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2:2

 玄関に佇んでいた藤野は、バスタブから聞こえる水音に我に返った。タイマーが鳴って、しばらくすると流水音が止む。いつの間にぼーっとしていたらしい。間抜けな自分に嫌気が差した。藤野は乱暴に靴を脱いできちんと揃えると、足早にリビングに向かった。

 リオはソファにぐったりと横たわっていた。まぶたは固く閉ざされている。零れ落ちて床に垂れた髪は、乱れながらもあでやかに波打っていた。まるで一番綺麗に見える形を最初から知っていたように。ギリシアだかローマだか定かではないが、藤野の記憶にはこんな彫刻があったような気がした。

 藤野はリオの肩に触れた。柔らかな熱に一瞬怯む。藤野がもう一度触ろうとしたところで、リオははっと目を開けた。

「……藤野さん」

「起きたか。そこで勝手に寝ようとするな」

「ごめんなさい」

「謝らなくていい。それより、シャワーを浴びてこい。ちょうど風呂もできたところだからな」

 え、とリオの口から小さな声が零れた。不満だったかと思いリオを見る。彼女は子供のように目を輝かせていた。

「いいの?」

 そこまで嬉々として喜ばれたら、ダメという方がはばかられる。藤野はそれ以上の言葉を断ち切るように「いい」と答えた。

「ソファが汚れるからな」

 刺のある言葉にリオは唇を尖らせるかと思いきや、嬉しそうに微笑んでいた。リオは体を起こし、藤野の顔を覗き込む。

「シャンプーとか、コンディショナーも使っていい?」

「勝手にしろ、男物しかないがな。なんなら髭剃りを使っても構わないぞ」

 藤野の冗談に、リオは快活に笑う。そうして、リオは飛び跳ねるようにバスルームに向かった。あまりにも子どもじみたリオに、呆れるどころかむしろ感心を覚える。それから藤野は、風俗嬢とはこんなにも感情に素直なのかと少しだけ真剣に考えてみた。先ほどまでなんとなくしおしおしていたリオが元気そうにバスルームに向かったのを見ると、こころなしか藤野の中に穏やかな波が広がるような気がした。

 くぐもったシャワーの音が、藤野のいるリビングまで届く。海の漣にも似た水音の中、リオは藤野の知らないメロディーを口ずさんでいた。時折深いため息が聞こえる。満足そうな吐息だった。

 藤野がスーツを脱いで部屋着に着替えると、ちょうどリオが出てきた。バスローブを羽織っただけの、簡単な格好だ。濡れた髪が痣だらけの肌に張り付いている。未だ滴る雫をバスローブで受け止めて、リオはほうと息をついた。

「藤野さん、ありがとう。……結構、私服はラフなんだね」

 リオは藤野のすがたを見て笑う。馬鹿にするような感じではなく、愛しさのこもったものだ。

 こんな服装誰だってしているだろうと思った藤野は、無地のティーシャツにスウェットすがたでリオに歩み寄った。彼女の服をどうしようかと思ったのだ。洗濯しようか藤野は迷う。しかし泊める気はさらさらない。となれば、ここはさっさと着替えて帰ってもらうのがいいだろう。

 その前に、藤野は薬箱を探さないといけなかった。使う機会はなかったが、家のどこかにあるはずだ。

 薬箱を探そうと、リオに背を向ける。その瞬間、藤野の胴に伸びた腕が絡みついた。

「藤野さん」

 リオは藤野に抱きつく。背筋がぞわりと粟立った。背面からわざとらしく押し付けられるそれに、驚いた藤野は反射的に背を反らす。欠けた陶器が合わさるみたく、リオは藤野の背に嵌ろうとする。それから逃げるように、藤野は前に回された細い手を掴んだ。振り向いた拍子に、藤野はついバランスを崩してしまう。リオもろとも倒れ込んだ藤野の上に、バスローブがはだけて落ちた。

