崇り
午後十一時。
自室の机の上に置いてある携帯電話が、流行りのアーティストの曲に合わせて規則的に震えていた。
それにふと気付き、能見篤司はシャーペンを走らせていた腕を止める。ふと携帯のサブディスプレイに浮かぶ文字を見ると、そこに表示されていたのは――
「ん……北原からか」
北原和哉――彼は和哉の中学時代の友人の一人で、別々の高校に進学した今でも時々連絡を取り合っている程の仲だ。
そんな彼だが、こんな時間に電話を掛けてくるのは珍しい。普段なら、メールのやり取りだけで済ませようとするはずなのだが――何か、急ぎの用でもあるのだろうか。
まあ、実際に話を聞いてみれば分かるだろう。そう思い至った篤司の指は、通話ボタンを押していた。
「もしもし」
「……おい」
さて、電話に出たのはいいものの、電話の向こう側にいるのであろう和哉の様子がおかしい。いつもの彼ならば、もっと明るい声で絡んでくるはずだ。
それなのに今の彼は、それこそ何か〝見てはいけない物を見てしまった〟かのような声色をしていた。
そして、その彼の予想は――遠からず、当たることになる。
「今やってるニュース、見たか? ほら、××テレビの……」
「えっ、見てねぇけど」
和哉が言っているテレビ局では、この時間は確か一日に起きたニュースを纏めて伝える報道番組を流しているはずだ。
「なら今すぐ見ろ! 多分、まだやってるはずだから」
「……おい、ちょっと待てよ。一体何があったんだよ!?」
「いいから早く! 俺がどうこう言うより実際に見た方が早いから」
――どうしようもなく、嫌な予感がする。
篤志は携帯を耳に当てながら、自室を出てリビングに駆け込む。
両親はもう既に眠りに落ちているのか、テレビどころかリビングの明かりさえも点いていなかった。逸る思いのまま、明かりも点けずにテレビの主電源ボタンへと手を伸ばす。
そして、和哉に言われたテレビ局にチャンネルを回し――篤志は、言葉を失った。
「おい……何だよ、これ」
まず目に飛び込んできたのは、【増水した川に流され、付近の高校生が死亡】と綴られた画面上のテロップ。その後画面が切り変わり、増水した川沿いだと思われる河川敷からの中継が流れ始める。そして、その下には犠牲者の名前が、レポーターの淡々とした報告とともに表示されている。平時ならば、現代社会で時々起こる不慮の事故の一つとしてしか認識されないだろう。
ただ――
「なんで……なんでアイツが、誠司が死んでんだよ」
表示されている犠牲者の欄にあったのは、篤志と和哉の中学時代の友人の一人、鷹野誠司の名前に間違いなかった。
「なぁ、おい!!」
「ったく……誠司まで、何なんだよ」
「……えっ?」
やり切れない思いをぶつけようとしたその矢先、和哉が気になる事を口にしていた。
「おい、どういう事だよそれ。お前、今のでわざわざ電話掛けてきたんじゃないのかよ!」
どうなってんだよ、何か言えよ――そうやっていくら問い詰めても、和哉から自分の望んでいるような答えは返って来ない。それどころか、和哉には電話に出てからの篤司の言動が妙に引っ掛かっていて仕方なかった。
――さっき和哉が漏らしたあの一言って、まさか。
いや、出来る事なら、自分の思っている事が当たっていて欲しくはない。何の運命の巡り合わせか、そんな事あったら堪ったものではないのに。
もしあの和哉の一言が、まさしく〝字面通りの〟内容だとしたら……。
「なぁ、頼むから何か言ってくれよ」
掛ける声が弱々しくなっているのが、自分でもはっきりと分かった。
単なる自分の思い過ごしであって欲しい。友人が死んだのを目の当たりにして、思考回路が少しおかしくなっただけであって欲しい。
縋るような心持ちで、ただ「何でもない」と言ってくれればそれだけで良いのに。
「……死んだの、実は誠司だけじゃないんだっての」
「……はぁ?」
認めたくなかった――いや、認めようにも自分の心がそれを拒絶していた。
何を言っているのかと、ふざけんなよと。一言言って、殴ってやらなければ気が済まなかった。
「冗談だろ? 止めてくれよ、こんなタイミングにさ。だいたい、冗談言うにしてももっとマシな事言えって」
「違うって」
空元気に、和哉の一言が鋭く突き刺さった。
その声は、僅かに震えていた。
「冗談じゃないんだって。……マジなんだよ。誠司のニュースの一つ前にやってたんだけどさ――」
そして一呼吸置き、
「冬弥もなんだよ、死んだの」
予想していた事が、事実となって篤司の胸に圧し掛かった。和哉が電話を掛けてきた理由は、誠司ではなく冬弥が死んだからだろう。そして、その後誠司が死んでいると分かった訳か。嘘でないのは彼の口調から明白だった。
