90.美味しいビール
昨日…細かく言えば今日の2時くらい
今回は打ち上げは早く終わった
理由は精神的に疲れたかららしい…
彼方は苦笑いを浮かべながらその会話を交わす
でもそう言ってくれた表情は誰もが笑っていた
皆が撤退していく中
速瀬の顔がちらほらと人の合間から見える
珍しい光景を目にすることが出来た
『め、珍しいですね…』
珍しいといえばこの敬語もだ
だが敬語を思わず使ってしまう程目の前のキャラに
異変が起きまくりだった
彼方の姿に気付くと缶ビールを片手に手を振る
『はぁーーーい!!彼方ちゃん!!』
夢でも見ているのか…
まさしく達の悪い酔っ払いが彼方の名前を呼ぶ
思わず驚いてしまった
『か、彼方ちゃん…って』
そりゃないよ
貴方のキャラじゃない
そんな顔をして何杯飲んでしまったのか
お酒には強いはずの速瀬さんが
『今日はよかったわねぇ〜…最高のライブだったわよ。いい子いい子!!』
『いい子いい子って…』
これで二回目…
彼女の言ってる事を繰り返すしか言葉が出てこない
そう言いながら立ち上がって俺の頭を撫でようとする
が、足に力が入らないのか
壁に身体を預けてしまう
『ははっ!こんな自分は初めてだわ…最高にいい気分』
『はぁ〜』
決して速瀬の耳に届くことない溜息を漏らす
『今までの子はね…私があっちって言ったらその通りしたがって全部が計算どおり行って必ずトップへと上がっていったわ…必ず貴方を頂点へと立たせてあげるそれが絶対の条件でそれが私の仕事だと思ったしやりがいがあるって思ってた』
身体を預けていた壁に手をつき正面へと身体を向ける
『まぁ、それは今も変わらないつもりだけど…だけど貴方ときたら私の言ってることに泣くわわめくは…終いには勝手なことしてくれるは、逢うは…私の話をぜんぜん聞かない大馬鹿馬鹿野郎だし』
『だし…って』
大馬鹿野郎…それはきっとこんな状況だからこそ言えるんだろう
『ふふふっ…くすくすくす』
いきなり笑い出す
『だけど、そんな困難がなきゃ…こんなにお酒がおいしいなんて気付くことなんてなかった。貴方のおかげだと思うわ』
しゃべりながらもういっぱい煽る
『そしてその奇想天外が貴方の魅力でもあるのよ』
『…速瀬さん』
彼方は酔っ払ってる速瀬を思わず見つめる
『………』
『…』
『ありがとう』
少しの沈黙の後静かに言葉が降ってくる
『えっ』
彼方自身が言いたかった言葉
それを先に言われるほど驚くことはない
『私、こんな性格だから辛いときに飲むお酒しか知らないのよ』
今までの速瀬が見えたような気がした
ここまで完璧に人をトップに上がらせるには
それなりの確信、直感がなきゃ出来ない
それを得るために何度挫折しそうになったか彼方には分からないだろう
その度に酔わないと分かっていてもお酒を飲む
状況がとって分かるように脳裏に浮かんだ
『ありがとう』
『…っ何もしてないよ。俺』
それ以外何も言葉に出来なかった
こんな時にお礼も言いたくなかった
速瀬が言ったから自分も言うなんて
つられて言いますみたいに速瀬にはとって欲しくなかった
『じゃぁ、俺、行ってくるよ…』
その一言だけで通じる
これから何処に行くのか
『えぇ、いってらっしゃい』
目を合わせることなく片手ビールを掲げ見送ってくれる
出口は速瀬を通り過ぎて彼方の向かっている正面にある
そこに向かって足を進める
『ありがとう…』
やっぱりどうしても言いたかった
今度は自分からお礼を言う
それはごちゃごちゃさっきまで考えていた頭でなく
とても素直な気持ちで自然に
普段の速瀬さんになってしまうとはぐらかされてしまうから…
今、一番素に近い彼女の前で言いたかった
◇ ◇ ◇
俺は今きっと玩具を買ってもらった子供より嬉しそうな顔をしている
思い出し笑いなんて変なことしてると思うけど
新幹線で揺られているだけの彼方にはすることがなかった
だから夜中のことを思い出しているって訳でもない
それは彼方にとって忘れられない出来事
「もしかして〜…」
無理矢理声を掛けられることもしばしば
「こんにちは…」
イエス、ノー返答はせず挨拶をする
「やっぱり本物だ…あ、昨日のライブ見ました。っていうかその帰りだよね!!」
不思議と歓声を上げない落ち着いた二人
大人しいこと連れ添っているちょっと勝ち気な子
隣の子はうなずくだけ頷いている
「私、っていうかこの子もだけど応援してます!!いろんな意味で…あぁ!まぁ…上手くはいえないんですけどファンなのは変わらないんで頑張ってください」
見て見ないフリをしていた世界が見えてくる
この大切にしていきたい気持ちを
一番にあの子に伝えたい
貰った玩具を片手に嬉しそうに窓を見る彼方
そのまま新幹線は着実に生まれ育った町へと運んでくれる