ。なにかあったような気もするが、原因はあやふやのままだ。楽しかった記憶や学校のことはよく思い出せるのに、それ以外は曖昧である。靄のかかる過去は、ひたすらにその輪郭をぼかすだけであった。

「まぁ、お前の過去はどうであれさ。リオちゃんなりのスキンシップだと思えばいいじゃん。本気にしなければいい」

「そうか……そうだな」

 都合のいい言葉をすんなりと受け入れて、ウイスキーで流し込む。なんとなく腑に落ちた気がした。深呼吸するように落ち着いた藤野を前にして、シンは空いた藤野のグラスにもう一杯を注ぎ込む。

「ところでさ、これ、恵美さんは知ってるの」

 びくりと心臓が跳ねた。まさかここで聞く名前だとは思わなかったのだ。

 やがて藤野は首を振る。シンはボトルを下げると同時に、眉を垂れ下げて息をついた。

「大丈夫なのか? まぁお前のことだから、間違いの犯しようはないと思うけど」

「大丈夫だろう」

 確信はなかったが、頷いてみせる。リオとはまだそういう関係には至っていない。手を繋いだこともキスをしたこともない。……裸で押し倒されたのはどうかと思ったが、あれは不慮の事故だ。

「リオちゃんの方は? 恵美さんのことは」

 藤野はまたも首を振る。シンはやけに静かな口調で言った。

「リオちゃん、傷付くんじゃないか」

 そんなの、知ったこっちゃない。藤野は心の中でそう毒づく。シンを見上げれば、目が合っただけで藤野の心中を読んだらしい。シンはコーラだと思って実際に飲んだものがコーヒーだった時のような、実に複雑そうな顔をしていた。

 藤野には妻があった。

 もちろん好きあってそうなった関係ではない。見合い婚だっただけに、藤野の淡白さはひとしおだった。訳あって別居をしているが、藤野から連絡を入れたことは一度もない。会うことさえ滅多にない。そういえば、最後にすがたを見たのは何ヶ月前のことだったか。思い出そうとするも、印象が薄すぎて記憶にはなかった。

「俺はどうすればいいんだ」

 藤野がそう聞けば、シンは「んー」、と唸る。答えあぐねているらしい。散々自分の顎を撫で、頬に手を当て、それからようやく藤野を見る。

「まぁ、リオちゃんのことは別にこのままでもいいんじゃない。別に悪さをする子でもないんだし。様子見てるくらいがちょうどいいと思うけど」

「そうだな」

「恵美さんのことはさ、お前のタイミングで話せばいいと思う」

「ああ……分かった。ありがとう。俺のタイミングがどこかは分からないが」

「さりげなくだよ、さりげなく!」

 気落ちする藤野に、シンはそう言ってチャーミングに笑う。

「藤野、あんまり本気になるなよ。程々に、恵美さんにバレないように、リオちゃんを傷付けないように。俺は独り身だからいくら遊んでもいいけれど、お前、保険は掛けておけよ」

 囁き声でそう忠告するシンに、藤野は頷く。実践出来るかどうかは分からないが、理屈は理解した。意識しながら行動すれば問題ないだろう。

 シンの話に納得して、藤野はシンが新しく入れてくれたスコッチに口を付ける。今まで忘れていたスモーキーな香りが広がる。ふうと息をついたところで、藤野はやおら席を立った。