「なにをする!」

 押し倒された藤野が、怒りの目でリオを睨む。しかしその瞬間、見えたリオの裸に絶句した。

 タトゥーのようなどぎつい紫色が、腕に、腹に、太ももに点々とあって、リオの体を覆っていた。服で見えなかった部分だ。

 特にひどいのは下腹部だった。殴られたのか、広範囲に広がる痣がリオの皮膚の色を変えていた。

「お礼……ぼくにはこんなことしかできないけど」

 リオは笑う。自分を嘲笑するような微笑みだった。湿った髪が藤野の首に触れる。ぞくりとするほど冷たい。前にもこんなことがあったなという既視感に藤野が惚けていると、リオはおもむろにティーシャツを捲り始めた。その感触にはっとして、藤野はリオの手を掴んで制止する。

「待て。本当に、その傷はどうしたんだ」

 思い切ってそう訪ねた。リオの瞳が揺れる。それからリオは首を振りながら、なんでもないと笑った。

「いつものことだから気にしないで。それとも、藤野さんは気にする? そしたら服、着たままするよ」

「無理をするんじゃない。いつからだ?」

 リオは答えない。代わりに、悲しそうな顔で唇を噛んでいた。いたたまれなくなって藤野は体を起こす。うつむいたリオの前髪から、雫が垂れた。藤野と同じ匂いがした。

 リオは震えていた。おそらく、帰り道に遭遇してからずっとそうだったに違いない。髪の隙間から覗く目はなにかに怯えるように揺らいでいる。

「藤野さん……」

 そう呟いた声は、今にも潰れてしまいそうなほど歪んでいた。えっ、と声を上げてリオを見る。途端に、透明な丸い玉がリオの頬を滑り落ちた。

 藤野は動揺する。女の子を泣かせたことなど、同級生からの告白を断った高校時代以来であった。泣かれるのは好きではない。相手が女性であれば、いっそうそうだった。

 リオの肩に触れる。すっかり湯冷めした肌は、冷蔵庫にしまってあった豆腐に似ていた。

 なにも言わないリオに、藤野は詮索するのをやめて息をつく。

「とりあえず服を着ろ。そしたら落ち着こう。俺のを貸すから。な?」

「うん。……うん」

「それと、今からその怪我治してやるから、じっとしているんだ。いいな」

「うん」

 泣きながら頷くリオを、ゆっくりと引き剥がす。リオは抵抗しなかった。それから藤野は立ち上がり、薬箱を探そうとリビングの棚の扉を開けた。

 これは、怪我を治すどころではないかもしれない。

 棚の扉に映るリオの影を見ながら、藤野は今更ながらにそんなことを思った。


「ぼくは男なんだ」

 二人はソファに座っていた。藤野のそばには薬箱が置いてある。周りには、くちゃくちゃにくっついてしまった絆創膏がいくつも転がっていた。何度も失敗したやつの残骸だった。

 リオの肩に絆創膏を貼り終えた時、そんな言葉が耳朶を打った。達成感に息をつく前に、意味が分からず顔を上げる。リオは絆創膏の貼られた手首を見つめていた。

「どういう意味だ」

「体は女だけど、ぼくは自分を男だと認識してる」

 静かな声に、手が止まる。それに気付いたリオは、藤野の方を向いた。

「それなのに身売りを?」

 身も蓋もない言葉に、リオは素直に頷いた。けれどその目はなにかに怯えるように、藤野を見ていた。

「恋愛対象は、男の人だから」

 それから薄く笑う。鳶色の瞳が、伏せたまつ毛の影に隠れる。

 藤野はなにも言えなかった。というより、言葉を忘れていた。なんと言おうか必死に言葉を探すが、そのうちにリオがくすりと笑う。

「驚いた? 気持ち悪いでしょ」

 リオはいたずらっぽく舌を出した。笑えない、と首を振る。

 藤野は絞るように言葉を吐いた。

「なんでこの仕事なんだ」

「どうでもよくなったんだ。男だとか女だとか、考えるのもめんどくさくなって。だからぼくは自分の性を受け入れた。この一人称は、ぼくが、ちゃんとぼくだったっていう証。でも、お仕事の時はちゃんと女の子になるんだよ。ほら、こう言うの。『抱いて』って」

