表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/19

2:4

 駅のコインロッカーから、リオは手馴れた様子で荷物を引き出した。でてきたのは白いキャリーケースと、小さめのエナメル鞄が一つ。

「それだけか」

「うん。これで全部だよ」

 あまりの荷物の少なさに、藤野はなんだか不思議な気持ちになる。これだけで一体どういう生活をしているのか、少しばかり気になった。だがエナメル鞄の中身が偶然目に入った瞬間、途端に顔をしかめた。リオの鞄に入っている道具がどういう目的のものか、すぐに分かってしまったのだった。

 藤野はやりきれないと言わんばかりに息をついた。

「それで、なぜ毎回毎回俺につきまとうんだ、お前は」

 駅を出て、帰り際。藤野はマンションへの道を辿りつつリオにそう尋ねる。

 夜も更けた新宿の街を、二人は歩いていた。大股で歩く藤野の後ろを、リオは小走りで弾むようについてくる。キャリーケースをころころと引きながらだと歩きにくいのではと思ったが、慣れているのかそうでもないらしい。まるでペットの散歩のようだと思う藤野だが、あえて言わなかった。

「まさかとは思うが、最初から寝場所を確保するために近付いたんじゃないだろうな」

 ぎろりとリオを睨めば、リオはすっかり竦み上がって首を振る。

「ち、違うよ。藤野さん、いい人だもん。一緒にいると落ち着くし、ぼくにはこんな人を騙せないよ」

 それを聞いた藤野は、口をへの字に曲げた。リオは澄んだ目で笑う。

 透明すぎるその心は、性同一性障害のトランスジェンダーという、リオの特質が生み出したのだろうか。だからこそリオは、ウリをやっている割にはそれほど世間ずれしていないのだろう。それに対して口調は子どもらしいというのが、藤野にとって唯一気に入らないが。

「それに、今は藤野さんがうちに来いって言うから来てるだけだもん……」

 痛いところを突かれた。しまったと思い、藤野は唇を噛む。自分の中に生まれた矛盾を処理出来ないまま悶々とする藤野にとって、リオの言葉は鋭く突き刺さった。

 そんな藤野を知ってか知らずか、リオはさらに言葉を続ける。

「そっ、それにね、ぼく……藤野さんのこと、好きになっちゃった!」

「はぁ?」

 驚いて立ち止まれば、背中になにかがぶつかる。藤野は押し潰されたような悲鳴が上がる方へと振り向いた。

「どうしてそうなる」

 突飛すぎる告白に、藤野はうろたえる。リオは鼻をさすりながら、藤野を見た。

「だって、藤野さんが優しいから」

 広がる柔和な笑みに、藤野はものも言えなくなる。頭に花が咲いてるのかと思った。馬鹿らしくなってリオに背を向ける。そしてまた歩き出した。

「冗談はやめてくれ。俺が優しいだと? こんなことで調子に乗るんじゃない。それに、もし俺がお前を騙して悪いところに連れて行こうとしていたら、どうするんだ」

「うーん、藤野さんになら、騙されてもいいかなぁ」

 後ろからリオの声がかかる。きっと、あのふにゃふにゃした顔で笑っているに違いない。おめでたい考え方だと、藤野は振り向きもせずに歩き続ける。

「言っておくが、俺はお前のそういう気持ちに応えるつもりはない」

「いいよ、ぼくが勝手に好きになっているだけだからさ。藤野さんは気にしないで」

 冷たく突き放すように言ってみるが、リオは声の調子を変えなかった。ただヒールを鳴らしながら、藤野の後を追いかける。

 置いていかれないようについてくるその様は、まるでひなの刷り込みみたいだった。しかし、藤野にとってはそこまで微笑ましい光景とは言い難い。これまでの経緯をよくよく思い返してみても、なんともいい思い出がなかったのだ。

 とはいえ、それらのほとんどは強引で唐突すぎるリオの行動と、ついそれに折れてしまう藤野の心が原因なのだが。

 何度も断る機会はあったはずなのに、どうしてこうなったのか。藤野は考えるが、どう思い出しても強く言えない自分のせいだと分かるだけだった。

 ええい、頭痛がする。なんだこの、じくじくと疼くような痛みは。藤野は考えるのをやめようとふるふると頭を振る。すると、それを見ていたリオが笑い声をあげた。

「藤野さん、犬の真似してどうしたの」

「馬鹿、誰のせいだと思ってる」

 思わず藤野はそう怒鳴った。


 家について、先にリオに風呂に入るように言った。キャリーケースはリビングに置いたまま、藤野はスーツを脱いで部屋着になる。

 ソファに腰掛けると、今まで麻痺していた疲労感がどっと押し寄せてきた。いつもの倍以上に疲れている気がした。肩にのしかかる重みはなんなのか。きっとのリオのせいに違いない。藤野は天井を見上げて息をついた。

