第六章 探索
先に喫茶店を後にした創は、傘をさすとポケットに手を突っ込みながら歩き出す。
向かう先は……河守総合病院だ。
創は見慣れた場所に赴き、まるで自分の家に帰るかのような気持ちで入り口から入った。
「あら、創くん。久しぶり。学校はどう?」
受付の看護婦が話しかけてきて、創は親しみやすい笑顔を見せる。
「こんにちは。お久しぶりですね。学校はとても楽しいですよ」
「そう。良かった。今日はどうしたの?」
「はい。知人のお見舞いに来たのです」
「あら、そうなんだ。場所はわかる?」
「はい。それでは」
「うん。いつでも遊びに来てね」
創は軽く手を振ってエレベーターに乗り込む。押した番号は……5。
五階で降りると、ドアの近くに貼られてある番号札を見落としなく確認し探していく。
そして目的の場所に来ると、ニヤッと笑みを浮かべてノックした。
その部屋の番号は、502号室だ。
「はい」
中から女性の声がし、創はそっとドアを開け中に足を踏み入れた。
「こんにちは」
創は爽やかな笑顔を見せる。
「こんにちは。よく来てくれました。こちらへどうぞ」
巴も礼儀正しく穏やかな声で招き入れ、創をベッドの隣にある椅子へと誘う。
「はい」
創は笑顔を絶やさず椅子に座って顔を向ける。
「すみません。ふと思ってきたものですから、何も持って来なくて。今度来るとき持ってしますね」
「いえ、そんなかしこまらないでください。何も持って来なくて良いので、いつでも気軽に来てください」
巴はベッドの上で嬉しそうに微笑みながら両手を胸の前で振る。
「ありがとうございます。まだ御病気は治りませんか?」
「はい……。でも、先生は治る傾向になっているとおっしゃっていましたので、きっといつか治るはずです」
「そうですか、それは良かったです」
創は心の中でちょっとだけ哀れに思っていた。
「あの、今日翔くんは来ないのですか?」
巴は少し心配気味に問いかける。創は少し迷ったが、優しい笑みを浮かべて答える。
「彼は今日はちょっと用事があるそうで来られるかわからないそうです。心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうですか……」
巴は視線を落とし残念そうにうつむく。その表情に創は軽く舌打ちした。
思ったよりも深更しているようだ……。
「そういえば、いつも検査のない時間のときは何をしているのですか? やっぱり本ですか?」
巴はうつむくのを止め、顔を上げると笑みを見せ答える。
「そうですね。やっぱり本が多いですけど、たまに勉強したり、あとパソコンで小説を書いたりしますよ」
そこで創の眼が変わった。
小説……?
「へぇ、小説ですか。それはおもしろそうですね。あ、そのパソコンで書いているのですか?」
ベッドの反対側にある台の上に一台のパソコンが置かれてある。
「はい、そうですよ。暇なときはやっぱりこれで小説を書く時間が多いですね。自分のしたいことを置き換えて書いて、ここを退院したら実行しようと思うんです」
「それはいいですね」
創はちょっと迷ったがお願いしてみた。
「よろしければ、その中身を見させてもらえませんか?」
「えっ?」
その一言で一瞬で巴の顔が赤くなる。
「い、いや、大しておもしろくもないですし、そ、それに、私文章ヘタなので理解できないと思いますし……で、できれば見せたくないな……って思ってて……」
創はじっと巴を鋭い視線で見ていたが、ぱっと穏やかな笑顔に戻った。
「いえ、嫌ならいいんですよ。僕も無茶なお願いをしてしまいすみません。やっぱり恥ずかしいですよね」
「……すみません……」
「いえ、構いませんよ。僕も恥ずかしいと思いますし」
創はチラッと腕時計を見る。
そろそろか……。
「それでは、僕はこのへんで。これから用事がありますので。またお伺いしてもよろしいですか?」
創は椅子から立ち上がり頭を下げる。
「あ、はい。もちろんです。いつでも良いので来てください」
「ありがとうございます」
創は最後まで穏やかな笑みを浮かべ、巴が手を振るのを見届けドアから出る。
ドアが閉まった瞬間、笑みを消し考えにふける。
あのパソコンの小説が気になるな。それと翔に対する意識。やはり思ったよりも進んでいる。早急に手を打っておくか……。
創は一つ軽く息を吐く。
まずはあそこに行くか……。
創は次の目的地へと向かうことにし足を進めた。
目的の部屋の前に来ると、手を上げてノックした。しかし、中に誰もいなのか返事がない。
いない? まだ診察が終わらないのか?