 藤野の耳元で、リオは秘密を囁くように言った。迷いもためらいもない、澄んだ声で。藤野は腑に落ちないという顔でリオを見下ろす。

「つらくないのか」

 リオは頷いた。藤野はわざとらしくため息をつく。不安がるような目が、藤野を見ていた。

「藤野さんはぼくのこと嫌い?」

「どうしてそうなる」

「だって、そんな風に見えるから……」

「失礼なやつだな。なんだ、お前は俺に嫌いになってほしいのか」

「ううん、違うよ! ほら、ぼくの中身はめちゃくちゃだからさ。それに、ぼくはあんなことでしかお礼できないのに、藤野さん、あんまり嬉しそうじゃなかったから。このまま迷惑かけちゃうのも嫌なんだ。ぼくはぼくにできることがしたいし、藤野さんにも気持ち良くなってほしいって思ってたんだけど」

 なんでもないようにそう言ったリオに、藤野はどんな顔をすればいいか分からなかった。これは、本気と受け取っていいものか。だが蔑ろにしたらしたで、リオが傷付いてしまう気がした。

 なにより、リオへの対応が果てしなくめんどくさい。

 藤野はまた吐き出しそうになるため息を呑み込んだ。

「あー、もういい分かった。今日はお礼とか、そんなことは考えなくていいから。それはまた今度な。とにかく、落ち着いたら帰れよ」

 仕切り直すようにそう言い聞かせれば、リオはまたも素直に頷く。けれど肩を落としたリオに、藤野は慰めるように目の前の髪をわしゃわしゃと撫でた。

「そんな暗い顔をするんじゃない」

 生乾きの髪から、まだ残っていた雫が飛び散る。しばらく続けていると、リオはやがて不機嫌そうに「もう、そんなに撫でないでよ」と言って頬を膨らませた。悪いと思って慌てて手を離す。しかしもう一度だけ見たリオの顔は、少しだけ明るくなった気がした。

「ずっと、あそこで待っていたのか」

「うん」

「そうか。あの辺は危ないから気を付けろ。治安が良いわけじゃないし、なにがあるか分かったもんじゃない。俺だっていつおやじ狩りされるか……」

 藤野の忠告に、リオはふっと笑う。藤野は不機嫌な顔を向けた。

「なぜ笑う。なにがおかしい」

「藤野さん、優しいね」

「優しくない」

「優しいよ。こんなぼくを助けてくれたの、藤野さんくらいだもん」

 優しいという言葉に、心外だ、とますます唇を曲げる。自分がそう言われるとは思わなかった。冷たいだとか淡白だとか言われたことは数あれど、優しいと言われることは滅多になかったのだ。もしかしたら常に寄せた眉とへの字に曲がった唇が、その言葉を縁遠くしているのかもしれない。

 別に、藤野は誰にも優しくしないというわけではない。助けを求められれば手を貸すし、困っている人があれば、自分にできることを訊きにいく。

 ――もっとも、そのすべては損得勘定の上に成り立っているのだが。

 しかしそんな言葉こそ、なにか裏があるのではと思う藤野であった。

「金が欲しいのか」

 思わず飛び出た言葉に、リオは悲しそうな顔をして首を振る。

「ち、違う。そんなんじゃない……」

 そして言い淀み、うつむいた。藤野は顔をしかめる。訳が分からなかったのだ。

 金目当てで来たのでなければ、自ら服を脱いで馬乗りになろうとするだろうか。「お礼」と称して自分を買わせて、いいカモだと漬け込む気ではないのだろうか。そうして、自分を自らの得意にするつもりではないのだろうか。

 藤野の中で嵐のように渦巻く疑惑を前にして、リオはふにゃりと笑う。

「さっきのは、ホントのホントのお礼。ぼくにはなにもないから、これくらいしかできないし……」

 なにもないから、のところだけが空虚に聞こえた。リオは笑顔を浮かべる。さっきから目にする、自分を蔑ろにする笑いだ。使い古したような笑顔はリオの表面にぴったり張り付いている。長年の間に染み付いたものだと、すぐに分かった。