もう「嘘だろ」とも「ふざけんなよ」とも言えない。糾弾する気にも、冬弥の死の真偽を確認する気にもなれなかった。自分の友人が、同じようなタイミングに、別の事件で二人もこの世を去った――こんな事、普通に考えたら有り得ない事態だった。
だが今、その〝有り得ない〟事態が現実に起こっている。それは、もはや篤司の理解の範疇を越えるものだった。
篤司は何も言わずに電話を切り、その場で頽れる事しか出来なかった。
篤司は、あの日以来一度も家から外に出ていない。挙句、ここ二日はまともに自室も出ていない。
外に出るのも億劫だった、誰の顔も見たくなかった――というのが最たる理由だが、彼が家の中に篭っているのはそれだけが理由じゃなかった。
事の端緒となったのは、和哉からその事実を聞かされた翌日の事。
友人二人の死を未だ完全に受け止められない篤司は、事実関係を確かめるべく自室のパソコンで今回の事故――あるいは事件について色々と調べ回っていた。
鷹野誠司はあの日見た報道通りの原因で死んでいた。遺体が発見されたのは篤司たちの通っていた中学校から下流に数キロほど行った所にある鉄橋の袂。発見された時には既に心肺停止状態で、警察側は上流の大雨で増水した川に誤って転落し、流されたのではないか――という見解を示している。
事実、遺体が発見された川では遺体発見の前日から雨が降り続いていた。さらに、関係者や周辺住民への聞き込みで得た誠司の遺体発見前の動向から、彼が川に転落したのは篤司達の通っている中学校のすぐ近くだと推測されている。が、転落した時の目撃者が誰もいない以上、真相は闇の中だ。
冬弥――中原冬弥もまた、誠司同様昨夜遺体で発見されたという。
遺体が発見されたのは、これまた篤司達の通っていた中学校周辺にある小さな山の中だった。山道から少し外れた所で、別の事件の捜査に当たっていた警察官が発見したのだとか。遺体はポリ袋に包まれた状態発見され、死後硬直の状態からおよそ死後一日が経過していたそうだ。特に目立った外傷は見当たらず、死因の特定を急いでいるという。
誠司にしろ冬弥にしろ、事件(事故)が起きた原因ははっきりと分かっていない。
公には分からないながら、それでも何かに憑かれたように調べ続けた結果――篤司はインターネット上にある巨大掲示板で上げられていた、取っ掛かりが今回の状況に似ている一つの事件に辿り着いた。
――十数年前、壮絶な〝いじめ〟を受けていた女子生徒が、その復讐として自分をいじめていた連中を〝崇り〟殺した事件に。
そこに書かれていたのは、「こんな事件、本当に有り得るのか」と思わせる内容のものだった。
ある地方の中学校に、人を寄せ付けない雰囲気を持ち合わせた、所謂〝根暗〟とされる女子生徒がいた。
その女子生徒には入学当初からずっと友人らしい友人がおらず、入学から卒業まで喋る姿を見た事がなかったという同級生も少なくはなかった。当然、休み時間や学校行事等ではいつも一人で過ごしていたのだという。
そして、そんな性格であったが故に彼女は――――『学校』という閉じた社会集団において自然と淘汰される対象になっていった。つまり、自然発生的に〝いじめ〟が始まっていたのだという。
最初は一部の女子生徒だけが、しつこく絡む等軽い嫌がらせを行う程度だったらしい(彼女に関わろうとしない者が大半だったという)。だが、やがてその嫌がらせの類の行為はクラス、あるいは彼女の属する学年の中心となる女子の集まるグループへと伝播していった。
そして、その時期を境に〝いじめ〟の内容は加速度的にエスカレートしていく事になった。それこそ、あまりに執拗かつ凄惨な方法のせいか、彼女をいじめているという事実が校内全体に知れ渡るほどにまで。
それでも、誰も動く者はいなかった。
当時、まだその自治体にはスクールカウンセラー制度が導入されておらず、唯一の頼みと言っても過言ではない教職員でさえこの事態を黙認するという始末。彼女の味方は、もはや校内には誰もいなかった。
それでも、彼女は必死に抗い続けた。
卒業までの三年間を通して、遅刻や欠席、早退はほとんどゼロ。学校行事も休むことなく、出席義務のある物には全て参加し続けたという。……まるで何を言われようとも、ここで逃げたら自分をいじめている連中の思う壺だと言わんばかりに。
そして、卒業式を終え、四月を間近に迎えたある日に――――〝事件〟は起こった。
彼女はいじめの中心人物となった女子たちの居場所を探し出し、人気の無い路地裏で待ち伏せて……一人残らず、手にした包丁で何度も何度も滅多刺しにした。