創はノブを捻り中に入る。
多くの書類で溢れ、窓際の前にある机は書類でいっぱいだった。
創はその前に座り、足を組んで適当に一枚の書類を手に取る。
この子の病気の進行具合は思ったよりも悪いな。早急に手を打たなければ……。
そして次の書類を手に取る。
この子は回復しているな。近いうちに退院か……。
創はある程度の書類の見方がわかる。慎先生に教わったし、看護師にもいろいろな話を聞いて覚えた。暇さえあれば医学書や医者についての本も読んだ。
創はいろいろな書類を勝手に読み、そしてある一枚に目が止まった。
ん? これは……。
書類の名前のところに春風巴と書いてある。
もしかして、彼女のか……?
創がその書類に手を伸ばし掴んだ。
そのときだ。
「人の書類を勝手に見るのは関心しないな」
そこでピタッと手を止め、若干の苛立ちを込めながら振り返る。
そこにはドアを背もたれにし立っている慎先生がいた。
創は聞こえないように軽く舌打ちするといつもの穏やかな笑顔を見せて立ち上がる。
「先生お久しぶりです。近くまで通ったので遊びに来たんですよ。お元気そうでなによりです」
慎先生は軽く肩を上げ嘆息して近づく。
「それは嬉しいが、本当に会いに来たのは誰かな」
慎先生は手に持っていたファイルを置きコーヒーを作る。
創は軽く含み笑いをする。
「僕は先生に感謝してるんですよ。こうやって完治でき、学校にまで通うことができるようになったのは紛れもなく先生のおかげです。本当にありがとうございます」
慎先生はコーヒーを飲みながら、もう一つを創に渡し椅子に座る。
「いえいえ、少しでも患者の病気を治す手伝いをするのが仕事だからね。学校はどうだい? 楽しいかい?」
創はパイプ椅子を出し座ってコーヒーを含む。
「ええ。とても楽しいです。みんな優しいですし、何より勉強ができるので嬉しいです。早く医学部のある大学に進学して医者になりたいですね」
慎先生は軽く笑みを浮かべる。
「医者ね。そう簡単なものではないが、アドバイスするとしたらこれかな」
「なんですか?」
創は興味津津に耳を傾け待つ。
「……医者は毎日が地獄だよ」
その言葉に創は笑みを消し真剣な目つきになる。
「どういうことですか?」
「医者はあらゆる苦しみに襲われる。仕事の大変さの苦しみ、時間の無さの苦しみ、責任の苦しみ、患者の叫びの苦しみ、悲しみの苦しみ、別れの苦しみ、そして……無力さの苦しみ」
慎先生は立ち上がると外を眺めながら語る。
「特に最後の無力さに痛感させられる。この世にどんな名医や凄腕の医者が居ても、治せない病気がある。かく言う僕も、若くも名医や期待の新人など言われているが、治せなかった患者は数多くいるし、目の前で死んだ者もいる。そこで自分の無力さ、そして命の重さが圧し掛かってくる。その重圧は、思いのほか一番重く、そして怖い。初めはそれだけで数週間部屋に閉じこもったこともある」
「ふふ。そうですね。でも、僕なら――」
「人は脆い。体も、心も……。だからこそ、人は死ぬんだ。まだ君は人が死ぬということを知らない。そんな人に……」
慎先生は鋭い目つきで睨みつける。
「気安く医者になるなどと言ってほしくないな」
その威圧感に創は一歩あとずさる。しかし、自分のプライドの為にぐっと堪える。そしていつもの笑みを浮かべた。
「確かに慎先生の言うとおりです。僕の軽率でした。まだまだ勉強が足りませんね。またいろいろ教えてください。それでは、僕はこれで」
創は一礼し、部屋から出て行った。
慎先生は創を見送り、椅子に座って巴のカルテを見る。
「彼は何を考えているんだ……」
創は外に出ると、まだ降っている雨を見つめ、そして傘をさすと歩き出した。
危ないな……。