 不意に、煙草を吸いたい衝動に駆られる。藤野はテーブルの上の箱を手に取って、一本だけを取り出した。そうしてライターに手を伸ばす。しかしその時、藤野は壁やソファに付く臭いが気になってしまった。思いとどまろうとする藤野。だが藤野が家で吸うことは、月に一回あるかないかだ。

 どうせ、大したことにはならないだろうと高をくくる。迷いを振り切った藤野は、先端を小さな炎に沈めた。

 体内を巡る煙にはまるで重さがあるようで、しかしその重さは吐き出すと同時に、解放感と爽やかさをもたらした。たまの煙草もいいものだと、藤野は肺に溜まった空気を吐き出す。

 しばらくそれを繰り返しているうちに、バスルームのドアが開いた。目を開いて時計を見ると、帰って来てから十五分ほどしか経っていない。女性の入浴時間にしては短すぎやしないかと思う藤野は、出てきたリオに声を掛けた。

「なんだ、もっとゆっくりすればいいのに」

 リオはティーシャツにハーフパンツという、かなりラフな格好をしていた。見たところ男物らしく、藤野が持っているものに少し似ている。

 タオルで髪を拭きながら、そう言われてリオは顔を曇らせた。

「藤野さんにはなるべく迷惑かけたくないし……」

「よくそんなこと言うな。ここまでしておいて」

 藤野は薄く笑う。大胆なことを言うくせに、リオのやることは細かい。いまいち分からないやつだ、と藤野は息を吸った。

「座っても?」

「好きにしろ」

 リオは藤野の隣に座った。藤野が安堵するように息を零す。紫煙は目線の先で渦を巻いて、ほわりと消えた。

「お前が来てくれて、良かったと思う部分を一つ見つけた」

 なにげなく呟いた言葉に、リオはびっくりしたように声を上げる。

「えっ、なになに?」

 それから髪を拭く手を止めると、興味深そうに藤野を見た。

 長い間使っていなかった灰皿に、煙草を押し付ける。綺麗に洗ってあるそれを汚すのは気が引けたが、どこか清々しい思いもあった。藤野は口を開く。

「お前と一緒にいると、煙草がうまいと感じる」

「……もう、なにそれ」

 藤野の皮肉に、リオはぷくっと頬を膨らませた。面白いのでしばらく見ていると、藤野はふとあることを思い出した。

「ところで、そうだ。腹は減ってないか」

 ソファから腰を上げる。そのままリビングに向かおうとすると、見ていたリオが慌てて立ち上がった。そして「大丈夫!」と叫ぶ。けれど途端に、リオのお腹が盛大な音を鳴らした。

「……」

 うつむいたリオは顔を真っ赤にさせてもじもじとしている。外見はいつもの無表情を装って、藤野は驚いた顔を向けた。

「あう」

 リオは恥ずかしそうに、藤野を見ないようにしていた。藤野は瞬きを二回繰り返す。

 やがて藤野は、取り繕うようにリオに言った。

「……まぁなんだ、遠慮はするな」

 その言葉に、リオはうつむいた首の角度をますます深くした。


 なにか軽く作ろうかと思い、冷蔵庫のドアを開ける。焼きそばがあったので、あとは適当に野菜と肉を取り出した。

 料理スキルは一人暮らしをするうちに身に付いた。一通りの家庭料理は作れるし、弁当も自分で作って持って行く。料理が得意だと自負するつもりはないが、一人暮らしにしてはなかなかのものだと、社内ではそれなりに評判だった。