いつまで経っても帰宅しない彼女たちを心配して、彼女たちの保護者が警察に捜索願を出したのがその日の夜のこと。そして捜索願が出された直後、たまたまそこを通りがかった近隣住民から異臭がするという一一〇番通報があり、警察が駆け付けたが――時既に遅く、彼女たちは全員息を引き取った後だったという。
現場に残された凶器をDNA鑑定に掛けることより、犯人――――すなわち、いじめを受けていたこの女子生徒は、事件発生から一日足らずで警察に身柄を拘束された。
彼女のその後の供述によれば、この事件に関しては大筋で容疑を認めているとのこと。
ただ、彼女は〝祟り〟を仄めかすような発言を連発し、正常な精神状態でないと判断された事から医療少年院に送致され、その直後、自ら命を絶ったのだそうだ。
その事件――〝崇り〟に関する記述は、これで終わっていた。
ネット上の書き込みである事から信憑性の程は疑わしいだろう。とはいえ、書き込まれていたその内容は篤司の心を狂わせるには十分過ぎるものだった。
――殺された女子連中と俺たちとで、やっている事がまるで同じじゃないか。
篤司もまた、中学時代に今の書き込みにあったような『誰かをいじめた経験』があった。正確には、篤司〝たち〟だが。
ターゲットはどちらかといえば内向的で大人しく、友人が殆どいなくて、かつ外見が女子みたいな感じの同級生の男子生徒だった。きっかけが何であるか忘れたが、篤司としては、いつのまにか〝それ〟は始まっていたという感覚だった。
主にいじめを行っていたのは、今回亡くなった二人も含めた篤司たち四人だ。最初はそれこそ嫌がらせの範疇に収まるかもしれないような事しかやってなかったが、今思えば、いつしかそれは「犯罪」と呼んでも相違ない程度に――それこそ、あの書き込みにあった女子生徒のような惨い手法にまで――エスカレートしていった。
周りの連中の中には面白がっていた奴も沢山いたし、それ以外の生徒や教職員たちも本気で止めようとしていなかったんじゃないかと思う。スクールカウンセラーも自分の中学校には派遣されていなかったらしいし、読み返せば読み返すほど――そして、当時の事を思い返せば思い返すほど、自分たちのやってきた行為が書き込みであったような〝いじめ〟と同じくらい惨い行為なのだと痛感させられた。
ただ、一つだけ書き込みと全く異なる点があるとすれば、それは『その男子生徒が、校舎裏の倉庫で首を吊って亡くなっていた』事だろう。
だが、遺書等は結局発見されず、警察の捜査も証拠不十分で打ち切られ、学校や所属自治体の教育委員会側も隠蔽に徹し、マスコミ等でもさして取り上げられず――結局この一件はいつの間にか有耶無耶にされていた。表向きには、恐らく多くの人間がそう思っているだろう。
だが今回、自分たち四人の中であの二人が死んだ。
災害やら甚大な事故やらが起こった訳でもない。なのに、同じ時期に自分の知っている――それこそ友人が、二人も不可解な事件で亡くなっているというこの有り得ない状況。
こんな時期にあんな書き込みを見たからなのかもしれない。それでも、二日三日と自室に籠っているうちに、篤司はこう思わずにはいられなかった。
まさか、二人が死んだのって――
そう思い至った瞬間、床の上に置きっぱなしだった携帯電話が、何日振りかに震え出した。
流行りのアーティストの楽曲のメロディが、沈黙の中で無機質に唄われる。だがそのメロディも、ほんの数秒足らずでピタッと止まってしまった。
(……何だよ、こんな時に)
携帯のサブディスプレイに浮かぶのは、【新着メール:1件】という文字のみ。
携帯を手に取り、仕方なく中身を確認しようとした――まさに、その時だった。
再び、流行りのアーティストの曲のメロディに合わせて、携帯が震え始めた。しかも今度は――
「ったく、こんな時に一体何なんだよ」
着信だった。しかも、北原から。
今は誰にも会いたくないし、誰の声も聞きたくない。ましてや自分の知っている奴の声だなんて、もっての他だった。
だが、自分の指は通話ボタンを押してしまった。
携帯電話を耳に当てる。電話の向こうから聞こえてくるのは、北原の声ではなく、ただの雑音だけだった。
「……おい、どうした!」
呼び掛けてみるが、北原からの反応はない。
質の悪い悪戯かとも思ったが、それにしてもやる時期と相手と手口を間違えていないか。
それに、よくよく雑音を聞き取ってみると――
「……『ぴちゃっ、ぴちゃっ』?」
湿った〝何か〟が地面に垂れ落ちる音がする。そして、それを踏んでいく音も僅かながらに聞こえてくる。