 先ほどのように苛立ちはしないものの、やはりその笑顔は藤野を苦しめる。

「金で買う方が後腐れがなくていい」

 静かに吐き出した言葉に、リオは「えー」と頬を膨らませる。藤野は、取り合うつもりはないと言わんばかりに顔を逸らした。

 彼女がなにをしてほしいのか、藤野にはまったく理解できなかった。不可解で見えないリオの感情に気持ち悪いと思う藤野だが、元より藤野は、他人との適切な距離の取り方が分からなかった。

 もしかしたら、理解できないのは自分が悪いのか。藤野は少しだけふてくされてみる。

 いろいろな境界線をすっ飛ばして、飛び込んできたリオもリオだと思うのだが。

 それでも、リオが自分を金蔓にしようとしているという疑いが消えることはなかった。

 その時、藤野の中にある考えが浮かぶ。リオを試してみようという考えだった。

「なぁ、リオ」

 名前を呼ばれれば、リオは目を動かして「なに?」と訊いてきた。

「着替え、どうする」

 リオは藤野が貸し与えたシャツとジャージを身に付けていた。下着は藤野のトランクスを履いている。無論藤野がブラジャーなどというものを持っているはずもないので、シャツは素肌の上に着るような形になっていた。

 年若い娘にこんな格好をさせるのもどうだろうかと思う。しかしランジェリーショップなど夜中に開いているはずもなく、縋るような思いで足を運んだコンビニには、そんなものは売っていなかった。店員にたずねたら変な顔をされた。

 リオは、案外まんざらでもなさそうだったが。

「洗濯してくれてるんでしょ。乾くまで待ってる。……藤野さんが嫌なら、そのまま持っていくけど」

「俺の服はどうする」

 リオは「んー」と唸る。その表情は、徐々に困惑したものになっていった。

「どうしよ……」

 弱々しく呟いてリオは困ったような顔になる。なにも考えていなかったのを怒られるのではと、怯えるような表情だった。

 藤野は目を閉じて、疲れたように息を吐く。

「提案だ。うちに泊まっていくか、乾いていない服に着替えて夜のうちに出ていくか。どっちか選べ」

「へっ」

 リオは口を開けてぽかんとしていた。まさかそんなことを藤野から提案されるとは思わなかったのだろう。一応人の心はあるんだぞ、と藤野は思う。そんなことは決して口にはしないのだが。

 やがて、リオの顔にとろけたような笑顔が広がった。嬉しくてたまらないという顔だ。

「藤野さん!」

 そしてそのまま、リオは藤野の首に抱きついた。そこまで喜ばれるとは思わなかった藤野は、リオの抱きつきを阻止できずにソファに倒れ込む。

 そうしてやたら抱きついてくる彼女をまた引き剥がしながら、藤野は言葉を続けた。

「言っておくが、お前はここで寝ろ」

 自分の背がもたれかかっているソファを指差す。リオは首を傾げた。

「藤野さん、一緒に寝てくれないの?」

「二度も襲ってきたヤツと誰が寝るか。俺は自分の部屋で寝る。鍵は掛けるから、お前は入って来れない」

 リオの眉がしょぼん、と垂れ下がる。藤野はリビングのテーブルの上に財布が出ているのを確認した。

 これで明日、もしも中身が減っていたら。猜疑心に満ちた藤野は、リオを信じる気など端からなかった。

 藤野は女に騙されたことはないし、そもそもリオに非なんてない。それでもあの純粋な笑顔が、本物かどうかを知りたかった。リオが風俗嬢という立場で、藤野はそんな彼女を見下しているから。

 藤野はソファから立ち上がった。

「今日はもうそこで寝ろ。俺も寝る。お前の服は朝までになんとかなってるだろう」

「本当にいいの? やった」

 ぽす、とリオがソファに横たわる。半袖のジャージ下から伸びる細い足を投げ出して、リオは満悦そうな笑みを浮かべていた。

「待ってろ、今タオルケットを持ってくるから」

「うん。ありがとう、藤野さん。……藤野さんって、本当に優しいね」

「はっ、そうかもな」

 リオの言葉に適当に頷いて、藤野はリオを試すべく自分の寝室に足を向けた。

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