 だが藤野は今、少しだけそのことを後悔していた。

「……お前、なんでそんな目で俺を見る」

 リオは目を輝かせながら、憧れるような熱い視線を藤野に注いでいた。振り返った先で、リオは慌てて目を逸らす。しかし藤野は見逃さなかった。

「なにかいいたいことでもあるのか」

「えと、その、綺麗だなって。藤野さんの手が」

「手?」

 予想外な言葉だった。自分の手を見下ろす。ごつごつして節くれだった、普通の男の手だ。リオが綺麗と言った意味がよく分からない。

「そんないいものでもないだろう」

「ううん、素敵だよ。ぼくにはないから、羨ましいの」

 そういうリオの手はふっくらしていた。指は細い。余計な皺もなく、若さと張りのある女らしい手だ。リオの手をあまりじっくりと見たことはない。だがおそらく、同年代の女から見てもリオの手は綺麗の部類に入るのではないだろうか。少なくとも、こんなごつごつした手よりはマシだろう。藤野は麺にソースをかけながら、密かにそんなことを思った。

「おいしそうだね」

 いつのまに後ろに立っていたリオがそう言って、ひょっこり顔を出す。コンディショナーの香りがした。自分のコンディショナーなのに、他人の匂いはこんなにも生々しいものだろうか。くらくらするような気がして、藤野はどうにかしようとリオを振り向く。

「リオ、右手にある棚から皿を出してくれ」

「はーい」

 コンディショナーの香りはすぐに消えた。

「おいしい!」

 そう言いながら、目の前に座ったリオはぱくぱくと焼きそばを平らげていく。極上のフルコースでも味わうような、満悦そうな顔だ。この様子だと、普段はコンビニ食が主だったのだろう。なんとも不摂生なものだ。

「そうか、よかったな」

 多めに作っておいてよかった。そう思いつつ、藤野は開けた缶ビールを傾けた。

 ふとリオが頭を上げる。その顔は好きな人とキスをしたような、幸せそうな笑みを浮かべていた。

「藤野さん、ぼくのこと好きでしょ」

 危うくビールを吹き出しかけた。

 そんな下品なことをしてたまるかと踏みとどまった藤野は、なんとかビールを飲み下す。それから缶をテーブルに置くと、リオを睨みつけた。

「お前の頭には花でも咲いているのか」

「ありがとう」

「褒めてない」

 藤野はそう言うが、リオはにこにこと笑うだけだった。

「だって、好きでもなければこういうことしないよ」

「俺の行動に、お前に対する好意があるとでも?」

「うん」

 リオは頷く。藤野は呆れた。なにか勘違いをさせてしまっているらしい。

「腹を空かせているやつを目の前にして、一人で食えるか。それに、お前をほったらかしにしたら、なにするか分かったもんじゃない」

「でも……」

 続けようとするリオに、藤野は「とにかく」と言ってティッシュで口元を拭う。

「俺はお前の気持ちには応えられない」

「なんで? 藤野さん、ぼくのこと嫌い?」

 さらりと聞いてくるリオに、藤野は言葉に詰まる。こういうことを平気で口に出来るから、リオの言動は時折対処しにくくなる。しかしわずかに細められたその目は「嫌いにならないで欲しい」と、必死で訴えていた。どこか臆病で影のあるリオは、自分が傷付くよりも誰かを傷付けることをひどく怖がっているようだった。

 席を立ち、ティッシュを捨てるためにわざわざゴミ箱まで歩く。リオに背を向けながら、藤野は言った。

「俺は、好きだとか嫌いだとかいう感情が分からない」

 今度はリオが言葉を詰まらせる番だった。

 振り向くと、リオは手を止めたままじっと藤野を見ていた。純粋な興味をもって、藤野の奥にあるなにかを見つめている。隠されたなにかを探すような、悪意のない目。人畜無害という言葉が頭にふと浮かぶ。

「誰かを好きになったこと、ないの?」

「ない」

 藤野は即答した。

「恋をしたことも?」

「そうだ」

 自嘲の意味を込めて、リオに視線を送る。けれどリオの様子は相変わらずだった。気の毒そうな顔をするでも、見下そうとする態度でもない。

 ただ丸い目で、藤野をじっと見つめていた。透き通った眼差しに貫かれ、藤野の方が先に視線を逸らしてしまう。なぜリオがそんな目で見るのか分からない。やりきれなくて、藤野はごまかすように言葉を続けた。

