第五章 焦燥
雨が降り続くその日、翔は巴の部屋に訪れることなく家路に着いて行った。
今の気持ちのまま、巴に会いに行く気になれなかった。
もうすぐ、いなくなってしまう……。
そう思うだけで、翔の心に重く何かが圧し掛かってくる。
おそらく、それは責任だ。
自分が幼いころに巴を無茶させたという責任。
そして、巴のために、悔いのない残りの人生を送らせないといけないという責任。
この二つの責任が同時に、精神をまいらせるほどの重圧をかけてくる。
これから自分は何をすればいい……。
誰かに相談すれば、巴のために行動しろというのがほとんどだろう。
そんなことは分かっている。冷静を欠いた自分でもわかっているつもりだ。
ただ、そのために何をしたらいいのかがわからないんだ。
巴は同じ17歳。自分でもまだやりたいことはたくさんある。
なのに、巴のしたいことがたった数日でできるはずがない。
まして、巴は幼いころから様々なことを禁じられてきた。
言わば、巴はやりたいことなど、何一つ成し遂げていないのだ。
その中から限定して選べなど、できるはずがない。
「くそっ!」
翔は地面に向かって持っていた傘を投げ飛ばした。
飛ばされた傘は風圧で無様に転がり、クルクルと回る。
そして上から降りつけてくる冷たい雫が容赦なく襲いかかる。
雨が翔の頭から制服を濡らしていき、体温を奪っていく。
どうしたらいいのだろうか……。誰か指示をくれ……。
もう、自分にできることが想い浮かばないんだ……。
そのとき、頭から降る雨が遮られた。
翔はゆっくりと後ろを振り返る。
そこには黒い傘を持って翔を入れている創の姿があった。
「濡れますよ?」
その言葉に反応することなく無言を続け睨み付ける。
創はやれやれといった感じに息を吐き、近くにあった傘を拾うと翔に渡す。
「ちょうど良かった。ちょっと、付き合ってもらえませんか?」
創はポケットにあった白いハンカチを翔に差し出す。
翔は躊躇ったが、そのハンカチを受け取りうなずいた。
二人が訪れたのは病院に近い場所にある喫茶店だった。
雨の影響か、店の中は閑散としており、客もそこまでいなかった。
二人は奥の席に着き、向かい合って座った。
「何か頼みますか? 気にしなくても、僕が誘ったのですから、今回はおごります」
創が穏やかに笑みを浮かべる。
翔は少し考え込んだが、ホットコーヒーを注文し、創はココアを頼んだ。
注文の品が届き、創が一口啜って会話が始まった。
「……慎先生から聞きました」
その言葉で翔の体がびくっと反応する。
「巴さん、容体が悪いようですね。病気が思ったよりも進行してるらしいです」
「……なんでお前が知ってるんだ?」
創は軽く笑って答える。
「僕も数少ない巴さんのお友達です。そして、同じ病気を患ったものとしてね」
本来、患者の病状やその他のプライバシーに関わることは家族以外には他言できないはず。
翔の場合は家族と同等の信頼があるからこそ知らされた。創にも同じくらいの信用性があるとは思えない。
「ま、そこまで敵対しないでください。もちろん、僕も元入院患者として、プライバシーを侵害するつもりもないですし、話したところで僕に利益はありませんから」
それを聞き翔は一旦そのことに関することを考えるのを辞め、創に問いかける。
「……それで、ここに付き合わせて俺に何の用だ。世間話でもしたいのか?」
創は再び笑みを浮かべる。
「ええ。そのつもりです。前にも言いましたが、君とはもっと仲良くなりたいのです。僕の初めての男友達ですから」
そしてココアを啜る。
「僕も入院生活は長かったです。小中と、ろくに学校にも通えませんでしたから」
創は爽やかな笑顔を見せる。
「でも心配しないでください。もう病気も完治しましたし、普通の生活を送る上で障害もないのでいつもどおりに接してください。僕もその方が嬉しいので」
創はウエイトレスにココアのおかわりを頼み翔に顔を向ける。
「さて、次は翔くんが話す番ですよ。せっかくの機会ですから、翔くんのことよく知りたいですし。でも、いきなり話せと言われても困りますよね。では何か質問しましょう。そうですね……」
創は笑みを消し、冷たい目を向けて翔を見る。
「死、というものを考えたことは……ありますか?」
「っ」