「なに、もういいの? もっとゆっくりしてもよかったのに」

「時間も時間だ。迷惑かけてすまなかった。これで勘弁してくれ、釣りはいらん」

「藤野、これは?」

 疑問符を口にしながら、シンはテーブルの上に置かれた一万円に目を落とす。

「ウイスキーの分と迷惑料と口止め料」

 藤野はなんでもないといった様子で答えた。シンは目を見張る。

「いくらなんでも多いよ」

「気にするな。というか、これぐらいでないと気が済まない」

「まだ怒ってたの」

「不甲斐ないのは嫌いだ、自分であっても。それに、お前に相談するのも癪だったからな。面目くらい保たせろ」

「分かったよ」

 シンは藤野の言葉に唇を尖らせる。不服そうな態度だが、すぐに笑顔になる。

「困ったことがあったらすぐに俺に話しなよ。相談に乗るからさ」

「恋愛のスペシャリストってわけか? すぐに破局するくせに」

「ちょっと、それだけは言うな」

 軽く冗談を言い合って、それから藤野はドアにつま先を向けた。グラス磨きの作業に戻ったシンは、去りゆく藤野の背中を見送る。

 ドアを半分ほど開けた時、シンが「藤野」と呼びかけた。とっさに振り返る。黄金と宝石に埋もれるようにして立っていたシンが、少年のような瞳で藤野を見ていた。

「リオちゃんを大事にしろよ。でも、勘違いされる行動は控えろ。あと、はまり過ぎるなよ」

「……訳が分からん。とにかく俺は帰る」

 藤野はシンに踵を向ける。片手を上げて挨拶をすると、そのまま外に出た。

「うん、またな。まぁもしそうなったら、俺がもらっちゃうけど」

 ドアが閉まる直前、なぜかそんなことを言われる。聞き間違いかと思ったが、確認するのも気が引けた。

 もらうとは、なんのことだ。リオのことだろうか?

 藤野は少しだけ考え込む。だがすぐに馬鹿らしくなって、考えるのを放棄した。

 きっと冗談だろう。そう思い直して、藤野は地上に続く階段に足をかける。


 マンションに着くと、入口の前に人影があった。慌ててこそこそと茂みに隠れようとしていた影に、「リオ」と声をかける。

「藤野さん?」

 驚いたのか、裏返った声を出してすがたを現したリオに、藤野は渋面で歩み寄った。

「なんだ、またそんなところで待ってたのか」

「ううん。仕事も終わって、ちょうど来たところ!」

 リオは柔らかく笑う。街の光に照らされた頬が、微かに赤らんだ。

 この頃藤野に馴染んできてきたのか、リオは素直な笑顔をよく見せるようになった。時折見せる謎の影は相変わらずだが、それはもはやリオの性格なのだろう。

「そうか。寒くなってきたな。入ろう」

「うん!」

 藤野が番号を押して、二人は中に入った。

 あれからというもの、リオは夜になると藤野の部屋を訪れていた。することは特に何もなく、たわいもない話をしたり、リオの夜食を賄ってやったりなど、些細なことばかりだった。

 リオはすっかり大人しくなっていた。藤野に無理やり迫ろうとすることはもうなく、本当にただ隣に座って話をするだけ。朝になると、仕事なのかリオのすがたはいつの間にかなくなっている。

 ただ、それだけの関係だった。

 仕事の話は一切しなかった。二人とも、お互いに触れようとはしなかったのだ。藤野のことについても。だからリオは、藤野がどんな職種に務めているのかも知らない。

 だけどそれでよかった。リオがそのことをどう思っているかは知らないが、少なくとも藤野がリオのことを軽蔑する気持ちは少し減っていた。他の男の存在を考えることがなかったからだ。たまに、いかにも風呂上がりだと言わんばかりに安っぽいコンディショナーの香りを漂わせていることがあるが。しかし藤野がリオの仕事について思いを巡らせるのは、ほとんどそれくらいだった。

 ちなみに藤野の妻、恵美のことはまだ話せていない。

 タイミングがいまいち分からないというのがあるが、主な原因はそうではない。藤野の決心がまだついていないのだ。

 素直に言えばいいだけなのに、いざ言うとなると気持ちがしぼんでしまう。好きな相手に告白する少年とは、こんな気持ちなのだろうか。いや、だとしてもこんな後ろめたさは、思春期真っ盛りの少年が抱く感情じゃない。藤野は言えないことに対してずっとやきもきしている。それは自嘲にも近い気持ちでもあった。

 いまさら言うのもおかしな話なのだ。別段、藤野が妻のことを愛していると実感したことはない。だからこそ、愛していない人のことを話題にしたくはなかった。

 それに、話したところでリオにとってはなんてことはないだろう。リオを買う男全てに妻がいないとは限らないのだから、藤野についても同じようなものだ。ただ、そうなれば藤野とリオは客と従業員という関係になってしまう。しかし現状において二人がその関係にいるかと言えば嘘になる。藤野はリオを買ってはいない。

 だから、藤野は話そうかどうか迷っているのだ。愛していない人に対する後ろめたさと、そもそも問題にする必要があるのかという疑問。

 藤野の中にマーブル模様の感情が広がる。どうして自分がこれほどまでに悩まなければいけないのかということさえも、悩みの種になった。しかし解決法はいまだ見つからない。

 あれこれ考えるうちに、ただずるずると日にちだけが過ぎていった。

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