「おかしいと思うだろ。俺はシンやお前とは違う。誰かを好きになるなんてできない」

 感情を欠いたような声でそう告げる。けれどリオは何も言わなかった。

「気持ちいいことも?」

 代わりに、別の質問が飛んできた。藤野は首を振る。

「できない。俺は女を抱けない。誰も、愛せない」

 否定語を連ねる藤野。うつむいた藤野の先で、リオは笑った。割れた水晶のような目が、藤野に向けられた。

「ぼくと同じだね」

 聞こえたのは包み込むような、優しい声だった。

「どういう意味だ」

「だめなんだ、ぼくも。薬がないと、まともに仕事ができない」

 薬、と考えてすぐに思い至る。そうだ、彼女の職業は。

「でも、恋愛対象は男なんだろ」

「恋愛だけならね。性行為自体は、別にぼくが好き好んでやっているわけじゃない。むしろ怖い。でも、藤野さんだけが特別なの」

 リオはふわりと笑う。水泡のように溢れていく言葉に、藤野は不思議な感じがした。特別と言われたって、それがすぐに好きとかいう感情に繋がるものなのか。言葉のないまま、二人は互いに見つめ合う。隙間から覗く綺麗な琥珀からリオの心が見えやしないかと探るけれど、この時ばかりは彼女の持つ笑顔の意味が分からなかった。

 藤野は息をついて前髪をかきあげる。なにげなくテーブルに視線をやると、自分の焼きそばは半分も残っていた。食べる気はもう起きない。胸をなにかに塞がれたような思いで、藤野はリオの前にある空っぽの皿に目をやった。それから話題を変えようとして口を開く。

「リオ、残ったので良ければ、俺の分も食べるか」

「いいの?」

 頷くと、リオは満面の笑みで藤野の皿を取り上げた。

「ありがとう!」

 そしてまた箸を動かし始める。よほどお腹がすいていたのか、リオはよく食べた。

 満面の笑みで藤野の残りを頬張るリオに、藤野は無言で椅子に腰掛ける。気まずさを解消しようと持ちかけたが、まるで逆効果だった。呼吸が変なリズムを刻む。どこに視線をやればいいのか分からないまま、藤野はリオに言われた言葉の意味を静かに考えていた。

 寝る時間になって、リオと一緒に寝室に入った。既に歯磨きは済ませてある。予備の一本はリオに貸してやった。ついでにドライヤーも貸した。髪の湿気で枕が濡れるなんてのはごめんだった。

「ベッドで寝てもいいの?」

 不可解そうな顔をするリオに、藤野は毅然と背筋を伸ばして言った。

「ソファで寝ると風邪を引くからな。お前、引いた風邪を俺に移すつもりか」

「だ、大丈夫だよ」

 そう言ってリオが笑うので、藤野は思わず鼻を鳴らした。

「どうだか。……でも、そうだな。馬鹿は風邪を引いてもなんとやらと言うな」

「もう、ぼくはそこまで馬鹿じゃないもん」

 憤慨しながら頬を膨らませるリオは、まるでリスのようだった。

「嫌なら床で寝てもいいぞ」

「ええっ。……ふ、藤野さんがそう言うなら!」

 どこまでも盲信するリオ。冗談だと笑えば、リオはまた頬を膨らませた。

「藤野さんも一緒に寝るの?」

「広いからちょうどいいだろ」

 言うやいなや、リオは真っ先にベッドに入っていく。あたたかいと言って笑みを零すリオの横に、藤野も入った。

「藤野さん、あったかいね」

「当たり前だろ、生きてるんだから。おいリオ、もうちょっと詰めろ。あんまりひっつくんじゃない。変なこともするなよ」

「う、藤野さん、冷たい」

 くっつこうとしていたリオに背を向けて、藤野はぶっきらぼうに「おやすみ」と言う。やがて向こうからも「おやすみなさい」という声が聞こえた。

 互いの温もりが触れるか触れないかの距離で二人は背を向け合う。すぐにリオの寝息が聞こえてきた。

 ふと、埋まらない隙間という言葉が浮かぶ。大きなものを欠いてしまった自分に、ぴったりの言葉だ。リオもきっと、その隙間をもっている。ただ、リオの場合は回路がずれているだけなのだ。それによって生じた隙間を持つだけで、藤野のように元から欠落しているわけではない。むしろ彼女はその隙間を埋めるようにして、感情豊かに行動する。

 だかそうだとしても、なぜ彼女を受け入れようと思ったのか。自分のことながら不思議に思う。けれど施してやるのも悪くない。 藤野は少しだけ、そんなことを思い始めていた。

 目を閉じる。規則正しいリオの寝息に耳を澄ませながら、藤野は闇の中で合わない呼吸を繰り返していた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