創の目を見て、そして今の言葉で、翔は心臓を掴まれたかのような息苦しさを覚えた。
その質問は慎先生と同じ……。
そう考えるとあのときのことが蘇り、そしてあの言葉が反復する。
翔は視線を下げ、うつむきながら黙り込む。
そんな翔を見て、創は不敵な笑みを見せた。
「僕は何度もあります。いえ、死に近いものを感じたこともあります。あなたはご存じですか? 病気の苦しみを。いえ、知るはずないでしょうね。わかるのは重い病気にかかったことのある人だけ。理解できるのも、同様の人だけです」
創はおかわりのココアが届き、ウエイトレスにお礼を言い一口啜る。
「あのときの苦しみは今思い出しても怖いものです。満足に息もできず、締め付けられ、苦しみが広がり、何度も血を吐き、身悶えても続く苦痛。……何度死にたいと思ったか、何度殺してくれと頼んだか、数えても霧がない。この苦しみがいつ終わるのかと、憔悴しきった体でそればかり考えてました」
創は未だに黙り込む翔に視線を向ける。
「僕の言いたいことは……今言った苦しみを、巴さんも感じているということです」
その言葉に翔はぎゅっとズボンを掴みながら拳を握り唇を噛んだ。
今言った苦しみが本当なら、創と同じ病気を抱えている、いつも明るく元気に振る舞っている巴も、見えないところで苦しみに耐えていたのだ。
そうとは知らず、自分はただ回復しているとばかり思い込み……。
「……うっ……くっ……」
翔の体が震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいか、それとも悔しさのせいか……。
ただ、自分は愚かだと、改めて思い知らされたのかもしれない。
何も知らず、知ったかぶりの自分で、傲慢になり一番近い存在だといい気になる自分に腹が立った。そして情けない気持ちになった。
創はココアを啜り、申し訳なさそうに笑顔を見せ口を開いた。
「すみません。また僕が話してしまって。こうやって同い年と話すのは初めてで、少し興奮しているのかもしれません。さ、翔くんも何かはなしてください」
翔はそっと顔を上げ、穏やかに笑顔を見せる創を見る。
そしてゆっくりと口を動かした。
「……俺はお前みたいに病気というものを知らない。かかったこともないし、実体験もないから、偉そうなことはいえない」
創はニコッと微笑む。
「健康は良いことです」
翔は続ける。
「でも、その分、俺はお前らのような入院している間に、この世間のことを知った。友達の作り方、遊び方、接し方……。お前たちの知らないことを、俺は学んだ」
その言葉に創の笑顔が消えた。
翔はまだ続ける。
「だから、俺は、そのことを教えてやりたい。世間は、こんなにも楽しいものだということを……。こんなにも、素晴らしいということなんだと。そのことを、俺は巴に教えてやりたい」
翔はじっと真剣な目を創に向ける。
創はその眼に対し、じっと視線を外さず睨み返す。そしてふっと笑顔を見せ、持っていたカップをソーサーの上に置いた。
「それは良いことですね。是非僕にも教えてもらいたいです。でも、僕はこれから知っていくことなので、必要ないかもしれませんね」
創は立ち上がると、レシートの上に小銭を置く。
「それでは、すみませんが、先に帰らせていただきます。これから用事がありますので。今日はいろいろ話せて楽しかったです。またこのような機会があればいいですね。それでは」
創は鞄を持って出入り口へと向かい外に出た。
翔は目の前にあるコーヒーに目を向けていた。
そうだ。それでいいはずだ。俺は病気というものを知らない。苦しみも、つらさも、死というものを……。
でも、その分知っていることもたくさんある。
入院していたらわからないことを、俺は長い年月をかけて学んだはずだ。
そのことを、できる限り教えてあげればいいんだ。
翔はようやく強張った表情を緩め、ふっと息を吐き小さく笑みを浮かべた。
ようやく自分のするべきこと、そして役目がわかり、安堵してしまった。
自分の犯した過ち、そして責任は重いかもしれないが、できることをやればいいのだ。
翔はそっとコーヒーカップを手に取り口元に持っていく。
温かかったコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。