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翌日、朝日が昇る頃にアクアとザックスは出かけ、岸壁に腰掛けて釣りを始めた。
大通りの露店では早くも開店の用意が始まっているが、アクア達が糸を垂れている所は至って静かで、ゆっくりと時間が流れている。
「たまにゃあこうやって、仕事忘れてゆっくり釣りすんのも良いもんだろ?」
適当に息抜きしねぇとなぁ、と言いながらザックスは酒瓶をあおった。アクアはそれを横目に、コーヒーを啜っている。
学者達が到着する当初の予定日は今日だ。ゴードンには、何かあったら呼ぶように頼んである。
「海釣りは初めてってことは、故郷に海は無かったのか」
「山奥だから、川ならあるんだが」
子供の頃はよく釣りに行ったな、と思い出す。釣った魚が夕食の席に並ぶたび、自分が釣ったのだと妹に自慢したものだ。
「へえ。何て村だ、そこ?」
「ラヴァン村っていう、小さな山村だ」
「お、あそこか」
良い所だよな、とザックスは言う。知っていることに驚いていると、昔の冒険者仲間が住んでいるのだと教えてくれた。
「デュラン=カタツキって東方の剣士でな。イアイって技なんか、速すぎて受けるの苦労したぜー」
「えっ」
幼なじみの父親の名前だ。そう言うと、今度はザックスが驚いた顔をした。
「そりゃ--凄ぇ偶然だな。……あそこのボウズは、今頃剣の修行の旅にでも出てんじゃねぇか?」
冒険者になっている可能性もある。今はまだ会いたくないと思いながら、アクアはその言葉に頷く。
会話が止まり、しばらくは沈黙が続いた。ザックスは釣り竿を揺らしながら、何かを考えているようだ。
「……なあ、一つ聞いていいか」
アクアは水面で揺れるウキを見つめたまま、口を開いた。ザックスがこちらを向いたのが、気配で分かる。
「あんたには--取り返せない過ちを犯したことってあるのか?」
「ある。今更どうしようもないのがな」
唐突な質問にも関わらず、ザックスは即答した。淡々とした口調で言葉を続ける。
「助けに行った相手に「自分は大丈夫」って言われてな。その言葉を真に受けて--死なせちまった。自己犠牲ってヤツだ」
そう言ってザックスは一度言葉を切った。釣り竿を一旦上げ、餌を付けなおす。
「テメェ勝手とまでは言わないが、残されるヤツらの気持ちも考えろよ、とは思うわな」
アクアは話を聞きながら、ヴァインに怒られた時のことを思い出していた。確かに自分は、自分の事しか考えていなかった。
「おまえはどうなんだ?」
「俺は--過ちが自分のせいだと割り切れず、人のせいにもできずに、ずっと逃げているんだと思う。だから……償いかたが見つけられない」
聖印を握りながらアクアは答えた。ザックスは黙って聞いている。
「もう一度歩きだそうと思っても、最初の一歩の踏み出しかたが、まだ分からない」
そう締めくくり、アクアはため息を吐いた。しゃべりすぎたなと思いながら、聖印から手を離し釣り竿を上げる。
糸の先には、小さなフグが掛かっていた。抗議をするように膨らむフグと目が合って、アクアは思わず苦笑しながら、海に帰してやる。
「アクア」
「ん? --って、ちょっ」
ザックスに呼ばれて振り向くと、乱暴に頭を撫でられた。
「悩むんなら、煮詰まんねぇ程度にしとけよー」
迷ったら格好つくほう選んどけ、などと言いながら撫で続ける。邪険に振り払うのも気が引けて、アクアが為すがままにされていると、突然背後から声を掛けられた。
「微笑ましい光景だねー」
「うわっ?!」
慌ててザックスの手から逃げて後ろを振り返ると、フェリルが立っていた。にこにこと上機嫌そうに笑いながら、アクアの隣に座る。
