27.牙を剥く飼い犬
足音の持ち主は近寄りがたい空気を漂わせていた
長く続く通路をモデル級に足並みをそろえながら
軽快に鳴り響く淡々としたヒールをならす音
だが誰も寄せ付けない威圧感
足音はぴたりと控え室前に止まる
辺りには慌ただしく行き交うスタッフ
その中でこの女性だけは至って冷静でいた
コンコン!
規律の良いリズムで扉をノックする
『彼方様』と書いてある控え室ドアを再度叩く
「どうぞ…」
部屋から聞き慣れた低い声
だが関係なく言い終わる前にドアノブを回す
「ん?あ、速瀬さん」
眉間にしわを寄せた速瀬は詰まる空気と共に入る
これからスタジオ入りなのかヘアメイクさんがいた
速瀬に軽く会釈をし、また鏡と彼方とにらめっこ
テキパキとこなしていく様はさすがプロ
「…何?」
入ってきて微動だにしない速瀬を鏡越しに見る
メイクさんは気にする素振りもなく仕事をこなす
「申し訳ないんだけど…席外してくれるかしら。」
言葉にしてるものの申し訳ない気持ちなんてないんだろう
冷たい視線を投げかける
するとメイクさんは軽く微笑み控え室を出ていく
扉が閉まったのを確かめると
途端に増す空気は彼方に身体を包んだ
張りつめた沈黙はこれから他愛ない話をするのではないことを確信する
「…貴方私に言わなくてはいけないこと、あるでしょう?」
「言わなきゃいけないこと?
ワザとらしく首を傾げる
「さっき、担当から聞いたわ。新曲の内容変更申し出たんですって?」
怒りで速瀬の拳に力が入る
それにひきかえ彼方は無反応のまま机にひじをつく
逆撫するような態度に怒りは頂点へと達していた
「自覚してるの!!?確認したでしょ!!時間がないのよ…レコーディング、打ち合わせとか新曲発表マスコミだって、宣伝含めても時間が足りなすぎる!…今までのが台無しになったわ!!」
「………」
「もう、最近何考えているのか分からないわ…」
そう言い終わると頭を抱える
頭に血が上った速瀬は顔が赤くないる
彼方は静かにテーブルについていた肘を下ろす
「どうして?」
「俺はただ今回出す新曲に納得できなかっただけだよ?」
怒っていた速瀬に気付いてないのかサラッと交わす
平然とした顔で話を進めていく
「気にくわなかったんだ。…歌う側が気に気に喰わなくてってよくある話じゃん?だから大目に見てよ…?絶対間に合わせるからさっ!」
そう言うと軽く微笑む
彼方の反応を見ていた速瀬は言葉を失っていた
「そんなこと今まで一度も無かったじゃない…何がそんなに気に入らなかったのかしら?」
「不満はないんだ…プロデューサーには悪い事をしたと思ってるけど…今、手にかけている曲が一番歌いたい曲なんだ」
「………。」
「怖い顔。俺にそんな顔しても効き目がないことぐらい知ってるでしょ…」
軽口が宙に舞う
その軽口が逆効果になることを彼は知っている
速瀬の表情は見る見るうちに険しくなっていく
「こうやって融通きかないけどでも今までちゃんと仕事はこなしてきたでしょ?…信用してよ。期日までには絶対に完成させるから!」
根拠のない自信、無謀な要望
その瞳の奥には秘めた決心に満ちていた
「分かった?じゃぁ…邪魔しないでね」
テレビで見せるスマイルで速瀬に微笑みかける
見れば分かる
彼はお世辞でも笑っているとは言えなかった
「それじゃ、俺…これから撮りがあるんで」
言いたいことはたくさんある…昨日の今日だ
だけど感情を微笑みで隠している
彼方は静かに椅子から立ち上がる
そしてドアへと視線を移す
速瀬とはあえて視線を合わさない
またもやこの控え室に滞った沈黙が巡る
「俺は、たった一人のために歌ってきたんだ。」
速瀬の真横を通り過ぎる
「あんたにだけは絶対邪魔はさせない」
…ぱたん
扉の閉まる音が空しく響いた
静寂が彼方の低くとがった声に重みを増す
表情が固まったままの速瀬
温度が低下しきった控え室に佇む
「……くす、飼い犬に手を噛まれたって感じかしら?」
しかし子犬程度としか思っていないのだろう
魔法が解かれたかのように微笑む
それは決して微笑みではない…
ぞっとするような笑み初めて見る微笑み
「何も貴方の邪魔何かしないわ…勝手にそうなるのよ…貴方は知らないだけこの世界を」
微笑みとは裏腹に一瞬
彼女は悲しい瞳をしていた
それは何年ぶりだろうか
彼方位の年齢の若かった頃こんな悲しい憤りの無い感情があった
そんなのとっくの昔に忘れた
というか捨ててきた…
忘れなくてはいけなかった
この世界にこの感情はあまりにも不似合いすぎる
隠れた悲しい行き場の無い笑み
冷徹さに含まれた速瀬の想いは一人残された彼女しか知らなかった