――アイツの身に、一体何が起きているんだ。
「あ……つ……し……」
「おい、和哉っ!」
僅かに北原の声がした。だが、その声はくぐもっていてよく聞こえない。
――くそっ、何がどうなっているんだ。
「何やってんだよ! しっかりしろよ、なぁ!?」
ぐぼっ。
電話の向こうで、口から何かを吐き出したかのような音が聞こえてきた。それを聞いた篤司の胃からも込み上げてくるものがあったが、口許に手を当ててどうにか喉元で押し込む。
「も……う、お……ぐぼっ……俺……っ……」
――まさか、和哉まで。
いや、もしそうだとしたら、最後は俺が……。
これがあいつの、彼の起こした〝祟り〟なのか。こんな事が、本当にあっていいのか。
「…………くそっ!!」
気付いた時には、もう携帯を持ったまま部屋を飛び出していた。
まともに靴を履くのももどかしい。玄関に置いてあったサンダルをそのまま突っ掛け、体当たりするような勢いで扉を押し開け、外に出る。
外は既に薄暗くなっていた。黄昏色に染まった空の下、どこに行く当てもなく、ただひたすら駆け続ける。
和哉を助けに行こうにも、当の本人がどこにいるかが分からない。
和哉が死んだのが、もしあのサイトの書き込みにあるような類の〝崇り〟のせいだと言うのなら、次のターゲットは恐らく自分だ。だが〝崇り〟から逃れるにはどうしたらいいか――まるで見当が付かない。
掻き立てられる恐怖感、泣き叫びたくなる絶望感。
過去にちょっといじめをやっただけで、今自分たちがここまで苦しめられる必要があるのだろうか。そこまで復讐に固執させるほど、自分たちは憎まれ、恨まれていたのか。
そもそも、何がそんなにいけなかったのだろうか。
「それに大体、自殺だって――――ッ!!」
そこから先の言葉が、紡がれる事は無かった。
いや――正しくは、掻き消された。
何故なら、篤司のいる数メートル先には――
「な……何なんだよ、お前」
篤司達の通っていた中学校のセーラー服を着た〝少女〟が立っていた。目は死んでいて、右手には街灯に照らされて光るナイフが剥き出しで握られている。
体が反射的に警鐘を鳴らしている。今すぐに逃げるべきだと。
だが、後ろに退こうにも、まるで見えない糸に縛り付けられたかのように身体が動かない。
逃げなきゃきっと殺される。それは重々分かっている。
だが――それでも、身体は動いてくれない。
「っざっけんなよ!! 早く!! 動けよ!! 動けっての!!」
そうこうしているうちに、その〝少女〟が一歩、また一歩と篤司の下へと歩み寄ってくる。
じりじりと、それでも着実に。ひたり、ひたりと歩み寄ってくる。
「おい」
また一歩。
「止めろって……」
また一歩。
「なぁ……下ろそうよ、手」
ようやく、篤司も一歩だけ後退りする事が出来た。
だが、聞く耳を持たないのか、〝少女〟もまた一歩と変わらないペースで歩み寄ってくる。
「い……」
いい加減にしろよ――そう言おうとしたが、言えなかった。いつの間にか、〝少女〟がもう篤司の目の前まで近付いていたのだ。
「な、お……お前」
〝少女〟は篤司の顔を這うようにして見回してきた。まるで身体のあちこちを蛇がすり抜けていくかのような不快感に、汗がすーっと引いていくような感覚に陥る。
思わず、息を呑む。……こいつ、正気じゃない。
ふと、〝少女〟が篤司の事を見回すのを止めた。その姿はまるで、与えられた玩具で遊ぶのに飽きた幼い子どものようで――。
「おい、止めろって……」
そんな〝少女〟は、手持ちの刃渡り数十センチのナイフを、じわり、じわりと近付けてきた。
「お、おい……」
鈍く光る刃が迫る様が、鮮明に篤司の目に鮮明に映る。
このままではどう足掻いても刺されるという状況の中で、篤司はまだ逃げ出す事が出来ずにいた。じりじりと後退りしようにも、見えない壁に周囲を阻まれているようで――。
刃が残り数センチで篤司の身体に達する所で、ナイフがぴたりと動きを止めた。
死の恐怖と隣り合わせ、歯をがたがたと言わせる篤司に向けて、〝少女〟は不気味に頬を吊り上げる。
篤司は、逃げる気力はおろか喋る気力さえ失せようとしていた。そして、そのままの表情で〝少女〟は囁きかけてくる。
「わたし――」
――――、と。
「……い、いま何て」
ふふっ、と〝少女〟は今まで見たこともないような不気味な笑みを浮かべていた。――こいつ、ただの〝少女〟なんかじゃない。
彼女の正体は、
そして、こうなった全ての原因は――
――その全てを悟ったその瞬間、篤司の身体からはだらりと力が抜けていた。