「おう、フェリルも一緒に釣るか?」
「僕は見てるだけでいいよ。--ん? どうしたのアクア」
「い、いつから見てた……?」
恥ずかしさで顔を真っ赤にするアクアを見て、フェリルはにやりと笑った。眼鏡の奥で、獲物を狙う猛禽類のように目が光る。
「ついさっきかな。魚逃がしてから、大人しく撫でられて目を細めてたところ」
「みっ、みんなには! 特にガデスには黙っ--」
「ガデス様とアルはまだ来ていないので大丈夫です。……私は見ていましたが」
いつの間にか来ていたヴァインが、そう言いながらザックスの隣で釣りを始める。アクアはそれを聞いて、ひとまず胸をなで下ろした。
ヴァインだけならまだ良い。もしガデスに知られたら、からかわれるに決まっている。
「え、ええと。ヴァインも釣りするんだな?」
「ええ。野営時の食料調達が主ですが」
そう言いながら、ヴァインはちらりとザックスのバケツを見た。今日は釣果で張り合うつもりのようだ。
「あいつらはどうした?」
「露店を見てから来るってさ。良かったねアクア」
「……」
フェリルに見られたのも間違いだったかも知れない。そう思いながら釣りを続けていると、フェリルの言葉通り、ガデス達も後からやってきた。昨日のイワシは最高だった、などと言いながら見物にまわる。
「--あら、どうしたのかしら?」
アルテミスの声に、アクアは顔を上げた。気が付けば太陽の位置は真上を少し過ぎている。
アルテミスの視線の先を辿ると、おぼつかない足取りで男が歩いてくるのが見えた。腕章が付けられた薄手のコートに帽子という、やや気温が高い今の季節のペルキアでは珍しい服装をしている。
「あれ、ユグドラシルの学者の服装じゃないか……?」
訝しげに言うガデスの言葉を聞いて、アクアは釣り竿を置いて立ち上がった。よろよろとこちらに向かってくる男に近付いて声を掛ける。
「どうした、大丈夫か?」
「あ--」
焦点が定まっていなかった目が、アクアを見たその瞬間に見開かれる。男は土気色をしたやつれた顔を恐怖に歪め、アクアを突き飛ばした。驚くほどの強い力に、アクアは思わず尻餅を付く。
「なん--」
「か、みへの、反んん、ぎゃ、逆、ぉ、を!だん、ど、ルグ、ま、じ、ん、魔神がッ--」
ぼこり、と男の腹が脈打ったと思った瞬間、鋭い爪を持った2本の手が、男の腹を突き破った。人にしては大きく、その肌は黒い。
「え--?」
状況が飲み込めないアクアの目の前で、肉を千切るおぞましい音をさせながら2本の手が腹をこじ開け、男が身の毛もよだつ断末魔を上げた。
大きく裂かれた腹の中から、黒い卵のような頭部が覗き、続いて出た足が地面を踏む。
後方で、アルテミスが短く悲鳴を上げたのが聞こえた。
まるで脱皮でもするかのように男の腹から這い出たのは、ゾンビに襲われた村で遭遇した魔神だった。顔に飛んだ血を拭いもせずに呆然と見上げるアクアを見て、魔神は笑う。大きく横に裂けた口は、まるで下弦の月のようだ。
「アクア、回避を!」
「--ッ?!」
ヴァインの声で我に返り、アクアは慌てて地面を転がった。その真横を鋭い爪が薙ぐ。アクアは転がった勢いで立ち上がり、背に手を伸ばしかけて、武器を置いてきたことに気付いた。
「退いてな!」
声とともにザックスが躍り出た。その手には、月のように輝く短剣が握られている。
魔神はそれに気付いて振り向いた。しかし爪を振りかぶる間もなく、ザックスが魔神の膝を踏み台にして掛け上がり、2太刀でその首を切り落とした。
魔神の首は地面に落ちる前にその体共々黒い粒子になって消え去り、後には、苦悶の表情で息絶えた男だけが残された。
(8に続く)